共産主義の次は資本主義が必ず崩れる理由――本当の共産制は、リーダーとエリートが消えた後にしか始まらない
共産主義は失敗した。
だから資本主義が正しかった。
この手の言い草を、まだ真顔で繰り返している者がいる。実に気楽なものである。歴史を表面だけなぞって、看板の勝ち負けだけを見て、中身を一切見ていない。ソ連が崩壊した、中国が市場化した、東欧が資本主義へ転んだ、だから共産主義は終わったのだ、と。まるでスポーツの勝敗表でも見ているような軽さだ。
だが、そんなものは思考ではない。
ただの追認である。
強かった側の物語にあとから便乗して、賢くなったつもりになっているだけである。
失敗したのは、共に産み、共に生きるという発想ではない。
失敗したのは、その名のもとに、またしても人類が上に立つ者、意味を決める者、配分する者、命令する者を組織してしまったことだ。
王を倒して党を立てた。
資本家を倒して官僚を立てた。
教会を嫌って専門家を立てた。
地主を壊して管理者を増やした。
看板だけを変えて、やっていることは同じだった。
上があり、下があり、中間に解釈権を握る者がいて、下は「信じて従う」。
この構造を温存したまま、何が平等だ、何が革命だ、何が解放だ。笑わせるな、である。
だから本稿の結論は最初に言ってしまってよい。
共産主義の次は、資本主義が必ず崩れる。
それは願望ではない。
道徳的批判でもない。
歴史の構造として、そうならざるを得ないからだ。
なぜなら、資本主義はその歴史的成功ゆえに、自分自身の存在理由を掘り崩すからである。
そして、その崩壊の先にしか、本当の意味での共産制――国家でも党でも企業でもない、分散した個人が自律的かつ自立的に接続する自然秩序――は始まらない。
ここを見抜けない者は、まだ冷戦の亡霊と一緒に暮らしている。
共産主義はなぜ失敗したのか
――平等が間違っていたのではない。上を作ったのが間違いだった
まず、共産主義の失敗をどう捉えるかで、以後の議論の質は全部決まる。
共産主義は、人間の本性に負けた。
平等は美しいが非現実的だった。
人は競争する動物だから、格差はなくならない。
こういう説明は、わかったような顔をしているが、何もわかっていない。
本当に失敗したのは、平等を求めたことではない。
平等を実現すると言いながら、またしても「上」を作ったことだ。
国家が全部持つ。
党が人民を代表する。
理論家が歴史法則を説明する。
官僚が配分を決める。
教育機関が正しい意識を注入する。
軍が革命を守る。
何のことはない。
王政の代わりに党政が来ただけだ。
聖職者の代わりにイデオロギー官僚が来ただけだ。
貴族の代わりにノーメンクラトゥーラが来ただけだ。
つまり、あれは共産制ではなかった。
共産制の看板を掲げた官僚帝国だったのである。
ここで重要なのは、所有の名義ではない。
私有か国有かという問いだけでは、まだ浅い。
本当の問題は、誰が解釈権を持ち、誰が命令権を持ち、誰が配分権を持ち、誰が他人の上に立つことで利益を得ているかだ。
共産主義国家は、資本家を消したつもりで、実は新しい資本家を作った。
株券を持つ者ではない。
命令を持つ者を。
正しさを配る者を。
配分を決める者を。
人事を握る者を。
これらは、貨幣資本より厄介だ。なぜなら彼らは、自分たちの支配を「人民のため」「平等のため」「歴史のため」と正当化できるからだ。
だから、共産主義が失敗したのは、経済方式の失敗である前に、ピラミッド構造の再建に失敗したのである。
いや、失敗したというより、最初からそこへ滑っていた。
平等の旗を掲げながら、支配の収益性を温存した。
その瞬間に、革命は終わっていた。
マルクスの洞察は正しかった
――国家社会主義ではなく、資本主義の自己解体を見抜いたという意味で
ここでマルクスを雑に葬ると、以後の議論は全部腐る。
マルクスの洞察は正しかった。
ただし、党が国家を握れば未来が来る、という意味で正しかったのではない。
彼が本当に見抜いたのは、資本主義が自らの力で、古い身分秩序と階級の意味を掘り崩していくという運動そのものだった。
資本主義は、封建的秩序を壊す。
血筋の特権を壊す。
土地に固定された身分関係を壊す。
共同体の閉鎖性を壊す。
職人ギルドの囲い込みを壊す。
宗教的権威の固定秩序を壊す。
すべてを貨幣と交換のネットワークに放り込み、流動化し、標準化し、普遍化していく。
この過程は残酷だ。
人間関係は薄くなる。
