『アリババ』感想・考察(ネタバレあり)
(お読みになる前に、ひとつ前の記事に目を通していただけるとありがたいです。あくまでも素人の、個人の感想・解釈で、間違っている可能性もあることをご承知おきください)
新宿梁山泊の紫テントで初見でしたが、私がここ10年で見てきた唐十郎作品の中でも稀有な作品でした。
とても面白かった!
堕胎した子供が夫婦のもとに帰ってくる、『世にも奇妙な物語』みたいなお話でした。
モチーフ・元ネタ
この作品のモチーフとなっているのは、
「アリババと40人の盗賊」と、ユリシーズ(=オデュッセウス)と彼が考案した「トロイの木馬」作戦。
「アリババと40人の盗賊」は「開けゴマ!」の呪文の話ですね。
「トロイの木馬」は、かつて戦争状態にあった敵国に、プレゼントだと言ってすごく大きな木馬をプレゼントし、敵国はそれを受け入れて自分の陣地に持ち込んだところ、木馬の中には兵士が隠れていて油断したところを攻撃されて負けてしまった、というような逸話です。
どちらもウィキペディア等であらすじを確認すると面白いと思います。
「アリババと40人の盗賊」はあまりにもこの作品との共通点が見つからなくて面食らいましたが、アリババの「ババ」はアラビア語で「お父さん」を意味するそうです。
また、「開けゴマ!」には続きがあり、盗賊の財産を盗んで大金持ちになったアリババのもとに盗賊たちが仕返しに来ます。
その際、壺を括り付けた馬を何頭も用意し、その中に盗賊の手下たち39人を隠れさせて、盗賊のボスは旅商人のふりをしてアリババの屋敷に乗り込んできます。
外部から攻撃するのではなく、何かに紛れ込ませて敵陣に仲間をたくさん連れこんで内側から攻撃する作戦は、「トロイの木馬」に似ていますね。
「アリババと40人の盗賊」では、機転の利くお手伝いの女性が壺の中に隠れている盗賊たちに気づき、煮えたぎった油を壺に注いて盗賊たちを皆殺しにしてアリババの窮地を救います。(残忍だなぁ…)
もしかしたら、『アリババ』やジョン・シルバーが出てくる『宝島』の原作まで予習して臨んだ方がいたら、原作の片鱗もなくてびっくりしていると思います。
大丈夫です。私も『おちょこの傘持つメリーポピンズ』という作品を見る前に『メリーポピンズ』の映画を見て臨んだら、ほぼ関係なくてびっくりした経験があります!笑
でもそこから『メリーポピンズ』大好きになったので結果オーライです!
ちなみに『アリババ』のオープニングが『チムチムチェリー』でしたね。
それに気づけるようになっただけでも観た甲斐がありました。
唐さんは、既存の作品をモチーフとしてのみ使うことが多いようです。
貧子と宿六の夫婦
彼らは「2年前の夏、5カ月だった英子を隅田川に捨てた」というセリフがありました。
「5ヶ月だった」と言っているものの、堕胎だったようで、それを川に流すなんてことがあるのか不思議ですが、「生まれなかった子供にはお墓すら作っていなかった」ことを恨んでいた様子。
ちなみに、「英子」は「嬰児」から来ているのかな?
「貧子」はそのまま、貧しくて子供をおろしたことを意味し、
「宿六」という名前も、お腹に「宿る」を連想させる名前だなと思いました。
裸足で走る
いきなり『愛の乞食』の話に飛ぶのですが、
「三本足」という言葉が出てきます。
まぁ、下ネタですね。右足、左足、そしてその間にあるモノ。
だから、裸足というか「足」にその意味もあると思います。
それと、スフィンクスのなぞなぞ「朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足」とあるように、「人間とはなんぞや?」というテーマにも「足」は絡んでくると思います。
なんか、宿六が裸足で走る意味不明な自慢話をすればするほど、コンプレックスを感じちゃいます。
恐らく、この夫婦は2年前の堕胎以降、その事に向き合えず、すれ違い続けてレスになってしまったのかなと想像します。それも宿六の方が不能になったんじゃないかな。
芝居の上でも、貧子の方から誘うようなそぶりはあるものの、それをかわす宿六が描かれていて。
そう考えると、男性的な「走り続ける黒い馬」を追い求め続けることもなんとなく理解できます。
宿六が求めていた「黒い馬」からは、”男性性の象徴”、”体力”、”自由”、”解放” みたいなイメージが伝わってきます。
話を聞いていると、黒い馬が俗に言う「コウノトリ」のようにも聞こえてきました。
(後日追記:「赤い馬」「黒い馬」については、Bunkamura版のパンフレットに近畿大学准教授の解説があって、私はそれで腑に落ちました)
赤
反対に、「赤い馬」のように「赤」のモチーフが作中にはたくさん登場します。
「血」はもちろんのこと、「赤ん坊」も「赤」。
地球儀も赤く染められていました。戯曲では、貧子が飲み干すタライの水も「赤い水」と書いてあります。
そもそも唐さんは紅テントを立ち上げた方だから、「赤色」に対する強いイメージがあるものと思われます。紅テントのことを「子宮」と表していたこともあります。色んなものが生み出される場所だからでしょうか。
ちょっと面白いかなと思ったのが、オデュッセウスが属していたのがアカイア軍で、つまり、トロイの木馬の腹の中に潜んでいたのが”アカ”イア軍の兵士だった、ということですが、、、これは考えすぎかな?笑
そして『チムチムチェリー』、チェリーも赤いですよね…
舞台からの飛来物
まず、おじいさんが桶からスーパーボールみたいなものを撒いていますが、あれは唐さんの舞台でよくある、水を撒くシーンを、劇場の都合でボールに変えたというものです。
さすがに客席の椅子を濡らすのがNGだったのだと思います。
唐さんの舞台は毎回、前の方は「「「何かしらの理由」」」で濡れるので、ビニールで「自分の身は自分で守ってください」と言われます。笑
一種のアトラクションみたいなものです。
そして、う●こですよね!
