2025/11/19—水泳、イヴ・K・セジウィック、環ROY。
先週末にサーシャが入院して以降、肉体的にも精神的にも追い込まれに追い込まれた日々を過ごしてとうとう月曜日にぶっ倒れた。はいつくばりながらオンラインでゼミには参加したけれどほとんど布団で横になっていた。「また鬱に逆戻りか〜踏ん張りどころなのに〜」と絶望。だけど、火曜日のTAは往復四時間の通勤にも耐えてなんとかこなした。疲労が蓄積すると認識と思考が麻痺するらしい。疲れすぎたときこそ誰かと喋って紛らわしたいのに、疲れすぎて誰かと喋るとトラブルを起こしてしまう。僕が身につけるべきなのは我慢強いストイシズムではもはやなくて、適度な頃合いを見極めて切り替えてゆっくり休める判断力なのだ。それは決して諦めでも、放棄でもない、と信じたい。
今朝起床したときは若干気だるくぼーっとしていたけれど、すっきりするかなーと思って近所のプールで泳いできた。水泳はいい。適度な運動でもあり、全身マッサージでもあり、普段取り組んでいる研究とはまた違う自身のからだの研究でもある。ちょっと冷たい水に飛び込むと思考がクリアになる。前に泳いだときと別の動きができたりできなかったりしたときに成長や疲労がはっきりとわかる。ちょっと潜れば静かな世界が広がっている。呼吸のリズムが変わって新鮮な空気が肺に入ってくる。水が全身を包んでくれるのもいい。ほかの運動はからだのどこかの部分だったり、対戦相手に注意を向けないといけないから全身に耳を傾けることは案外むずかしい。なにより楽しい。あと安い。
プールの水は普段は気が付かないからだが発することばを脳が反応しやすいように翻訳してくれる。自分のからだを水が撫でるたびに新しい発見がある。うーん、違うな。水の助けを借りた自分のからだによって教えられているような。これはある種の教育だ。
自分のからだが水の助けを借りて発することばに耳を傾けて教えを受ける教育が水泳なのだとしたら、イヴ・K・セジウィックが唱えた修復的読解にそれは近いのかもしれない。
「修復的衝動が求めるのはある対象を組み立てたりそれにゆたかさを施したりして、その対象が今度は逆に未発達な自己に援助を与えることができるようにすることだ」
セジウィックのことばを借りるとしたら、プールに張られた水は普段はバラバラで気が付かない自分のからだが発する反応を組み立てて、ゆたかにしてくれる。すると今度は自分のからだが疲れてぼやけてしまった自分の意識あるいは自己に輪郭線を与えてくれる。自分のからだが水を通して自分の意識を教育する。なによりその教育はマッサージに近いケアでもある。
セジウィックを訳した岸まどかさんは「テクストに対する認識的優位を捨て、ときに理不尽なテクストの前に頭を垂れて授けられる教訓を、日々の鍛錬によって実践していくという行為はきっと修復的読解のひとつのあり方なのだ」(岸まどか「世話するひとたち—ガートルード・スタイン『三つの人生』と修復的読解の鍛錬」『読むことのクィア—続 愛の技法』所収、中央大学出版部、二〇一九年三月)といっていた。岸さんの文章の「テクスト」を「自分のからだ」へと、「修復的読解」を「水泳」に置き換えたら僕が言いたいことそのままだ。そういえばセジウィックの本の最後は「仏教の教育学」というタイトルの章で締めくくられていた。水泳は水のなかで動いておこなう坐禅に近いと思う。だとすると「水泳の教育学」でもいいんじゃないか。僕がまだ身につけていない無理をせずに休む判断力を、水泳を通して自分のからだに教えてもらえたらいいなと思っている。
そういえば、めちゃくちゃラップがうまいラッパーはだいたいからだのどこかを動かしながらラップしている気がする。ぼくもときどきお遊び程度でラップをするけど、手を動かしたほうがスムーズにラップできる。これはほんとうに不思議だ。目には見えない韻律とか拍子とかヴァイブスを自分のからだがことばにしやすいように翻訳してくれるみたい。流れているビートのなかで泳いでいるみたいだなーなんて。環ROY『YES』のMVを観るたびにそう思う。観念的、抽象的なリリックもさることながら、僕は彼のからだの動きの方に目が向いてしまう。映像にかけられているエフェクトの効果なのか、なんだか液体のなかで動いているようにも見えるんだよね。空気に流体のような抵抗感があるというか。リリックの内容をからだの動きが表現しているのではなくて、からだが表現したいことをリリックに翻訳しているのような。
君のこともっと知ってみたいよ
なんて誰かが歌ってたけど
手をつなげたら大体
見えた気がした
自分の良いところが見える
自分の嫌なところが見える
次の準備が出来次第
先の話も是非したい
なんて思う間もなく
なにげに鏡をみたら
なぜか自分ではなくて
君であることにある日気が付いた
不思議だけど幻じゃないよ
姿形何もかも違うけど けど
そこにいたのは僕だった
このリリックの「きみ」と「ぼく」が、「自分のからだ」と「自己の意識」なのだとしたら。普段の生活では自己の意識には昇らない自分のからだと対話する瞬間を描いた曲として聴くことができるかもしれない。「はじめまして、そしてさようなら/光がこぼれる」。自分のからだとおしゃべりできるのは一瞬ですぐお別れしちゃうけど、その幸福な瞬間を大切にしたい。
