経験知の価値 — note に個人的体験を書くことの意義について
noteに何を書くべきか?
「noteに何を書くべきか?」と考えることがあります。
この問いに対する1つの回答例として「専門分野や本業に関するテーマを書く」というものがあります。
専門分野や本業に関することであれば、知識や経験があるため、書く内容に困らない……といった理由によるものです。
「知識や経験を広く共有する」という意義もあります。
専門分野や本業に関することは意外と書けない
しかし、実際問題、専門分野や本業に関することを書けるかというと、意外と難しいものです。理由は2つあります。
1つは、守秘義務に関する課題です。
業種にもよりますが、個人情報やプライバシーの保護についての意識が高まっている現状も踏まえると、本業に関する内容を広く発信することについては慎重にならざるを得ません。
なんとか書こうとしても、抽象的な表現に留まってしまい、本当に書きたいことはぼやけてしまうものです。
(匿名化された事例検討においても、それを公にするにあたっては倫理的配慮と適正な手続きが必要なものです)
note というコミュニティにおいては1人のクリエイターという「個人」ですが、同時に組織の一員であるという自覚を忘れるわけにはいきません。
もう1つは、専門分野になるほど発信に慎重になるということです。
文章術のノウハウとして「説得力を高めるためには断言せよ」というアドバイスを読んだことがあります。
たとえば、文末を「〜かもしれない」ではなく、「〜だ/である」とするといった具合です。
私にはまだ受け入れられていないノウハウです。「文末の表現を変えるだけ」と思いきや、なかなか難しいものです。
これは、文章表現の難しさではなく、心理や思考といった内面的な難しさです。
「〜かもしれない」と思っているうちは、「〜かもしれない」としか書けないと思っています。
佐々木俊尚さんは著書のなかで、次のように述べています。
乱暴な言葉づかいで日常的にツイートする人や、強い断定口調が多い人は、あまり信頼できない。
人は知的になればなるほど、専門家になればなるほど、断言はしなくなる。
そして、「中途半端な知識な人ほど、すぐに断言する」理由について、「ダニング=クルーガー効果」と関連づけて説明しています。
「ダニング=クルーガー効果」とは、認知バイアスの一種で、能力の低い人ほど自らを過大評価してしまう傾向のこと。自分の能力をメタ認知できず、全体のなかでの自らの適格性を正しく査定できないことにより生じるもので、米国コーネル大学のデイヴィッド・ダニングとジャスティン・クルーガーによって定義されました。二人の論文は、2000年のイグノーベル賞(ノーベル賞のパロディーで、人々を笑わせ、考えさせる業績に与えられる賞)で心理学賞を受賞しました。
能力の低い人ほど自らを過大評価してしまう傾向がある。一方で、能力の高い人は、自分自身の知識の限界を自覚しているために、断言したり、強い口調で話したりしない……という理屈です。
確かに、あくまで個人的な印象ではありますが、ニュースを見ていて「信頼できる」と感じるのは、断言しない発言です。
「〜という可能性があります」「断言はできませんが、〜ということが考えられます」といった専門家の発言。
また、「専門から外れますので、コメントは差し控えます」というふうに、守備範囲を超えた発言をしないという姿勢についても好感をもちます。
決して、自分自身を「能力の高い人」と自負するわけではありませんが、少なくとも「過大評価」に陥らないためにも謙虚な姿勢を保ちたいと思っています。
ソクラテスの「無知の知」にも通じるものでしょうか。
自らの無知を自覚することが真の認識に至る道であるとする、ソクラテスの真理探究への基本になる考え方。
私は、専門分野についてもエキスパートというには畏れ多いですが、少なくとも、「勉強すればするほどわからなくなる」という感覚を抱くことはあります。
多様な思想や主張にふれるほど、断言できることは少なくなっていきます。
このように考えると、「〜かもしれない」という表現は、一見頼りなかったり、責任逃れをしているようにも見えますが、謙虚で誠意のある表現といえるのかもしれません(この文の文末が「〜かもしれません」になってしまったのは無意識です)
サポートは、チップのようなものだと捉えています。私も「嬉しい」「心地よい」「勉強になった」など、プラスの気持ちになった時には積極的にサポートを送らせて頂きます。温かい気持ちが繋がっていきますように!