故郷性は失われる。
職能共同体は解体される。
生活は不安定になる。
労働は商品になる。
人格すら市場で値踏みされる。
だが、その一方で、資本主義は生産力を爆発的に上げる。
物流を整備し、通信を拡張し、知識を広域流通させ、都市を形成し、世界市場を作り、技術を加速させる。
ここが肝である。
資本主義は、ただ搾取しているだけではない。
資本主義は、次の文明の物質的前提を自分で作ってしまう。
そして、ここにマルクスの本当の凄みがある。
彼は、資本主義が永遠だとは見なかった。
むしろ逆に、資本主義が徹底されればされるほど、資本主義そのものが余計になっていくと見ていた。
なぜか。
かつて資本の集中には意味があった。
大規模工場を建てるため。
生産設備を整えるため。
リスクを取って技術導入するため。
広域物流を整えるため。
分業を組織するため。
だが、それが徹底され、通信と技術と知識と市場が普遍化すると、今度は何が起こるか。
個人が直接つながれるようになる。
大組織の内部にいなければ出来なかったことが、外でも出来るようになる。
知識は複製される。
技術はモジュール化する。
管理は軽くできる。
すると、かつて必要だった集中そのものが、歴史的使命を終え始める。
つまり、マルクスの正しさとは、資本主義を国家社会主義へ置き換える設計図を描いたことではない。
資本主義が自分で自分の墓を掘る運動を見抜いたことにある。
資本主義は勝ったのではない
――勝ちすぎて、自分の存在理由を失い始めたのである
冷戦後の世界は、ここを徹底的に隠した。
ソ連が崩壊した。
だから市場が勝った。
自由民主主義が勝った。
歴史は終わった。
資本主義が最終形態だ。
この種の寝言が、九〇年代以後の世界を覆った。
だが実態は違う。
資本主義は勝ったのではない。
勝ちすぎたのである。
資本主義が本当に徹底されるなら、固定的身分としての階級は意味を失う。
なぜなら、世界市場・通信・金融・物流・知識アクセスが普遍化され、人類が同じ盤面に置かれていくからだ。
もはや「貴族だから偉い」「地主だから偉い」「聖職者だから偉い」という古典的支配形式は、そのままでは維持できない。
ここで本来なら、社会は次段階へ移るはずだった。
リーダーとエリートの役割が歴史的に縮小し、個人がより直接につながり、分散した秩序へ移るはずだった。
ところが、上にいた者たちは退場しなかった。
歴史的役割を終えたにもかかわらず、自分たちが上にいる意味を延命し始めた。
これが冷戦後の本質である。
だから、冷戦後の世界史を「自由の拡大」などと見てはならない。
実態は、余計になったリーダーとエリートの延命戦である。
本来、階級が空洞化する局面では、上に立つ者は減っていくはずだった。
だが現実には逆が起きた。
管理職は増えた。
専門家は増えた。
監査は増えた。
認証は増えた。
コンサルは増えた。
国際機関は増えた。
評価制度は増えた。
会議は増えた。
コンプライアンスは増えた。
ガバナンスは増えた。
説明責任は増えた。
何もかもが増えた。
何のことはない。
資本主義は、次の段階へ移るかわりに、自分の成功で余計になった上層を飼い続ける制度へと変質したのである。
グローバル金融経済とグローバルスタンダードとは何だったのか
――階級の死体を蘇生させるための延命装置である
ここで、冷戦後の正体が見える。
グローバル金融経済とは何だったのか。
グローバルスタンダードとは何だったのか。
美名である。
だが中身を見れば、きわめて単純だ。
上にいた者が、上にい続けるための延命装置である。
グローバル金融経済とは、本来なら実体経済を媒介し、生産と流通を支えるための仕組みだったはずだ。
ところが現実には、金融は金融自身のために膨張し、危機のたびに救済され、損失は社会化され、利益は私有化され、上層の延命のために使われた。
中央銀行、巨大ファンド、国際金融官僚、会計・法務・格付けの周辺エリート。彼らは毎回、「自分たちがいなければ世界は回らない」という顔をした。
だが、実際にはどうか。
彼らは回しているのではない。
すでに回っているものの上に乗って、自分たちの必要性を演出しているだけである。
一方、グローバルスタンダードも同じだ。
聞こえはよい。
透明性。
法の支配。
人権。
ESG。
持続可能性。
レジリエンス。
ガバナンス。
コンプライアンス。
どれも反対しにくい。
だからこそ危険なのだ。
問題は、何が正しいかではない。
