『血と綿』

石畳に倒れた影は、もはや人ではなかった。
冷え切った月の光の下、和馬は濡れた手を擦り合わせた。返り血ではない。水だ。風呂場で、無心に白い冬用インナーのタートルネックを絞っていた。
「くそっ……」
吐き出す息が白い。
化繊のきめの細かい生地が血を吸い込み、手のひらの皮膚の皺にまで赤黒い色が食い込んでいる。
被害者の身元判明を遅らせるため、顔面と指先を潰す あの “ 作業 ” が、想像以上に血飛沫を上げたのだ。
あの時、白いインナーを選んだ自分の浅はかさを呪った。
風呂場での手洗いは、気休めにもならなかった。血は水に溶けて広がっても、繊維の奥深くからは決して抜けきらない。タートルネックは、乾くと僅かに薄汚れたピンクがかった茶色に変色し、潮の匂いにも似た鉄の臭いを微かに放っていた。
証拠品。これを持っていれば、いつか必ず足元を掬われる。
和馬は決めた。この白い呪いを、世界から「消す」のではなく、「再構築」する。
誰にも特定できない、無価値なものへと…。
翌日から数日、和馬は昼夜逆転の生活を送った。
彼の部屋の床には、白い冬用インナーの残骸が散乱していた。
インナーは細かく、しかしランダムな形状に裁断され、その裁断片一枚一枚が、僅かに血の匂いを放っていた。
和馬はミシンに向かい、ある有名な、丸くて愛らしいキャラクターのぬいぐるみを作り始めた。手先の器用さだけが取り柄だった。そのキャラクターのトレードマークである、大きな耳と間の抜けた笑顔を、彼は完璧に再現していく。
そして、綿を詰める代わりに、彼は裁断した血染めのインナーの断片を、愛らしいぬいぐるみの身体にぎゅうぎゅうと詰め込んだ。
返り血の記憶、被害者の肉体と接触した証拠の全てが、ふわふわの綿に偽装され、可愛いキャラクターの形に封印されていく。
「これで、お前はただの、“ 人気キャラのぬいぐるみ ” だ」
最後に縫い目を閉じる。体重計に乗せると、奇妙なほど重い。しかし外見は完璧だ。
和馬は、この “ 特注品 ” を、あえて人目に晒すことにした。
『⭐️一点物・ハンドメイドぬいぐるみ⭐️/人気キャラクターの特注デザイン!』
フリマサイトに和馬が出品したそのぬいぐるみは、すぐに注目を集めた。
縫製の精度の高さと、市販品にはない独特のデザインが評価されたのだ。
購入者は、ユキという名前の女性だった。
「とっても可愛いです!ずっと探していたこんな感じのぬいぐるみで、一目惚れしました。届くのを楽しみにしていますね😊」
ユキからの取引メッセージは、何の変哲もない、普通の購入者のものだった。和馬は安堵した。これで、証拠は完全に自分の手から離れた。
段ボールに詰められたぬいぐるみは、翌日、和馬の手を離れ、ユキの元へと旅立った。
ユキは、届いたぬいぐるみを自室のベッドサイドに飾った。確かに可愛い。だが、触れると少し固く、ずっしりとした重みがある。そして、なにより――。
「変な匂い……?」
微かな異臭。
獣の臭いでも、カビの臭いでもない。
ユキは首を傾げた。それは、鉄のような、錆びたような、しかしどこか生々しい臭いだった。
ユキはぬいぐるみを抱きしめた。その瞬間、ぞくり、と悪寒が背筋を走った。
「気のせいよ」
ユキはそう呟き、ぬいぐるみの大きな耳を撫でた。
その夜。
ユキは夢を見た。白いタートルネックを着た人物が、石を振り上げ、誰かを、何かを、無心に叩き潰している。血が、石畳に、そして白いインナーに、飛び散る、飛び散る――。
ユキは跳ね起きた。心臓がうるさい。
部屋は暗闇に包まれている。ユキは、枕元に置いたぬいぐるみを抱きしめようとした。
そのぬいぐるみの、腹の辺り。縫い目から、うっすらと、何かが滲んでいる。
ユキは電気をつけた。
ぬいぐるみの腹部の縫い目が、まるで生理現象のように、僅かに赤黒く濡れていた。
それは、水洗いでは完全に落としきれなかった血の、濃い部分が、湿気や気温差によって、縫い目の隙間から微かに染み出してきている証拠だった。
