つまみ読み再び #65|ヴィヴェイロス・デ・カストロ『食人の形而上学』——血がビールであるということ
口上
前回、郡司ペギオ幸夫『天然知能』を読んだ。外部とは認識の縁にあるもので、招喚するしかない、という話であった。その前に読んだ西村清和とクリーガーは、プラスチックの街路樹をめぐって争いながら、外部については同じ側に立っていた。自然について人間中心的にしか語れない、という側である。
三つめの極が要る、と私はずっと思っていた。外部は認識できないのでもなく、無いのでもなく、すでに在る、と言う極である。それがエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロの多自然主義である。
本書は読みにくい。ドゥルーズとレヴィ゠ストロースとアマゾンの先住民が同じ頁で喋っている。私は全部を読んでいない。読んだのは、檜垣立哉の解説、山崎吾郎の訳者あとがき、デスコラ四分類をあつかった区画、III部「悪魔的縁組」、IV部の二章、それに序とI部の一部である。つまみ読みだから、それでよいことにする。
一つ断っておく。この訳書の訳語は「パースペクティヴ主義」である。私はこれまで発表や記事で「パースペクティヴィズム」と書いてきたが、**本書を引くあいだは本書の訳語に合わせる。**なお「パースペクティヴィズム」の側にも由来はある。カストロの論文の邦訳題は「アメリカ大陸先住民のパースペクティヴィズムと多自然主義」であり、奥野克巳もこの語で語っている。**訳語が二つあるだけの話で、どちらが正しいという話ではない。**私が読んだ範囲では、本書の本文に「パースペクティヴィズム」は見当たらなかった。全文を走査したわけではないので、そこまでにしておく。
精読
一 血がビールである
多自然主義の定式は、拍子抜けするほど短い。
すべての存在者は、世界を同じ仕方でみている(表象している)。(紙面72)
これだけ読むと、ごく平凡な普遍主義に見える。ところが訳者あとがきは、この文に続く一文を並べて引いている。
すべての存在者は、世界を同じ仕方でみている。変化するのは、それがみている世界なのである。(紙面348)
**見方が違うのではなく、見えている世界が違う。**そして本書は、その具体例をすぐ出す。
われわれにとって血であるものは、ジャガーにとってはビールである。(紙面72)
ここで躓かないでほしい。これは「ジャガーは血をビールだと思っている」という話ではない。**ジャガーにとって、それはビールなのである。**思い違いをしているのではない。ジャガーの世界には、そこにビールが在る。
奥野克巳が同じ箇所を紹介するときは、これが「マニオク酒」になっている(ウェブメディア DOZiNE のインタビュー「僕たちは多文化主義から多自然主義へと向かわなければならない」、2019年、聞き手=辻村伸雄)。訳語の差である。私は本書を引いているので「ビール」で通す。
一の続き 死んだ敵の目で自分を歌う
この定式が、カストロ自身のどこから来たのか。本書はそれを一度だけ、はっきり書いている。カストロが調査したのは、アマゾンの先住民アラウェテである。
私は、アラウェテの戦いの歌を聴いているときに、こうした着想を抱くようになった。(紙面193)
その歌のなかで、戦士は……死亡した敵の視点から自分自身を語る。(紙面193)
**戦士が歌うとき、その歌の「私」は、自分が殺した敵の側にいる。**自分がどう見えていたかを、殺された者の目から歌う。
**これが、多自然主義のいちばん具体的な姿だと私は思う。**理論の例示としてジャガーが出てくるより先に、**まず歌があった。**外部は、認識できないものとして縁にあるのではない。**すでに歌われている。**しかもそれは、想像力の話ですらない——歌には形式があり、呼び名の遊びがあり、儀礼の場がある。別の身体から見ることは、この社会では技法である。
二 「同じ事象」と言えるのは、誰にとってか
私が本書でいちばん効いたと思ったのは、この定式そのものよりも、その一段手前にある手つきである。紙面73で、カストロは次のような順番の入れ替えをやる。地の文で要約する。
異なった種が、異なった仕方で同じ事象をみている、という事実は、同じ仕方で異なった事象をみている、という事実の帰結にすぎない。というのも、何を同じ事象だと言えるのか。誰との、いかなる種との関連において。
これは、盤ごとの差し替えである。
