ナフサ不足の深層を読む~グローバルスタンダードに最も適応した日本財界・産業界は、規格に執着して苦しむ
材料はある。
だが、作れない。
原油は世界中から集め始めた。ナフサも入ってくる。中東産が途切れたなら、アメリカ産を買えばよい。南米産でも、アフリカ産でもよい。必要なら混ぜればよい。多少、成分が違う。多少、収率が落ちる。多少、設備の調整が必要になる。
ユーザーからすれば、話は単純である。
材料があるなら、規格に多少のズレがあろうが、使えるものを早く、安く作れ。
塗装業者は、国際規格の神学論争を聞きたいのではない。シンナーが欲しいのである。
建設業者は、品質保証部門の責任分界点を勉強したいのではない。断熱材が欲しいのである。
食品会社は、透明性、色味、印刷品質、容器規格について延々と会議をしたいのではない。多少見栄えが違ってもよいから、商品を包んで出荷したいのである。
ところが、日本の産業界は、そこで固まる。
原料が少し違う。
従来仕様から外れる。
認証の範囲を確認しなければならない。
社内規定に照らさなければならない。
法務に聞かなければならない。
品質保証部門の了承を取らなければならない。
行政の見解を待たなければならない。
誰が責任を取るのか決めなければならない。
その間に、現場では物が消える。
これが、ナフサ不足の深層である。
単なる資源不足ではない。
グローバルスタンダードという名の規格宗教に、最も熱心に適応した日本財界・産業界が、規格への執着によって身動きできなくなった。
これは、そういう事件である。
量はある。だが、既存配管に流せない
ナフサ不足について、川上では「量は足りている」という。
政府も、石油業界も、原油やナフサは確保できると説明する。中東から入らないなら、別の地域から持ってくる。液体である以上、船さえあれば移動できる。価格を上げれば、資源は集まる。
一方、川下では「物がない」と悲鳴が上がる。
塗料がない。
溶剤がない。
断熱材がない。
塩ビ管がない。
包装材がない。
中間素材がない。
工事が止まる。
入札に応じられない。
生産計画が立たない。
政府は嘘をついているのか。
必ずしも、そうではない。
川上と川下では、時間が違うのである。
原油を輸入する。
製油所で精製する。
ナフサを取り出す。
石油化学工場で分解する。
エチレン、プロピレン、芳香族などへ加工する。
樹脂、溶剤、塗料、フィルム、断熱材、容器、配管へ流す。
物流倉庫を経由する。
問屋を通す。
小売店へ並べる。
現場へ届く。
原油のタンカーが港へ到着した瞬間に、ホームセンターの棚へシンナーが並ぶわけではない。
しかも、危機が報じられると、企業は自己防衛に走る。
少し多めに確保しておこう。
念のため、在庫を積んでおこう。
次に入らないかもしれない。
通常の一・二倍、二倍、三倍と注文しておこう。
個々の企業から見れば、合理的な行動である。
しかし、全員が同じ行動を取ると、市場から物が消える。
これが合成の誤謬である。
さらに厄介なのは、素材の性質が変わることである。
中東産原油と米国産原油は、同じ原油ではない。硫黄分、重さ、留分構成、精製条件が異なる。ナフサも単一物質ではない。様々な炭化水素が混ざった原料であり、投入する素材が変われば、生成物の比率も変わる。
平時なら、長年慣れた原料を使えばよい。
設備も、工程も、契約も、人材も、原価計算も、責任分担も、それに合わせて最適化されている。
だが、最適化とは、別の角度から見れば執着である。
中東産に適応し過ぎた結果、中東産が来なくなると、米国産が目の前にあっても、即座には使えない。
材料はある。
だが、既存配管に流せない。
グロスタとは、規格を神にすることである
規格そのものが悪いわけではない。
規格があるから、部品を交換できる。
品質を一定に保てる。
事故を減らせる。
大量生産ができる。
価格を下げられる。
遠隔地でも取引できる。
説明コストを減らせる。
問題は、規格を手段として使うことと、規格を神として拝むことは違う、という点である。
グローバルスタンダード、略してグロスタ。
これは、表向きには世界共通の取引基準である。
しかし、日本で運用されると、しばしば別のものへ変質する。
規格に従っていれば、責任を問われない。
