『七三の亡念』
歌舞伎座の舞台裏。
空気は、いつも濃密な汗と白粉の匂いで満ちている。だが、今、その匂いに混じって、冷たい土の澱みのようなものが漂っていた。
誰も口には出さないが、皆が知っていた。花道、特に舞台に向かって七割進んだ七三の床板の下に、何かが張り付いていることを。
呪いの始まり
それは、翠嵐が死んでからだ。
翠嵐。次代の立役と謳われた彼が、つい数ヶ月前、『鳴神』の稽古中に、花道の七三で見栄を切った。その一瞬、場内の空気が凍り付いたのを、居合わせた誰もが感じた。次の瞬間、彼は血の気を失った顔で胸を押さえ、糸の切れた人形のように倒れた。
死因は心臓発作。
劇場に長く勤める裏方たちは、恐怖と興奮がないまぜになった目で囁いた。
「あれは翠嵐の亡念だよ。奴は、舞台が好きすぎた。死後も舞台にしがみついている。生きている役者への強烈な嫉妬が、七三に地縛霊として留まらせているんだ」
噂は、劇場を目に見えない黴のように蝕んでいった。
「七三で見栄を切った者は、翠嵐に魂を削り取られ、次々と急死する」と。
翠嵐の急死を受け、『鳴神』の主役の代役を務めることになったのは、若手俳優の清澄だった。
清澄は、稽古が始まるたびに、花道を見る目が獲物を前にした獣のように鋭くなった。彼は呪いを信じていなかったが、それでも七三に立つことを無意識に嫌がっていた。
ある日、清澄は花道から舞台に戻る際、突如、顔を覆った。
「清澄さん、どうした!」
声をかけた裏方に、彼は青白い顔で答えた。
「今……七三の床板から、血の匂いがしたような気がして。いや、汗かな」
それは単なる錯覚だと皆は笑ったが、その日以降、清澄の様子は目に見えておかしくなっていった。
彼は、夜間の稽古で七三に立つと、必ず客席の暗闇に向かって一瞬怯えたような目を向けた。そして、そこで見栄を切るたびに、まるで胸に目に見えない錘を押し付けられているかのように、呼吸を荒くした。
「ああ、駄目だ。駄目だ……」
楽屋で清澄は、夜中に何度も魘された。彼は、誰もいないはずの客席から、粘りつくような冷たい視線が常に自分を捉えていると感じていた。それは、翠嵐の、“ 代役のお前が、私の舞台に立つのが許せない ” という、ドロドロとした嫉妬の念だ。
彼は、七三に立つことが、翠嵐の亡霊に自らの命を引き渡す儀式のように感じていた。それでも、役者としての誇りが、彼に七三で最高の見栄を切ることを強いた。
そして、初日を間近に控えた通し稽古の日。
清澄は、いつものように花道を進んだ。彼の足が、七三の床板を踏みしめた瞬間、劇場全体の空気が一瞬にして重くなった。舞台袖の裏方たちですら、息を詰めた。
清澄は、その場でピタリと止まり、翠嵐の怨念が最も濃いその場所で、客席に向かって顔を上げた。
彼は、口の中で血の味がするほどの力を込めて、渾身の見栄を切った。役者としての情熱と、呪いへの恐怖が入り混じった、凄絶な見栄だった。
その時、誰もいないはずの客席から、微かな、しかし粘りつくような笑い声が聞こえた気がした。
次の瞬間、清澄は両手で喉を掻きむしり、大きく目を見開いた。
「う、あ……!」
彼は苦悶の声を上げ、体の自由を奪われたかのようにその場で前のめりに倒れ込んだ。
その体は、七三の床板に叩きつけられ、ぴくりとも動かなくなった。
倒れる直前の清澄の顔は、翠嵐と同じく血の気を失い、恐怖に歪んでいた。
七三の呪いは、清澄を殺した。
劇場に、今や二人の亡霊の嫉妬が渦巻き始めた。
そして、次に『鳴神』の主役の座は、橘 恭太郎に回ってきたのだ。彼は、二人の友人の死の上に立つことになった。
劇場に渦巻く二人の亡霊の嫉妬。翠嵐と清澄の死は、歌舞伎座全体を重苦しい恐怖で覆い尽くした。そして、次に『鳴神』の主役の座は、橘 恭太郎に回ってきた。彼は、二人の親しい友人の死の上に立つことになったのだ。
恭太郎は、実力、人気ともに申し分ないが、彼もまた人間だった。稽古が再開しても、花道を通るたびに、彼の肌を突き刺すような冷気が襲う。七三に立つと、誰もいないはずの客席の暗がりから、粘りつくような二組の視線を感じた。それは、嫉妬に狂った亡霊の瞳だと、彼の魂が叫んでいた。
ある日、楽屋で恭太郎は、例の週刊誌記者に呼び止められた。記者は、清澄が倒れる直前の写真を取り出し、震える指で七三の床板の影を指差した。
