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属国日本論を超えて~日本はアメリカの属国?真相は尚悪い

日本はアメリカの属国である。

この言い方は、便利である。
実に便利である。
あまりに便利なので、戦後日本の官僚、財界、政界、メディア、有識者たちは、心のどこかでこの言葉を愛してきたのではないかと疑いたくなる。

なぜなら、「属国」なら、まだ被害者でいられるからだ。

アメリカが悪い。
敗戦が悪い。
GHQが悪い。
安保条約が悪い。
CIAが悪い。
ワシントンが悪い。
国際秩序が悪い。
外圧が悪い。

はいはい、そうですね。
便利ですね。
全部、外に置けますね。

だが、本当にいやらしい真相は、その一段下にある。

日本は、ただの属国ではない。
属国であることを利用して、国内の官と財が日本人主権者を支配してきた国である。

つまり、問題はアメリカだけではない。
問題は、アメリカという外部客観を神棚に置き、その神棚の前で国民を正座させ、そのあいだに配管を握ってきた日本人エリートである。

ここを見ない属国論は甘い。
甘すぎる。
砂糖をまぶした敗戦国根性である。

本当に臭いのは、外から来た支配ではない。
外から来た支配を口実にして、内側で飯を食ってきた者たちである。

属国ではなく、属国芸である

戦後日本の政界は、ずっと対米従属を演じてきた。

小泉劇場は、ブッシュとの仲良し芝居をやった。
郵政民営化、構造改革、自己責任、民間活力。
あの時代の言葉は、すべてアメリカ型改革のカタカナ祝詞だった。

安倍政権は、アベノミクスで円を薄め、株を上げ、外資と輸出産業を喜ばせた。
国民には「景気回復」と言い、実際には円キャリーと資産価格の祭りを演出した。
国民生活の地面では物価と将来不安が増えたが、株価と大企業決算が良ければ「日本復活」と言えた。便利な話である。

岸田や石破のような顔ぶれは、立場を左に見せながら、対外放出には事欠かなかった。
国内には財源論。
海外には支援。
国民には増税空気。
外には国際貢献。
なんとも上品な逆売春である。

そして高市的な流れになると、今度は保守愛国の衣装を着て、AI軍需、経済安全保障、防衛産業、対米同盟強化へ向かう。
戦前回帰風味を出しながら、実際にはグローバル軍需規格へ帰っていく。
旭日旗を振りながら、グロスタの祭壇で踊る。
獣の衣装を着たサタンである。
あるいはサタンの台本を読む獣である。

笑える。
いや、笑えない。

なぜなら、この劇場の入場料は、国民が払っているからだ。

税金で払う。
社会保険料で払う。
円安物価で払う。
低賃金で払う。
教育費で払う。
将来不安で払う。
そして最後には、主権者としての尊厳で払う。

政治家は役者である。
官僚は脚本家である。
財界はスポンサーである。
メディアは照明係である。
有識者は解説者である。
国民は観客であり、同時に財布である。

これが戦後日本劇場である。

明治から宿命は決まっていた

この構造は、戦後に突然できたわけではない。
もっと根は深い。

明治である。

明治日本は、近代国家として出発したように見える。
だが実際には、国民主権国家として出発したのではない。

出発点にあったのは、外部客観である。

欧米列強。
文明開化。
富国強兵。
天皇国家。
官僚制。
軍制。
中央集権。
徴兵。
納税。
教育。

つまり、明治日本は最初からこう設計された。

人間が国家を使うのではない。
国家が人間を使う。

ここで宿命が決まった。

戦前は、その外部客観が大日本帝国だった。
国体だった。
天皇を頂点にした国家だった。
教育、徴兵、納税、勤労によって、日本人は国家目的へ動員された。

これは獣である。

獣とは、制度化された外部客観としての国家である。
人間が自分の外に置き、信じて従う国家像である。
その国家像に、政治家、官僚、財界、軍、メディア、学識者が力と権威を預ける。

戦前日本は、その典型だった。

では戦後はどうなったか。

獣を捨てたのか。
国家偶像を捨てたのか。
国民主権を内在化したのか。

していない。

戦後日本は、獣を捨てたふりをして、別の外部客観を拝んだ。

アメリカ。
自由主義陣営。
経済成長。
国際標準。
財政規律。
市場原理。
コンプライアンス。
安全保障。
グローバルスタンダード。

これはサタンである。

サタンとは、自己解釈の余地を奪った規格化された外部客観である。
国家のようにローカルではない。
もっと滑らかで、もっと見えにくく、もっと清潔な顔をしている。

戦前は獣。
戦後はサタン。
そして現在は、獣とサタンの混合物である。

戦前回帰を叫びながらグローバル軍需に接続する。
愛国を語りながら国際標準に従う。
自主独立を言いながら対米同盟を太陽のように拝む。
保守を名乗りながら、AI軍需と経済安保のグロスタへ突っ込む。