規格から外れれば、何か起きたときに責任を問われる。
だから、誰も規格から外れない。
規格の方が現実に合っていなくても、現実の方を規格へ合わせる。
こうして、規格は品質保証の道具から、責任回避の城壁へ変わる。
現場で必要なのは、用途に耐える製品である。
だが、組織が必要としているのは、監査に耐える書類である。
ユーザーが必要としているのは、使えるものを早く、安く作ることである。
だが、会社員が必要としているのは、後で怒られないことである。
このズレが、平時には見えない。
既存の原料、既存の設備、既存の取引先、既存の仕様書、既存の認証制度が動いている間は、誰も困らないからである。
ところが、素材の前提が少し変わると、全体が固まる。
原材料を一本すげ替えただけで、産業がフリーズする。
これは、高度な産業社会なのか。
それとも、特定条件でしか動かない、巨大な官僚装置なのか。
三義務とは、執着を再生産する装置である
ここで、憲法に置かれた三義務へ戻る。
教育。
勤労。
納税。
日本人は、これらを疑ってはならないものとして教え込まれてきた。
教育を受けなさい。
真面目に働きなさい。
税金を払いなさい。
もちろん、学ぶことも、働くことも、社会の費用を分担することも、必要な局面はある。
問題は、必要性と義務を区別しないことである。
必要であることと、外部に置いた正しさとして無条件に従わせることは違う。
教育は、本来、自分で考えるためにある。
しかし、三義務の教育は、既存規格へ適応するための訓練になった。
試験に通る。
資格を取る。
偏差値を上げる。
評価基準を読む。
正解を当てる。
出題者の期待を先回りする。
組織が望む回答を書く。
勤労は、本来、何かを作り、誰かの役に立ち、自分の能力を発揮するためにある。
しかし、三義務の勤労は、組織内部で生き残るための訓練になった。
上司の顔色を読む。
社内規定を守る。
波風を立てない。
前例を踏襲する。
失敗を避ける。
責任を取らない。
会議を増やす。
書類を積む。
決裁印を回す。
納税は、本来、社会の基盤を維持するためにある。
しかし、三義務の納税は、制度配管を延命するための徴収装置になった。
税を集める。
補助金を流す。
政策を作る。
業界を指定する。
認証を増やす。
委託事業を増やす。
天下り先を作る。
さらに税を集める。
これが循環する。
三義務とは、単なる道徳標語ではない。
外部に置かれた正しさへ執着する人間を、教育によって作り、勤労によって配置し、納税によって制度的に再生産するシステムである。
ナフサ不足で露呈した規格への執着は、突然発生したものではない。
学校教育から始まり、就職活動を経て、企業内部で完成したのである。
三義務を官界と共に推進してきたのは、財界である
三義務の問題を、官僚だけの責任にしてはならない。
官僚機構と共に、この仕組みを強く推進してきた原動力は、財界・産業界である。
なぜか。
恩恵を受けるからである。
教育制度は、企業が欲しい人材を大量に供給する。
決められた時間に起きる。
決められた場所へ行く。
決められた課題をこなす。
決められた評価基準に従う。
正解のある問題を解く。
採点者の意図を読む。
競争に勝つ。
席順を守る。
命令に従う。
学校は、会社員養成装置として機能してきた。
勤労の義務は、会社を生活保障の中心に置く。
働かない者は悪い。
会社に所属しない者は不安定である。
空白期間は傷である。
転職回数が多い者は信用できない。
独立する者は変わり者である。
組織に適応できない者は能力が低い。
こうして、人間は会社へ縛られる。
納税の義務は、官界と財界を結ぶ。
税金を集める。
公共事業へ流す。
補助金へ流す。
研究開発支援へ流す。
輸出支援へ流す。
海外支援へ流す。
規制対応産業へ流す。
資格産業へ流す。
認証産業へ流す。
コンサルティングへ流す。
システム開発へ流す。
財界は、官界を批判するふりをしながら、官界の配管から利益を得る。
官界は、財界の要望を聞くふりをしながら、財界の存在を根拠に制度を増殖させる。
両者は敵ではない。
持ちつ持たれつである。
官界が規格を作る。
財界が規格へ適応する。
適応コストを価格へ転嫁する。
新規参入者は入れなくなる。
大企業は残る。