「恭太郎さん。翠嵐さんの写真に写っていた黒い滲みが、清澄さんの写真では、もっと濃く、はっきりと写っています……。まるで、呪いの力が、一人殺すごとに増しているようです」
記者の言葉は、恭太郎の恐怖を決定的なものにした。七三に立つことは、もはや死の宣告に等しい。彼は見栄を切るのを極端に恐れ、稽古では、わずかに七三を避けて立つようになった。もし自分が七三で倒れたら、それは三度目の呪いの証明となり、歌舞伎座そのものが滅んでしまうと、彼は本気で信じ始めていた。
恭太郎の精神的な衰弱を、最も冷酷な目で見つめていたのは、彼の最大のライバルである藤村 雅彦だった。彼は次の公演で二番手を務めることが決まっていた。
藤村は、常に恭太郎に一歩及ばず、主役の座を逃し続けていたが、恭太郎が呪いに怯えていると聞くと、彼の周りで呪いの噂を誰よりも熱心に、そして冷静に広め始めた。
「恭太郎さん、大丈夫ですか。翠嵐も清澄も、あなたに嫉妬していたでしょう。彼らの怨念は、あなたが舞台に立てなくなるまで、あなたから離れませんよ」
藤村の言葉は、まるで甘い毒のように、恭太郎の恐怖を増幅させた。恭太郎は、藤村が心底心配しているように見えたため、逆に彼を信頼し、恐怖の念を打ち明けるようになっていた。
藤村は、恭太郎に舞台を降りるよう、それとなく勧めた。
「あなたの命が一番大事です。呪いを断ち切るには、誰かが『鳴神』の主役を辞退し、呪いを無効化するしかない」
藤村の狙いは明らかだった。恭太郎が辞退すれば、次に主役の座に滑り込むのは、呪いを恐れないふりをしている自分だと、彼は計算していた。
しかし、恭太郎は踏みとどまった。役者としての矜持が、彼を舞台にしがみつかせた。
そして迎えた『鳴神』の初日。
恭太郎は、楽屋で持病の薬を飲む藤村を横目に、舞台衣装を身にまとった。花道に入る前の袖で、藤村は優しく微笑んだ。
「頑張ってください、恭太郎さん。七三で、最高の見栄を切ってください。私が、あなたが呪いに勝つところを見届けますから」
恭太郎は、その笑顔にわずかな安堵を覚えながらも、足が鉛のように重い花道へ踏み出した。
彼の足が、七三の床板を踏みしめた瞬間、劇場全体が氷のような冷気に包まれた。恭太郎は、客席の暗がりから、二人の亡霊の、ドロドロとした嫉妬の念が、全身に絡みついてくるのを感じた。
しかし、彼はここで逃げたら、自分自身も呪いの一部になってしまうと知っていた。
恭太郎は、恐怖を力に変え、渾身の力を込めて見栄を切った。
彼の体が、花道で完璧な「決まり」を見せた、その瞬間。
突然、舞台袖の裏方から、甲高い悲鳴と、誰かを必死に押さえつける荒々しい音が響いた。
照明が激しく瞬き、客席がざわつく中、数人の裏方たちが、藤村を舞台袖の暗闇へ押さえ込んだ。
藤村は、一瞬、顔から血の気が引いたが、すぐに狂気的な笑みを浮かべた。
押さえつけられた藤村は、恭太郎と客席に向かって傲然と叫んだ。
「呪いなど、いるはずがない!いるのは、舞台を愛しすぎるがゆえの、人間の嫉妬だけだ!翠嵐や清澄の霊など、いるはずがない!私が、二人の楽屋にあった薬に毒を混入させた!劇場のバカどもめ、これで分かったか!この私が、この劇場の、真の立役だ!」
連行される藤村の姿が消えた後、静寂が訪れた花道の七三に、恭太郎は一人立っていた。
彼は、深く、深く一礼した。舞台を降りる直前、誰もいないはずの七三の暗がりに、一瞬、微かな風を感じた。それは、藤村の悪意が去った安堵か、それとも、ただの気のせいか。
藤村は逮捕された。呪いのトリックは、二人の若者の死という犠牲を伴いながらも、暴かれた。
だが、恭太郎の胸には、拭い去れない疑問が残っていた。
あの写真に写っていた “ 黒い滲み ” 。それは、藤村の悪意が、七三という場所の邪気と共鳴し、形となったものだったのか。それとも、藤村の殺人に利用された “ 翠嵐と清澄 ” の、舞台への途方もない情念が、今も七三の床板の裏側で、生きた役者の魂を待ち続けているのではないだろうか。
人間の嫉妬という名の毒は消えた。しかし、亡者の情念は、まだ消えていないのかもしれない。
花道は、ただの通路ではない。それは、人間の悪意と亡者の情念が永遠に交錯する、特別な境界線なのだ。
恭太郎は、その恐怖と情熱を抱え、今日も花道の七三で、最高の見栄を切るのだった。
《完》
この夜の闇を どうかあなたにも。
