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大いなるひよこの国――配管を見ない日本人、思想なき制度国家の実態論

日本という国を一言で言えば、大いなるひよこの国である。

ひよことは、愚か者という意味ではない。むしろ日本人は勤勉で、処理能力が高く、現場対応も早い。書類も作れる。会議も回せる。通達も読む。空気も読む。上から降ってきた課題を、驚くほど器用に国内制度へ変換する。

だが、肝心のことを問わない。

それは本当に自分たちの課題なのか。
その神話は誰が見せているのか。
その親鳥は本当に親なのか。
そのソリューションは誰の目的関数で作られたのか。
その配管を通るカネは、どこから来て、どこへ流れ、誰に請求書が回るのか。

ここを問わない。

だから日本は、神話を見せられると、親だと思ってついていく。

戦前は、近代国家、帝国主義、列強秩序、総力戦という神話についていった。
戦後は、アメリカ、民主主義、経済成長、自由貿易という神話についていった。
平成は、構造改革、グローバルスタンダード、財政規律、規制緩和という神話についていった。
コロナ期は、パンデミック、専門家会議、ワープスピード、ワクチン、感染対策という神話についていった。
そして今は、AI軍需、半導体、安全保障、台湾有事、サイバー防衛という神話についていこうとしている。

親は毎回変わる。
だが、ついていく構造は変わらない。

これが、大いなるひよこの国の実態である。


思想とは何か

では、思想を持つとはどういうことか。

思想とは、綺麗な言葉を並べることではない。
正義を語ることでもない。
倫理を唱えることでもない。
海外の哲学者の名前を暗記することでもない。
大学で学位を取ることでもない。

思想とは、配管を見ることである。

誰が権威を持っているのか。
誰が解釈権を握っているのか。
誰が課題を設定しているのか。
誰がソリューションを売っているのか。
誰が予算を受け取るのか。
誰が責任を負わされるのか。
誰が「正しい」と言い、誰がその「正しさ」で食っているのか。

これを見ることが思想である。

そして、それを見たうえで、理由を立てて、判断し、行動すること。
これが思想である。

思想とは、外部から与えられた正しさに従うことではない。
外部から与えられた正しさの配管を見抜き、それに従うのか、拒むのか、壊すのか、作り替えるのかを、自分の責任で決めることだ。

ここを誤ると、思想はただの飾りになる。


欧米の思想史とは、配管を見つけた者たちの歴史だった

欧米近代史とは、綺麗事で言えば自由の歴史である。
だが、もっと露骨に言えば、配管を見つけた者たちが、その配管を奪い、壊し、組み替えてきた歴史である。

ルターは、教会の配管を見た。

免罪符、教会権威、聖職者の解釈権、ローマへ流れる宗教的・経済的権力。
信仰の名で、人間の罪悪感と救済願望が制度の配管へ吸い込まれていく構造を見た。
だから宗教改革が起きた。

教会自体が巨大な配管だと知った王は、自分の教会を立てた。
ローマ教会の配管を断ち、自国王権の配管に組み替えた。
そこには信仰もあっただろう。
だが同時に、権力と財産と解釈権の配管争奪があった。

国王そのものが配管だと考えた清教徒は、国王の首を刎ねた。
王権神授という高きところの配管を、この世の政治判断で切断した。
もちろん、その後に別の権力が生まれる。別の配管も生まれる。だが、少なくとも彼らは見た。国王という存在が、神から人民へ向かう真理の通路ではなく、権力と税と命令の配管であることを見た。

アメリカでは、本国との繋がりそのものが配管だと怒った。
課税される。だが代表権がない。
本国の都合で植民地が動かされる。
ならばその配管を切る。
これが独立である。

フランスでは、高きところの配管が次々とギロチンにかけられた。
王、貴族、聖職者、特権、旧体制。
高所から流れる正しさと命令と徴税の管が、血まみれの現実として切断された。

これらを美化する必要はない。
暴力の正当化をする必要もない。
だが、構造として言えば、欧米近代史とは、配管を見た者たちが、理由を立てて、行動した歴史である。

そこから自然法や自然権が出てきた。

ここを間違えてはいけない。

自然法や自然権が、最初から絶対の神だったのではない。
人間が、王や教会や国家の配管を見て、なぜ自分たちは従わなければならないのか、どこまで従うべきなのか、何を根拠に拒むことができるのかを考えた。
その原因と理由の探究から、自然法や自然権が出てきたのである。