ばかばかしい。
だが、このばかばかしさが現実である。

エゼキエル書の神殿に背を向ける男たち

エゼキエル書には、象徴的な場面がある。

神殿の内庭に、二十五人ほどの男たちがいる。
彼らは主の神殿に背を向け、東に顔を向け、昇る太陽を拝んでいる。

これほど戦後日本を描いたような場面もない。

神殿にいる。
だが神殿に背を向けている。
聖所の中にいる。
だが聖所の原理を拝んでいない。
外から昇る太陽を拝んでいる。

戦後日本の神殿とは何か。

憲法である。
国民主権である。
個人の尊重である。
公務員は全体の奉仕者であるという原理である。
国家は国民の道具であり、国民は国家の部品ではないという原理である。

だが、官財はその神殿に背を向けた。

そして東を向いた。

アメリカという太陽。
G7という太陽。
国際標準という太陽。
安全保障という太陽。
財政規律という太陽。
市場原理という太陽。
AI軍需という太陽。
経済安保という太陽。
コンプライアンスという太陽。

拝んだ。
実によく拝んだ。
涙ぐましいほど拝んだ。

しかも、国民の金で拝んだ。

これがいやらしい。

自分の金で勝手に拝むなら、まだ趣味である。
だが彼らは、国民から税を取り、社会保険料を取り、円安負担を押しつけ、将来世代に国債を背負わせ、その供物を高きところへ運んだ。

霞ヶ関。
経団連。
記者クラブ。
審議会。
外郭団体。
天下り先。
国際会議。
シンクタンク。
官製市場。
防衛産業。
AIガバナンス会議。

ここが戦後日本の「高きところ」である。

山ではない。
言い訳の殿堂である。

高きところのカタカナ祝詞

高きところでは、祝詞が唱えられる。

昔は、国体、臣民、忠君愛国、八紘一宇だった。
いまはもっと洗練されている。

グローバル。
ガバナンス。
コンプライアンス。
サステナブル。
レジリエンス。
イノベーション。
トランスフォーメーション。
セキュリティ。
スタンダード。
エビデンス。
リスクマネジメント。
ステークホルダー。

祝詞がカタカナになっただけである。

これが進歩だと思っているなら、相当おめでたい。
祭壇の名前が変わっただけだ。
供物を運ぶ者は同じである。
国民である。

高きところで、官は祭司になる。
財界は商人になる。
政治家は舞台役者になる。
メディアは実況係になる。
学識者は祝詞係になる。
国民は供物を納める係になる。

そして神棚には何があるのか。

アメリカか。
国際標準か。
安全保障か。
市場原理か。

違う。

本当に祀られているのは、そんな高尚なものではない。

「外部権威を拝んでいることにすれば、自分たちの利権配管を維持できる」という官財の目的関数である。

この偶像が、一番醜い。

金を払って奉仕する戦後日本

エゼキエル書には、さらに嫌な表現がある。

普通の娼婦は報酬を受け取る。
だがお前は違う。
お前は自分から金を払って相手を招く。

この下品さ。
この露骨さ。
聖書はときどき、現代の政治評論よりはるかに正確である。

戦後日本は、まさにこれだった。

普通の属国なら、支配者に搾取される。
資源を奪われる。
富を吸い上げられる。
命令される。

だが戦後日本は、そこから一段倒錯している。

支配されているから貢いだのではない。
貢ぐことによって、支配される地位を維持した。

米国債を買う。
米国市場に依存する。
基地を受け入れる。
米国基準を輸入する。
防衛装備を買う。
国際標準を国内制度へ入れる。
グローバル金融に合わせる。
米国発のIT・AI・軍需・安全保障構造へ接続する。

そして国内ではこう言う。

「同盟上やむを得ない」
「国際社会の要請だ」
「安全保障上必要だ」
「世界標準に合わせなければならない」

いやらしい。
実にいやらしい。

これは、外から押しつけられただけではない。
国内の官財が、それを望んだのである。

なぜか。

責任を外に逃がせるからだ。

「アメリカが言っている」
「国際標準だから」
「市場が評価するから」
「安全保障だから」
「財政規律だから」

この呪文があれば、国内の意思決定者は責任を曖昧にできる。
官は政策失敗を外部環境のせいにできる。
財界は自分たちの利権を国益と呼べる。
政治家は芝居を演じればよい。
メディアはそれを現実として流せばよい。