誰が「正しい」と認定する側に立つかである。
ここで現場の現実は二の次になる。
人が幸福かどうかも二の次になる。
重要なのは、国際的に承認されるか、認証されるか、監査を通るか、格付けで有利か、ブランドとして綺麗か。
つまりグローバルスタンダードとは、理性の言葉を借りた、地球規模の承認市場なのである。
そこでは何が起こるか。
実務より様式が強くなる。
成果より書類が強くなる。
現実より認証が強くなる。
生産より説明が強くなる。
つまり、またしても上に立つ者の儀礼が社会全体を食い潰し始める。
これが冷戦後の「勝利した資本主義」の実態だった。
勝者は自由を広げたのではない。
階級が無価値になりかけた世界で、肩書と認証で階級の残骸を演出し続けただけだ。
資本主義が必ず崩れる第一の理由
――支配コストが生産力を食い潰すから
ここから本題である。
なぜ資本主義は必ず崩れるのか。
第一の理由は簡単だ。
支配コストが高すぎるからである。
会議のための会議。
説明のための説明。
承認のための稟議。
監査のための記録。
評価のための自己申告。
ガバナンスのためのガバナンス。
ブランド維持のための言い換え。
炎上回避のための空文化した規範。
法務確認のための法務確認。
これらは何を生んでいるのか。
ほとんど何も生んでいない。
ただ、上にいる者が安心するために存在している。
現代社会の膨大な仕事は、必要だから存在しているのではない。
上層が余計になったのに、余計さを隠すために存在している。
これが今の本質だ。
上司は、部下が自律的に動くほど余計になる。
官僚は、現場が自律的に回るほど余計になる。
専門家は、知識が公開されるほど余計になる。
だから彼らは、承認の関所を増やす。
説明の儀礼を増やす。
基準を増やす。
書類を増やす。
自分たちが必要不可欠に見えるよう、摩擦を増やす。
だが、摩擦の増大で社会は重くなる。
生産力が伸びても、それにぶら下がる支配コストがそれ以上に増えれば、文明は窒息する。
今起きているのはまさにこれだ。
資本主義は、もはや生産方式というより、上層維持のための巨大な摩擦発生装置になりつつある。
だから崩れる。
資源が尽きるからではない。
自分で自分を重くしすぎるからだ。
第二の理由
――階級が機能的に無価値になるから
資本主義が崩れる第二の理由は、階級が道徳的に悪だからではない。
そんな説教くさい話ではない。
もっと冷たい。
階級が、機能として割に合わなくなるのである。
かつて資本家には意味があった。
大規模工場を作るため。
生産設備を整えるため。
技術導入のリスクを負うため。
物流網を作るため。
分業を組織するため。
かつて官僚にも意味があった。
識字率の低い社会で記録と徴税を担い、広域インフラを整え、制度を運用するために。
かつて専門家にも意味があった。
知識が希少で、訓練を受けた少数しか扱えない世界では、門番としての役割があった。
だが、資本主義が成熟すると、この前提が変わる。
通信は普及する。
知識は複製される。
技術は標準化される。
市場は接続される。
個人が直接アクセスできる範囲が広がる。
すると、「上がいなければ何も出来ない」という理由が薄れていく。
ここで支配層が退場すればよい。
だが退場しない。
そこで起こるのは、機能的に余計になった階級が、政治・制度・言説・文化を使って、自分の価値を演出し続けるという滑稽な状況である。
現代のリーダーとエリートが陳腐化している、というのは、人格批判ではない。
コストの割に役に立っていないということだ。
これが決定的なのである。
人は道徳的に悪いものには、案外長く耐える。
だが、割に合わないものには、いつか耐えられなくなる。
現代資本主義は、この「割に合わなさ」の極限に近づいている。
第三の理由
――暴露が建前の皮を剥がすから
資本主義とその周辺秩序を支えてきたのは、暴力だけではない。
建前である。
法。
倫理。
自由。
市場の公正。
民主主義。
宗教。
慈善。
国際協調。
これらが支配の正当化を支えてきた。
だが、冷戦後、この建前の裏にある配管が次々と露出した。
オフショア金融。
政治と財界の見えない回路。
宗教と献金の回路。
性的収奪と保護の回路。
スキャンダル揉み消しの回路。
綺麗事を唱える公的権威の背後で、私的ネットワークが動いていたことが、断続的に見え始めた。
ここで重要なのは、どれか一つの事件の真相を全部知ることではない。