推しのう●こをキャッチすることなんて人生でもう二度とないだろうから、ファンにとってはすごい経験ですね。
いや、私も舞台観劇歴20年で、う●こ飛んでるのは初めて見たと思います。
ここを客席に絡むシーンにしたの、めちゃくちゃ良いなと思います。
戯曲で書かれているのはこの通りです。
男(うんこを取り出して見せる)
女:あたしもためようかな。
男(大事そうに、うんこをしまう)
以上!
過去の舞台で客席投げはやっていたのか、今回初めての試みなのかはわかりませんが、面白いなと思いました。
宿六はなぜう●こを貯めていたのか?
それは、
男が股から産めるのが、う●こしかないからです。
英子を産んであげたかった。けど、そうできなかったことへの後悔。
「あの時、産んであげられたら…」という気持ちに囚われて、
自分が産み落としたものを大切に乾燥させて貯めておくほどだった。
もしくは、自分が産み落としたものを捨てることへの恐怖かもしれません。
そんな強迫観念の集大成が、あの投げられたう●こだった。
そう考えると、ちょっと見方が変わりませんか?
執念や、苦しみや、産めなかったことへの執着。
そして子宮を持たない生き物の悲しみ・哀れさを感じます。
この後のセリフがこう続きます。
男:泣いたよ、俺。
女:泣いちゃったの?
男:涙はどうして目から流れ落ちるんだろうね。俺はいろんな所で泣くのに…
涙はどうして、心臓や尾骶骨から流れないんだ。
ああ、もう、俺―――。…ああ、無駄な事さ。
てんで…もう何もかも…
このセリフ、すごいですよね。
体中のあらゆるところから涙を流しても足りない程の悲しみだってことが伝わってきます。
それでいて、なんだかロマンチックというかファンタジーというか。
でも、どう頑張っても涙やう●こしか男の体からは出せなくて、子供を産むことが出来ない残酷さも同時に表されています。
そういうところが唐作品の好きなところです。
そして、膝枕のシーンになります。
たぶん、ここまでの宿六は男性的な立場もあり、妻にさえ虚勢を張っていた部分があったのですが、この膝枕のシーンで一気に子供返りします。
しかし、宿六という人物は、ここまで堕胎を引き摺っていながら、現実的に収入を増やすとか、子をもうけるために前向きに何かを努力する様子は伺えません。
結局ずっと問題の根本には目をそらしたまま、ただ「馬が来るのを待っているだけの人」です。このテーマは後半の『愛の乞食』にも通じます。
貧子と老人
途中で出てくるのが、「捨て子拾い」をしているおじいさん。
このおじいさん、勝手に部屋に入ってくるものの、最初は宿六にしか見えていません。
貧子がおじいさんを見えるようになるプロセスは
以下の通りです。
①タライの水を飲む
②飲んだものを吐き出す
③吐いたものを児に飲ませる
④英子の手を見つめ、英子を思い出す
⑤おじいさんが見えるようになる
①~③は動物の母親がみんなやっていること、食べて、お乳を出して、それを子に飲ませることに通じると思います。そんな母親の行動をしたことで、貧子は英子を思い出し、おじいさんが見えるようになる。
英子との過去を思い出すから、おじいさんが見えるようになる。
なぜか?