国民だけが払う。

だから戦後日本は、単なる属国ではない。
金を払って属国をやる、倒錯したバビロンである。

テレビ朝日買収騒動で見えた本丸

かつて、テレビ朝日株をめぐる騒動があった。

孫正義と米メディア支配者ルパート・マードック。ソフトバンクとニューズ社が、旺文社メディアを通じてテレビ朝日の株式を間接保有しようとした。
アメリカ式のM&Aの感覚で、メディアの本丸に手を入れようとした。

すると、日本側は大騒ぎになった。

普段はグローバルだの、市場原理だの、株主価値だの、規制緩和だの言っている連中が、テレビ局と新聞社の話になると、急に「公共性」「国益」「報道の独立」を言い出す。

笑える。

庶民の生活には市場原理。
中小企業には競争。
労働者には自己責任。
地方には効率化。
農業には開放。
医療には改革。
教育にはグローバル化。

だが、自分たちのメディア配管だけは守る。

なぜか。

そこが、国民に「何を現実と思わせるか」を決める装置だからである。

つまり、彼らはアメリカに従っているのではない。
アメリカに従うふりをして、日本人を従わせているのである。

本当にアメリカ資本が本丸に入ろうとすると、慌てて門を閉める。
普段はグローバルを唱えながら、都合が悪くなると民族主義者になる。

このご都合主義。
この二枚舌。
この腐った上品さ。

これが戦後日本である。

ホリエモン騒動と伊丹十三の匂い

メディアの本丸に穴を開けようとした者は、だいたいひどい目に遭う。

ホリエモン騒動はその象徴である。
フジテレビ、ニッポン放送、ライブドア。
新興IT資本が株式市場のルールで既存メディア支配に突っ込んだ。

法理としてライブドア側に分があった局面もあった。
だが社会的記憶では、最後は「ホリエモンが悪い」で閉じられた。

個人の道徳へ落とされる。
拝金主義の若造。
粉飾した経営者。
調子に乗ったIT成金。

はい、構造は消えました。
メディア支配の問題は消えました。
既存秩序の防衛は消えました。
残ったのは、個人の失敗物語です。

伊丹十三も同じである。

彼はヤクザだけを笑ったのではない。
ヤクザを必要とする表社会を笑った。
民暴、総会屋、企業、芸能、病院、税務、制度の欺瞞を笑いで暴いた。

だから危険だった。

伊丹十三の襲撃事件。
その後の転落死。
公式処理。
自殺。
スキャンダル。
本人の問題。
トウキョウ・バイス。

またしても、構造は消える。

この国では、構造に触れた者は、個人問題に還元される。

「本人が悪い」
「違法行為があった」
「スキャンダルがあった」
「精神的に追い詰められた」
「事件性はない」

便利である。

あまりに便利である。

暴力団より厄介なのは官である。
暴力団は暴力団の顔をしている。
官は合法の顔をしている。
逮捕、起訴、不起訴、行政処分、リーク、自殺処理、事件性なし、コンプラ違反、社会的信用の破壊。

全部、合法の顔をした暴力になり得る。

しかも、それを動かす者たちが、出世欲、面子、組織防衛、省益、縄張りで動く。

これが一番キモい。

戦後日本の本質は承認欲求とサバイバルである

結局、戦後政治の本質は何か。

理念ではない。
国家戦略ではない。
国民の幸福ではない。
主権者の尊厳ではない。

もっと下品である。

承認欲求とサバイバルである。

官僚は、優秀だと認められたい。
財界人は、国際ビジネスの勝者でいたい。
政治家は、歴史に名を残したい。
メディア人は、現実を裁く側にいたい。
学識者は、権威ある知識人でいたい。

そのために、日本人主権者が犠牲になる。

国民のためではない。
国家のためでもない。
アメリカのためだけでもない。

自分たちが制度の上側に残るため。
自分たちが承認されるため。
自分たちが逃げ切るため。

そのために、戦後日本は運用されてきた。

だから、属国論では足りない。

属国なら、まだ外敵が主役である。
だが真相は、国内の日本人エリートが主役である。

日本人が日本を裏切った。
日本人が日本人主権者を裏切った。
そしてその裏切りを、「対米従属だから仕方ない」という物語で包んだ。

これが尚悪い真相である。

日本の多数派が日本人主権者の敵になる

さらに悪いことに、この構造にぶら下がる者が多すぎる。

官僚だけではない。
財界だけではない。
政治家だけではない。

外郭団体。
補助金企業。
業界団体。
士業。
大学。
シンクタンク。
記者クラブ。
広告代理店。
コンサル。
医療利権。
教育産業。
防衛産業。
公共事業。
地方行政。
国際会議屋。
NPO。
規格認証屋。