「ひ……」
ユキは悲鳴を上げかけたが、喉が張り付いた。
彼女は、おそるおそる、ぬいぐるみの身体を押し付けてみた。
鉄の臭いが、充満した。
数日後、ユキは憔悴しきっていた。
毎夜、ぬいぐるみの縫い目から滲む赤黒いシミは増し、鉄の匂いは部屋全体に染み付いていた。そして夢は 白いタートルネックの男が石を振り下ろす光景から、自分の顔が石で潰される感覚へと変貌していた。
ユキは、ぬいぐるみがただの可愛い置物ではないことを、もはや理性ではなく肉体で理解していた。
「この子の中には……何かが入っている」
ユキはハサミを手に取った。恐怖で体が震える。
だが、この呪いを断ち切るには、このぬいぐるみの中身を確かめるしかない。
ユキは、震える手で、ぬいぐるみの背中の縫い目を切開した。
中から、出てきたのは、白い化繊の塊。それを少し取り出すと、それは血で汚れたインナーの裁断片だとわかった。
その裁断片を手に取った瞬間、ユキの脳裏に、強烈なイメージが焼き付いた。
それは、石で顔を潰される寸前の、被害者の絶望と驚愕に満ちた最後の表情。ユキは口を押さえ、息を詰めた。
そして、化繊の塊を握りしめたユキの耳元で、風もないのに、微かな、しかしはっきりとした“ 声 ” が響いた。
「見つけたぞ。隠すための、新しい体を」
それは、加害者である和馬の声ではなかった。
それは、血とインナーを通じて、ユキの意識に侵入した、被害者の怨念そのものだった。
ユキは気が狂いそうになった。
白いインナーを手に取ると、殺人者の “ 作業 ” の映像と、被害者の “ 痛み ” の感覚が交互に襲ってくる。
あのぬいぐるみは、単なる証拠隠滅の道具ではなかった。
白いインナーは、加害者と被害者、二人の体液と汗と、極限の感情が染み込んだ “ 媒介 ” だった。
それを、綿の代わりに詰め物にされたことで、人気キャラクターの愛らしい形は、彼らの “ 融合した魂 ” を閉じ込める器と化したのだ。
ユキは、ぬいぐるみの腹を切り裂き続けた。
中から、大量の血染めの化繊の断片が、まるで内臓のように噴き出す。鉄の匂いが部屋を支配する。
「捨てなきゃ……燃やさなきゃ……」
彼女はインナーの断片をゴミ袋に詰めようとした。
だが、その時、ユキの手元に視線が落ちた。
ゴミ袋に詰めるために裁断片を掴んでいたユキの指先が、先ほど夢で見たように、石で何度も叩き潰されたような、ひどく歪な形に変形し始めている。爪は剥がれ、皮膚は内出血で黒ずんでいる。
「あ……」
それは、インナーを通じて転移した、
被害者の 最期の傷 だった。
ユキは鏡を見た。自分の顔も、目元、鼻筋、顎のラインが、まるで巨大な石で叩きつけられたかのように、見るも無惨に潰れていく。
被害者の身元判明を遅らせるために潰された顔と指先 その 結果 が、今、ぬいぐるみを手にしたユキの肉体に、時間を超えて顕現していた。
ユキは自室の隅で、血に濡れた白い化繊の断片を抱きしめたまま、歪んだ顔で静かに笑った。その笑みは、安堵した殺人者と、復讐を果たした被害者、両方の影を宿していた。
その日、フリマサイトのユキのアカウントは、以下のような取引メッセージを最後に、更新を停止した。
「この度は素敵なお人形をありがとうございました。あまりに可愛くて、もう一体、自分で作ってみたくなりました。ちょうど、最近買った白い冬用のインナーが、詰物にちょうど良さそうなので……」
ユキが作り始めたのは、新しい、愛らしい、ぬいぐるみ。
彼女が綿の代わりに詰めるのは、自分の部屋の隅で裁断した、今、彼女が着ていた白い冬用のインナーだった。
殺人者の罪と、被害者の怨念を内包した呪物は、次の「新たな肉体」を通じて「新たな器」を生み出し、増殖を始めたのだ。
そして、その増殖した 呪い も、やがてフリマサイトで、次の無垢な購入者を待つのだろう。
[完]
この夜の闇を どうかあなたにも。