つまり、自然法も自然権も、思想の結果である。
配管を見て、理由を立てた結果である。
それ自体をまた偶像にして拝み始めた瞬間、思想は死ぬ。


日本でそれをやった者は誰か

日本史で、この意味で思想を持った者は多くない。

もちろん、優秀な官僚、学者、武将、政治家、実務家、宗教者はいた。
だが、配管そのものを見て、それを切断し、時代を変えるために行動した者は限られる。

その象徴が信長である。

比叡山延暦寺は、ただの宗教施設ではなかった。
京の都の護りであり、宗教権威であり、武装勢力であり、政治権力であり、経済権益であり、古い秩序の配管だった。

信長は、それを焼いた。

これは単なる残虐行為としてだけ見ても足りない。
時代を変えるため、京の都の護りだった生臭坊主の配管を焼いたのである。

つまり、彼は見た。
宗教の顔をした権力配管を見た。
古い秩序の神聖性を見たのではない。
その神聖性の背後で、誰が権威を持ち、誰が実力を持ち、誰が時代の流れを塞いでいるかを見た。

だから焼いた。

この国で思想を持つとは、それぐらい危険なことだった。
そして現在もそうである。


今の日本では、配管を見ることが陰謀論になる

今の日本では、配管を見ること自体がいけないことにされている。

誰が儲かったのか。
誰が予算を取ったのか。
誰が天下ったのか。
誰が審議会を作ったのか。
誰が外資と繋がったのか。
誰が補助金を配ったのか。
誰が制度を設計したのか。
誰が反対意見を潰したのか。

こう問うと、すぐに言われる。

陰謀論だ。
証拠を出せ。
一次情報はあるのか。
専門家ではないだろう。
不安を煽るな。
社会を混乱させるな。
そんな見方は極端だ。

だが、配管を見ることを陰謀論と呼ぶ社会は、すでに思想を失っている。

政治とは配管である。
行政とは配管である。
税とは配管である。
予算とは配管である。
福祉とは配管である。
軍需とは配管である。
医療とは配管である。
教育とは配管である。
メディアとは配管である。
学術研究費とは配管である。
天下りとは配管の出口である。
官財癒着とは配管のメンテナンスである。

それを見ずに政治を語るとは、配管を見ずに水道料金を語るようなものだ。
水がどこから来て、どこで漏れ、どこで抜かれ、どこへ流れているかを見ずに、「水は大切です」と言っているだけである。

お笑いである。


なぜ日本人は配管を見たがらないのか

答えは簡単である。

みんな少なからず配管の中で生活しているからだ。

税予算。
補助金。
助成金。
公共事業。
医療費。
介護費。
年金。
教育予算。
自治体事業。
研究費。
委託費。
下請け。
孫請け。
業界団体。
許認可。
補助金事務局。
コンサル。
広告。
メディア。
天下り。
外郭団体。

この国では、多くの人間が、どこかで配管に触れている。

直接税金で食っていなくても、会社が補助金を受けている。
自治体案件を受けている。
公共調達に絡んでいる。
規制で守られている。
社会保障で支えられている。
親族が年金で暮らしている。
医療費で支えられている。
教育制度に乗っている。
住宅ローン減税を使っている。
インフラに依存している。

だから、配管を見ることは、自分の足元を見ることになる。

そして人間は、自分の足元を見たがらない。

特に、高度成長が終わった後の日本ではそうだ。
民間の自律的な成長が弱くなった。
新しい産業が十分に生まれない。
国民所得が伸びない。
実質賃金が伸びない。
地方経済は痩せる。
中小企業は補助金と規制と付き合う。
大企業は官と財と国際規格にぶら下がる。
学界は研究費にぶら下がる。
メディアは広告と官製情報にぶら下がる。

すると、みんな配管を批判しにくくなる。

なぜなら、配管を批判することは、自分の食い扶持の由来を批判することになるからだ。

だから見ない。
見えないふりをする。
見た者を陰謀論者にする。

これが、大いなるひよこの国の精神構造である。


官製流行国家・日本

日本では、国内で官製流行が何度も使われてきた。

改革。
地方創生。
構造改革。
クールジャパン。
働き方改革。
女性活躍。
SDGs。
DX。
GX。
観光立国。
Society 5.0。
こどもまんなか。
新しい資本主義。
経済安全保障。
半導体復活。
AI立国。
防衛産業強化。