思い出してほしい。クリーガーはこう言った——プラスチックの木と本物の木は、視覚的には同じものである。だから自然の美しさは複製できる。西村はこう応じた——いや、非美的特徴が違う。プラスチックの葉の緑は生気なく乾燥しており、自然の葉の緑には生気と水脈がある。
**二人は同じ盤の上で、事象の同一性の範囲を争っている。**カストロが問うのは、その盤の脚のところである。「同じ事象」と言えるのは、誰にとってか。
そして念のため、彼はこれが多文化主義の裏返しではないことを明記している。
多自然主義という観念は、人類学的な多文化主義のたんなる反復なのではない。(紙面79)
一つの自然を多くの文化が違うふうに解釈する、という話ではない。そういう話にしてしまうと、盤はまた元に戻る。
三 視点は身体にある
では、その「誰にとって」は、どこに座っているのか。精神ではない。
一つのパースペクティヴとは、一つの表象なのではない。というのも、表象とは精神の特性であり、それに対して視点は身体のなかにあるからだ。(紙面74)
身体、と聞いて解剖学を思い浮かべると外れる。**この身体は、器官の配置ではない。**訳者あとがきの要約が正確なので、そちらを引く。
この関係性から引きだされる情動や能力の束こそが、身体であり、そして、パースペクティヴの起源なのだと規定する(紙面350)
**「関係性」とは、捕食の関係である。**食う/食われるという相対的な立場があるからこそ、そこから視点が取りだせる。身体はあらかじめ在るのではない。食う者と食われる者の関係のなかで、事後的に引きだされる。
だからカストロは、こう書く。
パースペクティヴ主義は身体的なマニエリスムなのである。(紙面75)
マニエリスム。様式のことである。身体とは、何ができるかの様式の束である。
ここでプラスチックの木に戻ってよい。**問いが「見え」から「能力」へ移る。**プラスチックの木が木であるかどうかは、緑が乾いて見えるかではない。保水しない。分解されない。虫が食えない。根圏がない。スモッグを吸わない。カストロの語彙では、情動と能力の束を持たないということになる。
面白いのは、この橋が西村の側からも渡れることである。西村は非美的特徴として、プラスチックの葉の緑と自然の葉の緑を対比し、後者に水脈があることを挙げた。**この水脈という語は、すでに能力を語っている。**見え方の記述に見えて、内実は身体の記述に近い。
**ただし代償がある。**西村の支点は、自然については人間中心的にしか語ることができない、という主張であった。この橋を渡ると、その支点が外れる。西村の結論を守るには、西村の前提を捨てなければならない。
四 しかし、アニミズムではない
ここで私は、連載にとって都合の悪い一文にぶつかった。
パースペクティヴ主義は、アニミズムでもないし、トーテミズムでもない。(紙面69)
この連載は、ずっと再魔術化=アニミズムの席のまわりを回ってきた。ブバントの議論と久保田の講義が空けた「テクノアニミズム」の三つ目の席に、何が座るのかを探してきた。カストロは、その席に座らない。
なぜ座らないのかは、デスコラの四分類をあつかった区画(紙面89–95)を読むと分かる。デスコラは世界の存在論を四つに分けた。自然主義・アニミズム・トーテミズム・アナロジー主義である。この分類のなかで、パースペクティヴ主義はアニミズムの一種として扱われる。カストロはそれを断る。
断り方が、面白い。地の文で要約する——**四つに分類するというその作業そのものが、四つのうちの一つ、すなわちアナロジー主義的な思考の実践になってしまっている。**だから分類の一マスに収まるかどうかを論じても意味がない。
そして紙面94に、こういう一文が出てくる。
アニミズム主義的な精神、もしくは自然主義者の脳は、おそらくは異なった思考をもっている。(紙面94)
デスコラのような自然主義者が持っているのは脳であって、アニミズムの側が持っているのは精神である、という書きぶりである。**並べ方が皮肉になっている。**そして、その二つは違う考え方をしている、とだけ言って、どちらが正しいとは言わない。
「アニミズムではない」というのは、アニミズムの反対側に立つという意味ではない。「アニミズムか否か」という問いの立て方そのものを、退けている。
五 人工物は輪に入るか