そんなものは全部は出ない。
重要なのは、構造の反復である。
別の国、別の事件、別の制度、別の業界に見えても、毎回、建前の裏から同じような私的ネットワークが出てくる。
この反復が本体なのだ。
つまり、人々は少しずつ理解し始める。
ああ、上にいる者たちは、偉いから上にいるのではない。
正しいから上にいるのでもない。
ただ、上でつながっているから上にいるだけなのだ、と。
これは致命的である。
なぜなら資本主義は、数字だけでは回らないからだ。
信用が必要だ。
信用とは、建前が完全な真実であることではない。
少なくとも、建前と本音のズレが我慢できる範囲にあることだ。
ところがそのズレが限界を超えると、制度は一気に空洞化する。
資本主義が崩れるとは、この意味でもある。
第四の理由
――AIが門番の希少性を奪うから
AIが何より怖いのは、人類を滅ぼすからではない。
そんなSFじみた話より、もっと現実的で、もっと露骨だ。
門番の価値を下げるからである。
これまで権威ある者は、「自分は知っているから偉い」という顔ができた。
外国語を読める。
資料をまとめられる。
法律を引ける。
論点を整理できる。
統計を扱える。
もっともらしい文章を書ける。
表を作れる。
比較できる。
これらが希少だった時代には、確かに彼らには機能があった。
だがAI時代になると、翻訳、要約、検索、比較、文書生成、論点整理、初歩的な分析が大衆化する。
もちろんAIは万能ではない。
間違う。
幻覚もある。
だが、問題はそこではない。
以前なら門番を通らなければ触れられなかった知の入口に、個人が直接アクセスできるようになる。
これが決定的なのである。
すると何が起こるか。
肩書だけの専門家が剥がれる。
会議だけの管理職が剥がれる。
もっと言えば、「難しそうに言い換える能力」だけで食ってきた連中が、一斉に価値を失う。
本当に必要な専門性は残る。
だがそれは、身分としてではなく、役割としてしか残れない。
つまりAIは、文明を逆転させる魔法ではない。
だが、剥がれかけていた権威のメッキを一気に浮かせる溶剤にはなる。
だから資本主義は崩れる。
なぜなら、資本主義が支えてきた上層分業の正当性が、知の希少性の崩壊とともに痩せていくからだ。
第五の理由
――戦争が支配構造の減価償却を加速するから
支配構造が行き詰まると、しばしば戦争が起こる。
これは単純な資源争奪ではない。
内部矛盾の外部化である。
上層の正当性を延命するための劇場でもある。
敵がいるから従え。
危機だからまとまれ。
国家のために異論を控えろ。
安全保障だから我慢しろ。
この種のお決まりの構文が動き出す。
だが、現代の戦争は、かつてのように支配構造を簡単に再生してくれない。
なぜなら、軍事・金融・エネルギー・物流・サプライチェーン・情報流通が世界的に絡み合っているからだ。
どこかで火がつけば、金融と物価と信用と流通に跳ね返る。
大国が局地戦をやったつもりでも、世界経済の土台を揺らしてしまう。
つまり、戦争はもはや一部支配層の延命装置として機能しにくくなっている。
やればやるほど、支配構造そのものの脆さが露出する。
ドル体制のような、軍事・金融・エネルギーが結びついた秩序も同じだ。
まだ強い。
だが、強いがゆえに維持コストも大きい。
世界支配のコストが、世界支配の利益と釣り合わなくなり始めるとき、体制は急に老いる。
だから、資本主義が崩れるとは、単に市場が暴落するという意味ではない。
覇権を維持することそのものが割に合わなくなるという意味でもある。
いま起きているのは何か
――エヌマ構造の逆廻しである
ここまで来れば、全体像は見える。
いま起きているのは、単なる景気循環でも、単なる戦争危機でも、単なる政治腐敗でもない。
信じて従う文明の逆回転である。
王。
司祭。
党。
官僚。
専門家。
CEO。
国際機関。
認証屋。
監査屋。
言論の司祭。
こうした者たちは長く、自分たちが文明の頭脳だと思ってきた。
だが本当は違う。
世界を回していたのは、現場であり、生産力であり、物流であり、通信であり、無数の個人の知恵と試行錯誤だった。
上層の解釈権は、そのあとから乗っかった寄生的な意味の管理にすぎなかった。
いま、その寄生部分が高コスト化し、陳腐化し、暴露され、AIに剥がされ、戦争によって老化を早めている。
だから逆廻しが起きている。
信じて従う構造が、信じても割に合わない構造に変わった。
ここが決定的である。