これらの中には、必要なものもある。
問題は、必要性そのものではない。
問題は、毎回、同じ構造で処理されることである。

上から課題が降る。
審議会ができる。
有識者が並ぶ。
資料が作られる。
補助金がつく。
広告が打たれる。
セミナーが増える。
自治体が真似る。
企業が申請する。
コンサルが入る。
メディアが持ち上げる。
数年後に曖昧に消える。

そして誰も総括しない。

成功したのか。
失敗したのか。
誰が儲けたのか。
誰が責任を取ったのか。
国民生活は本当に良くなったのか。
民間の創造力は増えたのか。
行政の配管が太くなっただけではないのか。

問わない。

次の流行に移るからだ。

これが官製流行国家である。


海外から大戦級の神話が来ても疑わない

国内の官製流行だけなら、まだ被害は国内で済む。
だが、海外から大戦級の神話が来ると話は別である。

戦前、世界は帝国主義と総力戦の神話に覆われていた。
日本はそこに乗った。
もちろん、日本側にも主体的失敗があった。だが、外部環境、列強秩序、資源制約、軍拡競争、新聞世論、軍部の構文の中で、日本は自分から詰みに向かった。

コロナでは、パンデミックという神話が来た。
世界共通の敵が設定された。
ワープスピードという軍事作戦名の超短期ソリューションが出た。
製薬、医療、行政、メディア、専門家、自治体、企業、学校、国民生活が一気に動員された。

日本では義務ではないのに、突出して従った。
強制でなくても従う。
信じていなくても従う。
疑いながら従う。
周りに合わせて従う。
会社が言えば従う。
学校が言えば従う。
自治体が言えば従う。
空気が言えば従う。

これが日本の恐ろしさである。

そして今度はAI軍需である。

AI。
半導体。
台湾有事。
サイバー防衛。
無人機。
ミサイル。
経済安全保障。
データセンター。
電力網。
防衛産業。

また神話が来ている。

また課題が海外から来る。
またソリューションも海外から来る。
また日本の官僚が翻訳する。
また財界が受注する。
またメディアが説明する。
また国民に請求書が回る。

ひよこは、また親鳥を見たと思って走り出す。


ずる賢い奴らですら、ひよこである

この国では、善良な国民だけがひよこなのではない。
ずる賢い奴らですら、ひよこである。

売国政治家。
グローバルスタンダード推進官僚。
天下り。
官財癒着。
親分子分の業界。
補助金に群がるコンサル。
中抜き業者。
外郭団体。
御用学者。
広告メディア。

彼らは賢そうに見える。
悪そうにも見える。
だが、本物の思想家でも、本物の謀略家でもない。

ただ、外から来た神話に乗り、国内配管の途中で餌をついばむだけである。

外部から課題が来る。
国際標準と言われる。
安全保障と言われる。
感染症対策と言われる。
社会保障と言われる。
AIと言われる。
半導体と言われる。
脱炭素と言われる。

すると彼らは考える。

これは本当に必要か、ではない。
この配管のどこに座れるか、である。
どこに予算がつくか。
どこに外郭団体を作れるか。
どこに天下りできるか。
どこで受注できるか。
どこで補助金を取れるか。
どこで審議会委員になれるか。
どこで講演できるか。
どこで広告が取れるか。

つまり、彼らも神話そのものは疑っていない。
親鳥を疑っていない。
ただ、親鳥についていく列の前の方で餌を食いたいだけである。

これが、日本型のずる賢さである。

思想ではない。
配管寄生である。


コロナで見えた大本営発表

コロナ騒動で見えたのは、医療問題だけではない。
薬の中身がどうこう以前に、思想の問題、生き様の問題が可視化された。

薬に副作用があるのは当たり前である。
医薬品とは、効果とリスクを秤にかけるものだ。
だから本来なら、慎重に説明し、異論を許し、被害が出れば正面から扱い、予算と契約と責任を透明化すべきだった。

だが、実際にはどうだったか。

安全で有効。
専門家を信じろ。
不安を煽るな。
反ワクは迷惑。
みんなのために打て。
社会を守れ。
高齢者を守れ。
医療を守れ。
科学を信じろ。

これは科学というより、信仰である。
そして情報形式としては、大本営発表だった。

戦前を反省した顔で、戦前と同じ構文を使った。

公式発表がある。
専門家が語る。
メディアが反復する。
国民に忍耐が求められる。
異論は非国民化される。
被害は小さく扱われる。
失敗は総括されない。
現場の違和感は、全体方針の邪魔として処理される。