きりがない。

彼らの多くは、自分では悪人だと思っていない。
むしろ真面目に働いているつもりだろう。

だが構造としては、主権者が目覚めると困る側にいる。

主権者が目覚めると問われるからだ。

「その制度は誰のためか」
「その予算は誰に流れるのか」
「その法案は誰が書いたのか」
「その安全保障は誰の商売か」
「その国際標準は誰が輸入したのか」
「その補助金はなぜ必要なのか」
「その天下り先はなぜ存在するのか」
「そのコンプラは憲法より上なのか」

だから彼らは、主権者を育てない。

教育で従順にする。
勤労で疲弊させる。
納税で吸い上げる。
報道で現実認識を管理する。
法律で行動範囲を縛る。
コンプラで発言を縛る。
専門知で思考を縛る。
国際標準で逃げ道を塞ぐ。
安全保障で疑問を封じる。

その結果、日本人が日本人主権者の敵になる。

これは民族の問題ではない。
認識の問題である。

外部客観を信じて従う者が、内在化された主権者の敵になる。

これが戦後日本のもっとも倒錯した構図である。

バビロンの崩壊で嘆くのは財界である

黙示録の大いなるバビロンが崩壊すると、嘆くのは誰か。

商人である。
王たちである。
船乗りである。
交易に関わる者たちである。

要するに、権力、商業、物流、金融、貿易、贅沢品、人間の魂まで売買してきた者たちである。

現代日本に置き換えれば、嘆くのは財界である。

なぜなら、バビロンとは市場だからだ。
補助金市場。
軍需市場。
AI市場。
経済安保市場。
医療市場。
教育市場。
規格市場。
コンプライアンス市場。
復興市場。
安全保障市場。
不安市場。

財界は、正義が失われるから泣くのではない。
文明が滅びるから泣くのでもない。

商売が終わるから泣く。

「大いなる都が滅びた」

と嘆く。

だが本音は、

「俺たちの商売が終わった」

である。

なんとも聖書的である。
そしてなんとも現代的である。

官は嘆く前に焼かれる

財界は嘆く。
だが官はもっと深刻である。

官は、嘆く前に焼かれる。

天下り先財界が焼かれる。
予算財政が焼かれる。
国民からの信用が焼かれる。
AIによって能力と必要性が焼かれる。

官僚制は、自分を神官だと思ってきた。

我々は国家を運営している。
我々は専門知を持っている。
我々が法案を書かなければ国は動かない。
我々が予算を配らなければ社会は回らない。
我々が制度を設計しなければ国民は迷う。

たいへん結構。
ずいぶん偉いことである。

だがAIは、その神秘性を焼く。

資料を読む。
制度を比較する。
法案文言を検討する。
過去答弁を照合する。
予算配管を追う。
審議会人事を調べる。
天下り先を可視化する。
政策の矛盾を整理する。

こうした作業は、もはや霞ヶ関の密室芸でなくなる。

複雑だから任せろ、という呪文が効かなくなる。

官僚制は、能力を焼かれる。
必要性を焼かれる。
信用を焼かれる。
祭司性を焼かれる。

そして残るのは何か。

選ばれてもいないのに、法案を書き、予算を握り、国民に負担を押しつけ、失敗しても異動で済ませ、退官後は天下り先へ向かう高コスト事務屋の正体である。

これはきつい。

財界は損をする。
官はバレる。

この差は大きい。

タンムズ、イエス、清顕、そして日本

聖書の深層には、回収不能の死者がいる。

タンムズである。
ドゥムジである。
処刑されたイエスである。
三島由紀夫『豊饒の海』の清顕である。

死んだものは、生き返らない。
戻らないものは、戻らない。
殺されたものは、殺されたままである。

だが、人間はそれを認められない。
神もまた、それを認められない。
文明もまた、それを認められない。

だから、名前を反復する。
役職を反復する。
儀式を反復する。
制度を反復する。
輪廻を作る。
復活を作る。
国家を作る。
法を作る。
神話を作る。

だが、それは本当の回収ではない。

回収不能を、回収したことにする装置である。

ここに呪いが生まれる。

呪いとは、幽霊が出ることではない。
回収不能を回収したと偽った因果が、あとから現実を歪ませることである。

戦後日本も同じだ。

主権者を主権者として立てなかった。
だが、国民主権だと言い続けた。
憲法を理解しなかった。
だが、憲法国家だと言い続けた。
対米従属を利用した。
だが、国益だと言い続けた。
官財癒着を続けた。
だが、成長戦略だと言い続けた。
国民を動員した。
だが、自由社会だと言い続けた。