人類は、正しいから支配を捨てるのではない。
もう割に合わないから捨てるのである。
ここに歴史の冷たさがある。
そして、その冷たさこそが、次の段階を開く。
では、その次に何が来るのか
――本当の共産制である
ここで古い左翼のように、「ならば国家がもっと管理せよ」と言い出したら終わりである。
それでは共産主義の失敗をもう一度やるだけだ。
逆に古い自由主義者のように、「もっと市場競争を徹底せよ」と言っても終わりである。
それでは壊れかけたピラミッドをさらに回すだけだ。
必要なのは、第三の道などという生ぬるい言い方ではない。
もっとはっきり言うべきだ。
リーダーとエリートを必要としない秩序である。
本当の共産制とは、国家が全部持つことではない。
党が全部決めることでもない。
企業が社会を丸ごと管理することでもない。
本当の共産制とは、
人の上に立つことが利益にならない社会
のことである。
食、住、医療、通信、基礎エネルギー、知識アクセスが万人に開かれている。
役職は身分ではなく、一時的役割にすぎない。
嫌な仕事は技術で減らし、残りは短時間化と輪番で回す。
知識は独占されず共有される。
評価は肩書ではなく、実際の役立ち方で自然に決まる。
命令権が収入差や名誉差の永久固定に結びつかない。
要するに、支配の収益性がゼロになる。
ここで初めて、共産制は国家の標語ではなく、文明の自然な形として立ち上がる。
それは、みんな同じ顔をしろという話ではない。
逆だ。
各自が好きにやるために、上に立つ者を要らなくするのである。
分散とは無秩序ではない。
むしろ、今の方がよほど無秩序だ。
上の都合で基準が乱立し、承認の関所が増え、意味の管理者が増殖し、現場が疲弊し、全体が重くなり、危機のたびにさらに統制を強める。
この方がよほど壊れている。
分散とは、こうした人工的で高コストな秩序をやめ、必要な接続だけを残すことだ。
人が必要に応じてつながり、不要なものから離れ、役割が固定身分でなくなり、知識が共有される。
そのとき初めて、人類はピラミッド中毒から回復し始める。
結論
――共産主義の次は資本主義が必ず崩れる。なぜなら、自分を不要にする世界を自分で作ったからだ
結局、答えはこれである。
共産主義が失敗したのは、平等が間違っていたからではない。
平等を語りながら、またしてもリーダーとエリートを組織したからだ。
そして資本主義が必ず崩れるのは、その逆に、その歴史的成功ゆえである。
資本主義は世界を接続し、技術を発展させ、知識を拡散し、古い身分秩序を壊した。
その結果、かつて必要だった資本の集中、命令の集中、解釈権の集中は、次第に役割を終えるはずだった。
本来なら、社会はより分散した自律へ向かうはずだった。
ところが、上にいた者たちは退場しなかった。
だからグローバル金融経済が膨張した。
だからグローバルスタンダードが乱立した。
だから支配コストが肥大した。
だから階級が機能的に無価値化した。
だから暴露が建前の皮を剥がした。
だからAIが門番の価値を下げた。
だから戦争が覇権の脆さを露出させた。
つまり資本主義は、道徳的に悪いから崩れるのではない。
歴史的役割を終えたのに、なお居座るから崩れるのである。
もう要らないものを、無理やり残しているから崩れるのである。
そして、その先にしか本当の共産制はない。
国家による共産主義ではない。
党による共産主義でもない。
企業福祉国家でもない。
分散した個人が、自律的かつ自立的に接続し、誰も上に立たず、誰も媚びず、必要なものを分かち合い、好きにやる秩序である。
要するに、こういうことだ。
共産主義の次に崩れるのは資本主義である。
なぜなら資本主義は、世界をここまで普遍化し、ここまで接続し、ここまで知識と技術を拡散させたことで、自分を必要としない世界を、自分の手で作ってしまったからだ。
それでもなお、リーダーとエリートは居座ろうとする。
だから文明は苦しむ。
だから戦争が起きる。
だから金融が膨張する。
だから基準が増える。
だから人は疲れる。
もう答えは出ている。
必要なのは、もっと良い王ではない。
もっと賢い官僚でもない。
もっと洗練された市場でもない。
必要なのは、王を要らなくする構造、官僚を増殖させない構造、市場を生存の人質にしない構造である。
そこまで行って、ようやく人類は知的生命体になる。
それまでは、看板を掛け替えながら同じピラミッドを拝み続ける、文明化された家畜にすぎない。