鬼畜米英がウイルスになった。
非国民が反ワクになった。
大本営発表が専門家会見と感染者数速報になった。
竹槍精神がマスク、自粛、接種圧力になった。
国策会社が製薬、IT、医療DX、補助金配管になった。

構文は同じである。

違うのは看板だけだ。


部分ごとの正当性が、全体の誤りを隠す

制度側は必ずこう言う。

厚労省は手続きに従った。
専門家は当時の知見で判断した。
自治体は国の方針に従った。
医療機関は現場対応した。
企業は従業員管理をした。
メディアは公益性に基づいて報じた。
製薬会社は承認制度に従った。

各部分では正当性がある。
だが、全体として間違っている場合がある。

これは実務を知る者なら分かる。

担当者Aは正しい。
担当者Bも正しい。
担当者Cも正しい。
書類もある。
決裁もある。
前例もある。
法令根拠もある。

だが、そもそもの課題設定が間違っている。
目的が間違っている。
全体設計が間違っている。
すると、全員が正しく動きながら、全体が盛大に間違う。

これが分業の恐怖である。

さらに恐ろしいのは、海外から課題が来て、海外からソリューションが来て、それを国内で分業処理する場合だ。

海外側にも分業ミスがある。
海外側にも利害がある。
海外側にも誤認がある。
海外側にも製薬、軍需、金融、IT、国際機関の配管がある。

その誤りを、日本側が「国際標準」として輸入し、国内分業で正しく処理する。

これは二重の誤りである。

海外の部分合理性。
日本の部分合理性。
その掛け算で、全体不合理が生まれる。

そら恐ろしい。


思想なき国は、何度でも繰り返す

思想があれば止まる。

これは誰の課題か。
誰の神話か。
誰のソリューションか。
誰の配管か。
誰が責任を取るのか。
誰が請求書を払うのか。

ここで止まる。

だが思想なき国は止まらない。

外部から神話が来る。
敵が設定される。
国際標準が示される。
専門家が並ぶ。
省庁が動く。
財界が乗る。
メディアが鳴る。
国民が従う。
予算が流れる。
配管が太くなる。
最後に請求書が来る。

この反復である。

戦前もそうだった。
コロナもそうだった。
AI軍需もそうなりかねない。

だから日本は、思想なき国の世界の雛形なのである。

世界中に同じ病理はある。
だが日本では、それが最も純粋に見える。
なぜなら、反抗が弱いからだ。
疑っても従うからだ。
怒っても申請するからだ。
馬鹿にしても納税するからだ。
信じていなくても空気に合わせるからだ。

これほど制度に都合のよい国はない。


大いなるひよこの国

大いなるひよこの国では、国民だけでなく、政治家も、官僚も、財界も、学者も、メディアも、ずる賢い悪党も、みな親鳥を探している。

親鳥は、時代ごとに変わる。

ローマ。
欧米。
アメリカ。
国際機関。
グローバルスタンダード。
専門家。
市場。
科学。
安全保障。
AI。
半導体。
パンデミック。

そして、見せられた神話を親だと思い、ついていく。

その途中で、前の方のひよこは餌を多く食う。
後ろの方のひよこは残り汁を受け取る。
さらに後ろのひよこは請求書だけを受け取る。

これがこの国の実態である。

思想とは、ここで立ち止まることである。

親鳥に見えるものを疑うこと。
神話の語り手を見ること。
配管を見ること。
配管を通るカネを見ること。
配管から逃げる責任を見ること。
そして、自分の理由で判断すること。

自然法も自然権も、絶対神ではない。
それは、配管を見た者たちが、なぜ従うのか、なぜ拒むのか、何を根拠に立つのかを考えた結果である。

思想とは、その作業である。

日本に足りないのは知識ではない。
処理能力でもない。
真面目さでもない。
従順さでもない。

足りないのは、配管を見て、理由を立てて、自分で判断する思想である。

だから、この国はひよこなのだ。

神話を見せられると、親だと思ってついていく。
そして何度も同じ罠に入る。
しかも、入った後にこう言う。

当時は仕方なかった。
国際情勢が厳しかった。
専門家がそう言った。
国の方針だった。
みんなやっていた。

この言葉が出た瞬間、思想は死んでいる。

大いなるひよこの国。
思想なき優等生国家。
外部客観に刷り込まれる文明の雛。
配管を見ないまま、配管の中で生きる国。

この国の実態は、そこにある。

そして、もし次にまた大戦級の神話が来るなら、問うべきことは一つしかない。

その親鳥は、本当に親なのか。
それとも、また配管へ誘導するための影なのか。

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