私が本書を読んだ最大の目的はこれであった。ジャガーと人間のあいだで視点が交換されるとして、プラスチックの木や生成AIは、その輪に入るのか。
先行して読んだ範囲では、答えは出ていなかった。III部を読んで、一箇所だけ見つかった。
類縁者は、動物、もしくは一般的にいえば、非人間でなければならない。つまり、植物、星、気象、人工物…(紙面254)
**「人工物」と名指しされている。**植物・星・気象と並んで、非人間の類縁者の一カテゴリーとして挙がっている。
**しかし、ここで喜ぶのは早い。**この一節は、アメリカ先住民の神話における類縁者の分類についての言明である。しかも括弧のなかに、これらは未来の非/人間であるという限定が入る。そして、こう続く。
本当は、神話においては、現在の人間たちを含め、あらゆるものが部分的には人間である。(紙面254)
神話的な世界像のなかでは人間と非人間の区別が流動的で、人工物もその流動性のうちに含まれうる、という趣旨に近い。
**「だから現実の生成AIも輪に入る」とは、本書は言っていない。**そこから先は私の外挿である。バーマンとヴェーバーを接いだときと同じ種類の橋渡しであり、同じように旗を立てておく。
そのうえで、本書はもっと有用なことをしてくれる。問いの形を変えてくれるのである。
III部第10章の主題は、生成は生産ではない、という区別である。ドゥルーズ=ガタリの「生成」は、模倣でも再生産でもない。この区別に照らすと、「人工物はこの輪に入るか」という問いは、「生成AIがやっていることは《生成》なのか《生産》なのか」という、はるかに具体的な問いに絞りこめる。
そして、この問いには答えがある気がしている。学習データの統計的なパターンを再生産することは、生産である。「生成AI」という日本語の名は、生成と生産のあいだで、都合よく滑っている。
論点
1 外部はどこにあるか——三点測量が成立した
極外部はどこにあるか郡司認識の縁。認識できないもの。招喚するしかない西村/クリーガー外部は無い。人間中心的にしか語れないカストロ他の存在者の身体の側。すでに現に見られている
**三者は互いに他の二者を認めない。**カストロは西村の立つ盤——すなわち多文化主義——を紙面79で否定する。西村個人を名指しているわけではない。**盤ごと否定されるので、結果として西村の足場が消える。**そして郡司的な認識の縁にも寄らない。外部は認識できないのではなく、**別の身体がすでに、現に見ている。**郡司は西村の人間中心主義を採らないが、カストロの複数身体にも与しない。郡司の外部は、あくまで「わたし」の縁にある。
**アラウェテの歌が、この差を一撃で見せる。**戦士は、死んだ敵の目から自分を歌う。**招喚していない。待ってもいない。**その視点はすでにあり、歌えば入れる。
**三角形は成立する。**総括は二極の綱引きではなく、三点測量になる。
2 身体——同じ言葉で逆をやっている
郡司も身体を論じる。第2章の痛みの議論で、彼は「わたし」の痛みと川床の痛みを同じ外部依存の構造に置いた。身体の特権性を崩す方向である。
カストロは逆をやる。**身体という境界は保持したまま、その中身と発生源を組み替える。**中身は情動と能力の束であり、発生源は捕食の関係である。だから境界は崩れず、むしろ増える。
**同じ「身体」という語で、一方は特権を崩し、一方は複数化する。**総括ではここを混ぜないようにしたい。
3 連載の前提が揺れた——これは正直に書く
カストロは再魔術化=アニミズムの席に座らない。
これは連載にとって、賛成材料でも反対材料でもない。問いの立て方そのものを外す材料である。「AIは再魔術化のインフラか」と私が問うとき、カストロの側からは、その問いはひとつの身体の内側でしか意味をなさないのではないか、という反問が返ってくるはずである。**これは私が本書から組み立てた反問であって、カストロが書いた文ではない。**そう読める、というところまでである。
総括の題は「AIは再魔術化のインフラか——天然知能とプラスチックの木のあいだ」である。**第三の極を測量点として置いた結果、題の前半が揺れた。**揺れたと書いておく。隠して総括に持ちこむと、そこで破綻する。
4 環の外に出る道——郡司とカストロは違う答えを出す
中間まとめは、偽物・慣れ・アライメントの三語が環をなして閉じることを示して終わった。持ち越した問いは「環の外に出る道はあるか」であった。
