『満室のインク』
その日、俺 田辺は、夜勤明けのけだるさと、真夏の湿った空気とで、全身が汗で張り付いているのを感じながら、古びた木造アパートの階段を降りていた。
「ああ、早くシャワー浴びたい」
心の中で呟き、一階の踊り場まで来たとき、ふと、視界の隅に異物が入った。
建物の外壁にずらりと並んだ壁掛け式の集合郵便受けの前で、一人の女が作業をしていた。
背は低く、肩までの黒い髪。薄汚れたTシャツにジーパンという、いかにもポスティング業者といった格好だったが、そのポスティングの仕方がおかしかった。
女は、チラシの束を片手に持っている。が、そのチラシを郵便受けの投入口に入れるのではなく、指先で一つ一つ、扉と壁の僅かな隙間に押し込むようにしているのだ。まるで、郵便受けの裏側にある壁の内部に、何かを押し込もうとしているように。
しかも、女の顔は見えない。ただ、背中が、まるで硬直したようにピクリとも動かない。
普段なら無視して通り過ぎるところだが、俺の部屋、203号室の集合郵便受けの、扉の蝶番のわずかな隙間に、女の指が触れた瞬間、なぜか心臓が強く跳ねた。
「あの……」
階段の最下段から、声をかけた。女はビクともしない。
「すみません、うちには入れないでください」
女の背中が、ようやくピクリと反応した。それは、人間の動作というより、操り人形の関節が軋んだような不自然な動きだった。
ゆっくりと、それはあまりにもゆっくりと、女は顔だけをこちらに向けた。
その顔には、予想だにしなかったものが貼り付いていた。
無表情。いや、それ以上に恐ろしい、感情の抜け落ちた、白く平坦な面。目だけが、充血したように赤く、まっすぐに俺を捉えていた。その目の中に、光はなかった。
女は、声を発さなかった。代わりに、手に持っていたチラシの束から、一枚のチラシを抜き取った。
そして、その指が、俺の部屋の郵便受けを示す
“ 203 ” の数字を指差した。その横に、赤いマジックで乱暴に、まるで血のように一文字、書き加えられていた。
「満」
「みつる…?」
俺は自分のフルネームを声に出し、女に問い返そうとした。しかし、女はそれ以上何もせず、抜き取った一枚のチラシを自らの口元に持っていった。
ガリッ。
硬質な咀嚼音が、静かなアパートの空間に響き渡る。女はチラシを、紙魚が本を食い破るように、音を立てながら食べていた。その目線は、ずっと俺から離れない。
チラシの端が女の唇から垂れ、薄汚れたTシャツにインクのにじんだ黒い汚れを作ったとき、女は咀嚼をやめた。
そして、満面の笑みを浮かべた。その顔は、先程までの無表情とは打って変わり、頬の筋肉が吊り上がり、まるで般若の面のように引き攣っていた。
「入れちゃった」
女は、さっきまで指で押し込んでいた、集合郵便受け全体が埋め込まれている壁を、親指でトン、と叩いた。
「もう、全部入っちゃったよ」
俺は、一歩も動けなかった。
その日を境に、俺の生活は一変した。
夜中に突然目が覚める。理由は、体が芯から冷え切っているような感覚と、聞きたくない “ 音 ” だ。
カサ、カサ、カサ……
それは、紙が擦れる音。あるいは、何かが壁の中を這いずり回る音。
音は、1階の郵便受けがある方向から、垂直に、俺の部屋 “ 203号室 ” の床、そして壁へと伝わってくるように聞こえた。
俺は飛び起き、部屋の電気をつけた。蛍光灯がチカチカと点滅する。
音は止まらない。
カサ、カサ……パサリ。カサ、カサ……ザァッ……。
まるで、誰かが部屋の真下の壁の裏側に大量の紙を詰め込んでいて、それが少しずつ、重みで崩れ落ち、やがて大量の砂が一気に流れ落ちたような音に変わる。
そして、その後に続く、微かな唸り声のようなもの。
「……ナ……カ……」
言葉になっていない。しかし、その 音 には、飢餓と怨念が込められている。
