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ウイスキー短編小説229:シークレット・スペイサイド 1995 23年 "the Moon"

福岡市中央区大名に、「Bar near the river」はある。

masaが扉を開けると、カウンターには見慣れた光景が広がっていた。バーテンダーのシンと、常連客のまどかがワイングラスを傾けながら何やら楽しそうに話している。

「あ、masaさん、今日の月見ました?」

まどかが振り向いて声をかけてきた。

「ああ、見た見た。今日は満月だね」

masaは空いている席に腰を下ろしながら答えた。店に来る途中、ビルの間から覗く満月があまりにも美しくて、思わず立ち止まって見上げてしまったのだ。

「でしょう? 私、今日は満月だからって早めに仕事切り上げて来たんですよ」

まどかは嬉しそうに笑った。普段はワインしか飲まない彼女だが、今夜は何か特別な気分なのだろう。

「満月か...」

masaは窓の外を見やった。ビルの隙間から、まん丸い月が覗いている。

「シンさん、満月をテーマにしたウイスキーって、何かある?」

スコッチを飲み続けて30年、ウイスキー検定2級まで取得しているmasaだが、この質問は半ば冗談のつもりだった。

ところがシンの目が、待ってましたとばかりに輝いた。

「ありますよ。それも、今夜のために取っておいたようなボトルが」

シンは棚の奥から、見たこともないボトルを取り出した。ラベルには月のシルエット。

「シークレット・スペイサイド 1995 23年 "the Moon"。信濃屋酒販のプライベートボトルです」

「信濃屋...あの東京の?」

masaは身を乗り出した。信濃屋酒販の名前は知っている。世界的なウイスキーコンペティション「アイコンズ・オブ・ウイスキー」で最優秀小売店部門を4度も受賞している、日本を代表する酒販店だ。

「そうです。彼らのプライベートボトルは、ただのPBじゃない。専門バイヤーが毎年スコットランドまで足を運んで、自分たちの五感で樽を選び抜いている。まさにインディペンデント・ボトラーの仕事ですね」

シンはワイングラスにウイスキーを注ぎながら説明を続けた。

「このボトルは『Sun & Moon』シリーズの第3弾。太陽と月、対照的な性格を持つ2つの樽を対としてリリースするコンセプトなんです」

「太陽と月...」まどかが興味深そうに繰り返した。

「ええ。"the Sun"は1993年蒸溜の25年もの、ホグスヘッドで熟成。明るく華やかで、蜜蝋や熟した果実、シナモンの香り。一方、この"the Moon"は1995年蒸溜の23年、シェリーバットで熟成されています」

masaの前に置かれたグラスから、深く重厚な香りが立ち上ってきた。

「かりんとう、キャラメル...それにバルサミコ酢? カシスも感じる」

「さすがですね。Sunが外向的な太陽の明るさだとすれば、Moonは内省的な夜の深み。プルーンの甘みから始まって、余韻にかけてドライでビターなタンニンへ変化していきます」

masaは一口含んだ。確かに、最初は甘く濃密だが、やがてほろ苦さが舌の上に広がっていく。まるで満月の夜に一人で物思いに耽るような、静かで深い味わいだった。

「シークレット・スペイサイドって、どこの蒸留所なんですか?」

まどかが尋ねた。

「それが分からないんです。蒸留所側のブランド保護や流通の都合で、実名は伏せられている。でも、このフレーバーから推測すると...」

シンは少し考えてから続けた。

「マッカラン、グレンファークラス、あるいはグレンロセスじゃないかと言われています。でもね、それが分からないことにも意味がある。ブランド名に左右されず、液体そのものの品質と向き合える」

「ブラインドの哲学、ってことですか」

masaは感心した。ウイスキー検定の勉強で得た知識とは違う、実際に樽を選び、ボトリングし、世に送り出す人たちの思想がそこにあった。

「私も飲んでみたい」

まどかが目を輝かせた。

「いいですね。今夜は満月ですから」

シンは笑顔でもう一つグラスを用意した。

三人は窓の外の満月を見上げながら、グラスを掲げた。

「満月に乾杯」

琥珀色の液体が月明かりを映して、グラスの中で静かに揺れている。

「不思議ですね」まどかがしみじみと言った。「1995年に樽に詰められたウイスキーが、23年の時を経て、2026年の満月の夜に、こうして私たちのグラスに注がれている」

「時間も、月も、ウイスキーも、ぜんぶ巡っていくんでしょうね」

masaは窓の外を見た。満月は相変わらず静かに輝いている。

「信濃屋さんは、ただウイスキーを売っているだけじゃないんですよ」シンが穏やかに語った。「日本のウイスキー文化そのものを育てている。適正価格を守り、丁寧なテイスティングノートを提供し、国内のクラフト蒸留所を支援する。90年以上かけて培ってきた目利きの力で、私たちに本物を届けてくれている」

「こういうお店があるから、私たちも本物に出会えるんですね」

まどかは満足そうにグラスを傾けた。

masaもゆっくりとウイスキーを味わった。甘く、深く、そしてほろ苦い。まるで人生のようだと思った。30年間スコッチを飲み続けてきたが、まだまだ知らないウイスキーがある。まだまだ出会いがある。

「次は"the Sun"も飲んでみたいな」

「それはまた、晴れた昼下がりにでも」

シンは笑った。

窓の外では満月が、今夜も変わらず街を照らしている。那珂川の流れる音が静かに聞こえる。小さなバーで、三人は月を飲みながら、穏やかな時間を過ごしていた。

――満月の夜は、特別なウイスキーで。

シークレット・スペイサイド 1995 23年 "the Moon"

もしも「Bar near the river」が実在したら・・・
masa・まどか:シークレット・スペイサイド 1995 23年 "the Moon"編

シークレット・スペイサイド 1995 23年 "the Moon"
シークレット・スペイサイド 1993 25年 "the Sun"


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