カストロの答えは明快である。環が閉じるのは、環がひとつの身体の内側で回っているからである。
第63回で読んだ〈美的整合性 aesthetic alignment〉は、出力を人間の選好分布へ寄せる操作であった。カストロの語で言えば、身体の単一化である。多自然主義がやろうとしていることの、正確に逆向きである。人間の選好に完璧にアラインした画像も、ムクドリの視覚系には何でもない。
郡司の答えは違う。環の外は認識できない。だから招喚するしかない。到来を待つ。
**どちらが強いか。**私は、いまのところカストロのほうが実践的だと考えている。理由は単純である。**郡司の答えは待つことを要求するが、カストロの答えは数えることを要求する。**いくつの身体が、この判断の環に入っているか。一つなら閉じている。これは測れる。
ただし、カストロの答えには弱点がある。**別の身体を招き入れる、とは具体的に何をすることなのか。**ムクドリの視覚系を計算に入れた画像生成、という話ではあるまい。ここは詰められていない。
III部第8章には、こんな一節がある。
内部なき社会としての未開社会は、その外部においてはじめて「自分自身」になることができる。その内在性は、その超越性と呼応するのである。(紙面195)
**固定した体系は、外部との接触によって作り変えられ続けることでしか、自分自身でいられない。**郡司が外部を招喚すると言うときの構えも、レヴィ゠ストロース自身の構造主義が対象との接触で構造からリゾームへ変容していったというIV部の筋立ても、骨格ではこれと同じ形をしている。**似ているのか、見かけだけなのか。**それを見きわめるのは、総括の仕事である。
本書の最後の一文は、こうである。
強度を残しておいた潜在的な留保のなかでみいだされるものが、アンチ・ナルシスなのである。(紙面324)
**「アンチ・ナルシス」は、書かれなかった書物の名である。**本書の冒頭で掲げられ、最後にもう一度、まだ書かれていないものとして戻ってくる。**環の外に出る道は、完成した答えとしてではなく、書かれていないものへの運動として示されている。**その直前には「その固有名とは強度である。」とある。
5 次回への持ち越し
第66回は郡司『創造性はどこからやってくるか——天然表現の世界』である。本が届き次第、読む。
**持ち越す問いは一つ。**カストロは別の身体を数えよと言い、郡司は外部の到来を待てと言う——と、私はここまで要約してきた。この二つは両立するのか。
私の見立てでは、両立の鍵は郡司の側にある。郡司の外部は「わたし」の縁にあるが、その「わたし」が複数あってはならない理由は、たぶん無い。外部を招喚する天然知能が、複数の身体に分かれて同時に招喚していると考えたとき、何が起きるか。#66でそこを見る。
三角形は、#66で閉じる。
HITLへの持ち帰り
作業仮説は「HITLの人間は承認者ではなく鑑賞者(違和感の感受者)である」であった。問題編第2回で立てたものである。
カストロは、この仮説に厄介な問いを一つ足す。鑑賞者の身体は、いくつあるのか。
違和感の感受者としてのHITLは、鑑賞する。それはよい。**しかしその鑑賞は、ひとつの身体の内側で起きている。**人間の視覚系、人間の選好、人間の情動と能力の束である。**環はそこで閉じる。**HITLを承認者から鑑賞者に読み替えても、鑑賞者がひとりなら、閉じたままである。
では、HITLに複数の身体を入れるとは何をすることか。
私はまだ答えを持っていない。ただ、形だけは見えている。**それは「もっと多様な人間をレビュアーに入れる」ことではない。**それでは身体は増えない。人間の身体が数を増やすだけである。カストロが言っているのは、人間ではない身体の視点から、同じものが別のものとして現れるということである。
血がビールである、というのはそういう意味であった。**われわれの承認が、別の身体にとっては何か別のものである。**その別のものが何であるかを、われわれは書けない。書けないという事実が、環の外がまだ在ることの証拠になる。
**HITLの人間は、承認者でも鑑賞者でもなく、ひとつの身体の代表者なのかもしれない。**そして代表者は、自分が代表していないものについては、原理的に鑑賞できない。ここは総括で詰める。
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どっとはらい