俺は、あの女が言った「入れちゃった」という言葉が、物理的な郵便物のことではないのだと確信した。あれは、何かを呼び込むための媒体だったのだ。そして、俺の言葉が、その 何か を建物の壁という境界線に、永遠に閉じ込めてしまった。
朝、出勤前に1階の集合郵便受けを見た。空っぽだ。何も入っていない。
だが、夜、帰宅して2階の自分の部屋に入ると、俺は玄関脇の壁を見て、凍り付いた。
壁紙が、薄く、黒く滲んでいる。
それは、ちょうど1階の集合郵便受けの真上、垂直に続く壁のライン上だった。まるで、壁の内部を、黒いインクが下から這い上がってきたかのように。
俺は恐る恐る、その黒い染みに触れた。冷たい。まるで濡れた紙に触れたかのように、指先が湿った。
その瞬間、 カチリ という音が、壁の中からした。
滲んだ壁の黒い染みが、一瞬、蠢いた。それは、インクが生きているかのように、文字の形、あるいは顔の形に、変わろうとしているかのように見えた。
それから数日、音が聞こえない夜はなかった。
カサ、カサ、ザリ、ザリ……。次第に音は大きくなり、壁を爪で引っ掻くような音が混ざり始めた。
ギリ、ギリ、ギリ……。
黒い滲みは、壁を伝って天井へ、床へと広がり始めた。そして、滲みが最も濃い場所には、うっすらと、文字の形が浮かび上がっている。
それは、すべて左右反転した文字で、まるで壁の内側から、こちらへ向かって書かれているようだった。
俺は恐ろしくなり、1階の集合郵便受けを無理やりこじ開け、中を覗き込んだ。
中には、血のように赤い文字で、左右反転した奇妙なメッセージが、扉の裏側に書き加えられていた。
それを鏡に映すと、こう読めた。
「田辺満、お前の内側には、もう、俺がいる」
俺は悟った。「うちには入れないでください」と叫んだことで、俺は 「うち(自分の空間)」の定義を、壁の外側ではなく、自分の肉体の内側へと、逆転させてしまったのだ。
あの女がポスティングしたのは、単なるチラシではなかった。それは、俺の「存在情報」を書き換え、「うち」という結界を破るための呪いの媒体だった。
そして、俺の名字の横に書き加えられた「満」の文字。俺のフルネーム。
俺の「存在」が、あの時、郵便受けが埋め込まれた壁の中にポスティングされてしまったのだ。そして、閉じ込められた 何か は、壁の中を這い上がり、俺の肉体という 内側 を求めて蠢いている。
カサ、カサ、ザァッ……。
音は、もう壁の中からではない。俺の腹の底から、響いているような気がした。
俺は、自分の うち が、もう壁の外にも、肉体の内にも、どこにもないことを知った。
数日後、アパートの住人が、203号室の異臭に気づき、通報した。
警察と大家が合鍵で中に入ると、部屋はひどく荒れていた。壁という壁には、黒いインクのような染みが、巨大な文字や記号のように、びっしりと塗りつけられていた。
そして、部屋の主、田辺満は、どこにも見当たらない。
ただ、アパートの外壁にある集合郵便受けの「203」の箱だけが、不自然に綺麗だった。
警察官がその郵便受けを開けると、中は空っぽ。だが、郵便受けが埋め込まれている壁の隙間には、大量の千切られた紙片が押し込まれており、その紙片は、腐敗したかのように湿り、異臭を放っていた。
そして、集合郵便受けの足元には、折りたたまれた一枚のチラシが残されていた。
それを広げた警察官は、思わず息を飲んだ。
チラシは、「賃貸アパート入居者募集」の広告だった。
しかし、肝心の間取り図の部分に、インクで乱暴に塗り潰された黒い人影が描かれていた。その人影の真ん中には、赤いマジックでこう書き加えられている。
“ 満 ”
そして、チラシの裏面には、インクが滲み、紙がふやけたような状態で、田辺の筆跡ではない文字が、一言だけ、力強く書き込まれていた。
「ありがとう。うちに入ったよ」
この夜の闇を どうかあなたにも。