このおじいさんは「小児科の医者だった」と言っていますが、小児科ではなく婦人科の医者で、堕胎手術の執刀医です。
貧子がおじいさんに気づいたときに赤い手袋をはめるのはそのモチーフで、手袋の赤は掻爬法、つまりスプーンのような器具を使って子宮から胎児を掻き出す手術をしてついた血を意味しています。
ここ、とても怖くて面白いと思います。
対比の構造
この作品は男と女が主人公なので、当たり前に「男」と「女」の対比が描かれています。
冒頭でイキイキと「走る馬」の話をしている宿六と、内職をしている貧子。「男:理想」と「女:現実(日常)」みたいな構図に見えます。また前半ではあくまでも「男」と「女」である感じがします。
それが、上記の膝枕シーンから、貧子の「母性」が顔を出してきます。
でも、宿六には「父性」を感じない。
余談ですが、女は孕んだ時から母親になると言うけど、男が父親になるのはいつどのタイミングなんだろうー?みたいなことも考えました。
その後、おじいさんが戻ってきて、あれこれあって貧子がおじいさんを見えるようになって、ここからはおじいさんが過去の堕胎について貧子を責めていきます。
でも、一向に貧子をかばわないんですよね、宿六は。
「馬は!?」ばかり言っている。
過去について心理的に追い込まれるほど、馬を求める。
『愛の乞食』の方で詳しく書きますが、この両作品では「ただ待っている」人たちが出てきます。救世主を求めているような。
でも、来ない。
来たのはおじいさん。
そして、「黒い馬」を求めているのに「赤い馬」が来てしまう。
不条理ですよね。
貧子はどんどんおじいさんのペースに乗せられて、「母親」になっていく。
海賊の姿をした児たちが出てくる。
「朝は海の中」のなぞなぞにもあったように、「羊水=海」であり、
胎児たちに囲まれて、この空間自体が子宮のように感じられます。
紅テント=子宮 の例えのとおり
トロイの木馬=木馬という子宮の中に無数の兵士
アリババ=壺の中に入っていた
色んなモチーフがつながっていきます。
安心感があって安らかな空間。
児たちが、こっちへおいでよと言うように「おとーさーん」と呼びかけます。
なんかもう、エヴァンゲリオンの人類補完計画みたいな?
皆でひとつになって安寧の中でずっといようよ的な気持ち悪さ。
気が付いたら、いつの間にか子宮に囚われ、取り込まれそうになっている。
ここまでされてようやく宿六がナイフを持ち出し一歩を踏み出す、という展開です。
ラストシーンについて
最後の方で出てきた英子が「”子供を所有している”という感覚が忘れられなくて、30カ月孕んだ例もある」みたいな長台詞を言うんですけど、これは『唐十郎全戯曲集』版でも『悲劇喜劇』版でも載っていないんですよね。
もう一度読み返したいのに。
というか、戯曲には英子が出てきません!!!
会話の中に名前が出てくるだけで、本人が登場はしません。
戯曲を読んで、観劇する前に配役表を見たら「英子」って書いてあって、びっくりしました。
出るんかい!こわっ!!って。
英子を出したのは梁山泊のオリジナルなのかが気になります…!
戯曲のラストでは、宿六が「赤い馬」をナイフで刺すものの、ナイフが折れて終わります。
男はさびたあのナイフを赤い馬につきたてる。
どこかで馬の声がいななく。
が、そのナイフは真中で、ポキリと折れてしまう。男、折れたナイフを凝視している、児1・2・3は男が気がかりで覗く女をさえぎるように囲み、狂ったように歌い続けている。
このト書きと児たちの歌で幕を閉じます。
なんかバッドエンドっぽいですよね。現状打破できなかった感じ。
この戯曲版ラストと比較すると、今回のラストでは
①宿六がおじいさんを刺す
②しかし一瞬のうちにおじいさんに太ももを刺される
③倒れてから地球儀の上に足を乗せ
④貧子とアイコンタクトの後、覚悟を決めて足を切る
このラストシーンは、ものすごく一歩を踏み出した感じがします。
②で刺されるのが足なのも、冒頭に書いた「男性」の象徴や「人間とは?」の象徴だからだということがわかります。
④で自らを「切り拓く」「痛みを伴いながら殻を破る」みたいに見えます。
「体内回帰願望」という言葉があって、「お母さんのおなかに戻りたい」「子宮に戻ってゼロになりたい」「産み直してほしい」みたいな心理状態のことを言うそうですが、そういう甘い誘いをする児たちをはねのけて、自らの力で殻を破るようなことだと思います。
「待ち続ける」「現状維持」からの脱却。
後半の『愛の乞食』のテーマにもつながります。
東京千秋楽の時の貧子さんが、力強い目線のまま口角を上げてうなずくことで背中を押したのが印象的でした。
『アリババ』では週に13人の子供が捨てられていますが、
『愛の乞食』では年に13人の女が殺されます。
別々に書いた戯曲なのに、通じているのがすごいですよね。
子宮の海を泳ぐ海賊たち(児たち)から、次は荒波を駆ける海賊たちの話に移行します。
『アリババ』と『愛の乞食』、これを2本立てにしようという考えがすごいと思いました。
次回は『愛の乞食』について書く予定です。
思いのほか長い記事になってしまい、すみません。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