中小企業は下請け化する。
消費者が負担する。
税金で救済する。
さらに規格を増やす。
これが、戦後日本の安定した産業秩序だった。
そして、平時には強かった。
だが、前提が崩れると弱い。
ナフサ不足は、そのことを可視化した。
法人は共同体ではなくなった
かつての日本企業には、良くも悪くも共同体的な性質があった。
会社に入れば、長く働く。
上司と部下がいる。
先輩と後輩がいる。
仕事は現場で覚える。
失敗しても、誰かが尻を拭く。
社内に癖のある人間がいる。
変わり者もいる。
職人もいる。
妙に勘が鋭い者もいる。
学歴は低いが、現場では誰よりも使える者もいる。
もちろん、この共同体にも問題は多かった。
閉鎖性。
同調圧力。
長時間労働。
年功序列。
女性差別。
村社会。
理不尽な上下関係。
会社への過剰忠誠。
それでも、共同体には共同体なりの柔軟性があった。
人間を、履歴書の項目だけで見なかった。
あいつは口が悪いが、困ったときには使える。
あいつは営業は駄目だが、機械を触らせると天才だ。
あいつは会議では黙っているが、現場の異変には最初に気づく。
あいつは学歴はないが、素材の癖を知っている。
あいつは変人だが、誰も解けない問題を解く。
人間の性質を、長い時間の中で見ていた。
ところが、グロスタ化とアメリカナイズが進むと、法人の共同体的性質は解体された。
ここでいうアメリカナイズとは、アメリカ社会の自由や独立心を導入したという意味ではない。
むしろ逆である。
導入されたのは、自由の表面だけである。
成果主義。
自己責任。
ジョブ型。
流動化。
市場価値。
キャリア形成。
コンプライアンス。
ガバナンス。
株主価値。
人的資本。
スキルの可視化。
評価の数値化。
KPI。
リスキリング。
ポートフォリオ。
横文字は増えた。
だが、人間は自由になったか。
なっていない。
会社は共同体ではなくなった。
しかし、個人が主権者になったわけでもない。
その中間にある、最も不自由な状態へ落ちた。
共同体から切り離され、自由人にもなれず、評価指標に接続された労働部品になる。
もちろん、法的な意味で奴隷制度だと言っているのではない。
しかし、構造として見れば、法人内部は奴隷制度に近づいた。
会社に雇われるために、自分を商品化する。
評価されるために、自分を規格化する。
市場価値を上げるために、資格を足す。
キャリアを守るために、異論を言わない。
履歴書を汚さないために、空白を恐れる。
上司に嫌われないために、正しさを演じる。
転職市場で値段が下がらないように、人格まで整形する。
人間が会社へ所属するのではない。
人間が、人材規格へ自分を押し込む。
これが、グロスタ型法人である。
キャリアとは、奴隷の看板である
現代社会では、キャリアという言葉が神聖化されている。
キャリアを積む。
キャリアを守る。
キャリアアップする。
市場価値を高める。
スキルを証明する。
資格を取得する。
研修を受ける。
評価シートを埋める。
転職サイトへ登録する。
自己分析をする。
ポータブルスキルを整理する。
しかし、そこで問われているのは、本当に能力なのか。
本当に、その人間が何を作れるか。
何を見抜けるか。
どのような異常に気づけるか。
どのような危機に対応できるか。
誰も答えを持たない問題に、どう向き合えるか。
そうしたことが評価されているのか。
多くの場合、そうではない。
評価されるのは、規格への適合度である。
どの学校を出たか。
どの会社にいたか。
どの部署にいたか。
何年勤務したか。
どの資格を持っているか。
どの研修を受けたか。
どのプロジェクトへ参加したか。
どの役職に就いたか。
キャリアとは、自由人の履歴ではない。
どの奴隷船で、どの持ち場に配置され、どのように命令へ従ってきたかを示す看板である。
しかも、この看板は能力を保証しない。
とびぬけた才能があっても、規格から外れていれば見抜けない。
学校教育に適応できなかった。
面接が苦手だった。
協調性が低いと判定された。
職歴に空白がある。
転職回数が多い。
言葉遣いが悪い。
上司に媚びない。
会議で空気を読まない。
横文字を使わない。
資格がない。
それだけで排除される。
逆に、使えない人材も見抜けない。