これが呪いである。

エゼキエルから黙示録へ

エゼキエルでは、神殿の背教が問題になる。

高きところ。
姦淫。
金を払う逆売春。
タンムズを嘆く女たち。
東の太陽を拝む男たち。
神殿に背を向ける祭司たち。

だが黙示録では、それが文明全体へ拡大する。

獣。
偽預言者。
大いなるバビロン。
王たち。
商人たち。
世界交易。
都市の崩壊。
火で焼かれる文明。

つまり、エゼキエルの神殿問題が、黙示録では文明問題になる。

戦後日本も同じである。

最初は官僚制の問題だった。
財界の問題だった。
対米従属の問題だった。
メディアの問題だった。
憲法理解の問題だった。

だが、それらはつながっていた。

国家を外部客観として拝む。
アメリカを外部客観として拝む。
国際標準を外部客観として拝む。
財政規律を外部客観として拝む。
AI軍需を外部客観として拝む。

外部客観を拝む文明は、必ずバビロン化する。

そしてバビロンは、必ず自壊する。

なぜなら、外部客観は責任を取れないからだ。

「アメリカが言った」
「国際標準だから」
「法律だから」
「専門家が言った」
「市場がそう評価した」
「AIが判断した」

こうして責任を外へ逃がす。
誰も全体責任を取らない。
部分合理性だけが積み上がる。
そして全体として誤る。

これがバビロンの予定説である。

属国論を超えて

だから、結論はこうである。

日本は属国か。

はい、属国である。
だが、その言い方ではまだ甘い。

真相は尚悪い。

日本は、属国であることを利用して、国内の官財が日本人主権者を支配してきた国である。

アメリカが日本を裏切ったのではない。
もちろん外圧はあった。
占領もあった。
安全保障上の制約もあった。

だが、それだけではない。

日本人が日本を裏切った。
官僚が主権者を裏切った。
財界が国民生活を裏切った。
政治家が代表制を裏切った。
メディアが現実認識を裏切った。
学識者が知性を裏切った。

そしてその裏切りを、対米従属という大人の事情で包んだ。

ここがいやらしい。
ここが尚悪い。

属国なら、まだ外敵がいる。
だが本当の敵は、外だけではない。
外を理由にして内側で飯を食ってきた者たちである。

戦後日本とは、アメリカという太陽を拝むふりをしながら、官財が高きところに祭壇を築き、国民の税を供物にし、政治家に芝居をさせ、メディアに物語を流させ、学者に祝詞を読ませたバビロンである。

そして、そのバビロンは焼かれる。

財界は嘆くだろう。
官はバレるだろう。
政治家は芝居を続けようとするだろう。
メディアは物語を作り直そうとするだろう。
学識者は新しいカタカナ祝詞を探すだろう。

だが、もう見えている。

神棚の奥に神などいない。
あるのは配管である。

天下り。
補助金。
許認可。
国債。
税。
軍需。
メディア。
規格。
コンプライアンス。
AIガバナンス。
経済安保。
対外放出。

これが獣の内臓である。
これがサタンの配管である。
これが戦後日本の正体である。

だから、属国論を超えるとは、反米を叫ぶことではない。
自主独立ごっこをすることでもない。
愛国芝居をすることでもない。
大日本帝国の旭日をもう一度拝むことでもない。
グローバルスタンダードの太陽を拝むことでもない。

属国論を超えるとは、こういうことだ。

外部客観を神棚に置くな。
アメリカを言い訳にするな。
国家を偶像にするな。
規格を神にするな。
官財の配管を国益と呼ぶな。
憲法の主権者原理を、紙ではなく自分の認識として内在化しろ。

そこからしか始まらない。

日本は属国か。
そうだろう。

だが真相は尚悪い。

日本は、属国であることを利用して、日本人が日本人主権者を裏切ってきた国である。

だから今、問われているのはアメリカからの独立ではない。
その前に、もっと嫌な問いがある。

日本人は、日本人主権者を裏切ることで生き延びてきた自分たちの高きところを、まだ拝み続けるのか。

ここである。

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