学歴がある。
資格がある。
受け答えが丁寧である。
コンプライアンス研修を受けている。
会議資料が綺麗である。
上司の意向を読む。
危険な判断を避ける。
責任を取らない。
問題を先送りする。
異常が起きても、前例がないと言う。
こうした人間は、平時には評価される。
なぜなら、規格へ適応しているからである。
しかし、危機時には動けない。
材料が変わった。
仕様が変わった。
物流が止まった。
原価が崩れた。
取引先が消えた。
従来の正解がなくなった。
すると、会議を開く。
ナフサ不足で産業が固まる構造と、人事制度が固まる構造は、同じである。
素材の性質を見抜けない。
人間の性質も見抜けない。
規格番号を見る。
履歴書を見る。
認証を見る。
肩書を見る。
資格を見る。
偏差値を見る。
KPIを見る。
数字を見る。
そして、肝心の対象を見ない。
多様性を語りながら、性質の多様性を見ない
現代企業は、多様性を語る。
ダイバーシティ。
インクルージョン。
女性活躍。
外国人材。
シニア人材。
障害者雇用。
リスキリング。
人的資本経営。
言葉は立派である。
しかし、ここでも規格化が先に立つ。
人間の性質そのものを見るのではない。
属性を分類し、制度へ配置し、数値目標へ落とし込む。
何人採用したか。
管理職比率は何%か。
研修を何時間受けたか。
離職率は何%か。
エンゲージメントスコアはいくつか。
つまり、多様性を語りながら、人間をさらに細かい規格へ分解している。
本当の多様性とは、そんなものではない。
誰も思いつかない発想をする者がいる。
誰も気づかない異変に気づく者がいる。
人付き合いは苦手だが、素材の性質を読む者がいる。
数字は弱いが、顧客の不満を直感的に察知する者がいる。
説明は下手だが、現場で手を動かすと異常に速い者がいる。
会社員には向かないが、独立させると化ける者がいる。
一つの場所では役に立たないが、別の場所では天才になる者がいる。
性質における多様性とは、目的関数と配置の問題である。
ところが、グロスタ型人事は、そこを見ない。
人間を交換可能な部品として扱う。
素材の違いを吸収できない産業が、人間の違いを吸収できるはずがない。
原油の性質が少し変わっただけで狼狽する企業は、人間の性質が少し違えば、当然のように排除する。
人材配置を間違えても、気づかない。
営業に向かない者を営業へ置く。
現場に向く者を管理職へ上げる。
技術者を会議漬けにする。
創造者を評価シートで潰す。
異常検知に優れた者を、空気が読めないとして排除する。
何も作れない者を、説明が上手いという理由で昇進させる。
そして、業績が落ちると研修を増やす。
規格への適応が足りない、と考えるからである。
違う。
配置が間違っているのである。
グロスタに最も適応した者が、最も変化に弱い
日本の財界・産業界は、グロスタへ熱心に適応した。
品質管理。
標準化。
工程管理。
認証。
監査。
コンプライアンス。
サプライチェーン管理。
ジャスト・イン・タイム。
在庫圧縮。
調達最適化。
外注化。
コスト削減。
評価制度。
資格制度。
人的資本。
平時には、これで勝てた。
誤差を削り、無駄を削り、余剰を削り、遊びを削り、変人を削り、現場の裁量を削り、在庫を削り、時間を削った。
そして、美しい規格品が並んだ。
だが、遊びがない機械は、環境が変わると折れる。
中東産が来ない。
アメリカ産ならある。
普通のユーザーは言う。
混ぜろ。
調整しろ。
多少品質が違ってもよい。
用途を限定しろ。
価格を下げろ。
暫定仕様で売れ。
早く作れ。
ところが、グロスタ秀才は言う。
規格が違います。
認証が必要です。
責任の所在が不明です。
前例がありません。
安全性を確認します。
関係部門と協議します。
行政へ照会します。
検討会を設置します。
そして、半年後。
大量に調達したアメリカ産原油とナフサが余る。
川下では、一部製品だけが足りない。
価格は乱高下する。
在庫は偏在する。
現場は疲弊する。
会議資料だけが増える。
これは予言ではない。
規格に執着する組織が、何度も繰り返してきた行動パターンである。
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