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つまみ読み16:ジェーン・ベネット『震える物質——物の政治的エコロジー』

口上

このつまみ読みは、7月9日の宮台式人類学発表に向けて進めている「16冊シリーズ」の第16本目になる。これでひとまずシリーズの第二期(13本目以降)が完結する。

第13本(『アクターネットワーク理論入門』)から始まった第二期は、本書(『宮台式人類学』奥野・宮台)の参照文献を、保坂のコイネージ「装置論の第三の極」「四つのshoot」「縫合」の語彙ネットワークとして読み直す作業の延長として、特に【第四部】装置論の第三の極ブロックの語彙を整える作業だった。第14本(佐藤竜人「新しい物質主義の展開と可能性」)を地図として、第15本(バラド『宇宙の途上で出会う』)で量子物理学側のエージェンシャル・リアリズムを確認した。

そして今回、ベネット『震える物質』で、もう一つの新しい物質主義(NM)の系譜——スピノザ-ルクレティウス-ドゥルーズの生気論的物質主義——に進む。

事前の予測は次のようだった。バラドの厳密な「物質性は現象から立ち現れる」と、ベネットの素朴な「すべての物質に生気がある」は対立する。佐藤論文p.18-19の「フラットな存在論」批判が、ベネットに直接刺さる。

ところが原典に入ってみると、印象が変わった。ベネットは「素朴」ではない。物の力を「生気」として語る一方で、それが「アセンブリッジ(集合体)」のなかでしか機能しないことを丁寧に書いている。バラドの「intra-action」とは別の語彙で、しかし似たことを言っている。

章ごとの核心引用

序 pp.13-34

ベネットの方法論的覚書(p.24)が、本書全体の系譜宣言である。

私が追求する物質主義/唯物論とは、ヘーゲル-マルクス-アドルノ系統というよりは、デモクリトス-エピクロス-スピノザ-ディドロ-ドゥルーズの系統のものだ。社会的なヘゲモニーの形を明らかにするために人間の権力の軌跡をたどることは重要だろう(歴史的唯物論者たちがしているように)。だが私は、他方で、人間以外のものの匂い、物の持つ力、あるいは自然界に存在する様々な個体群へとテクノロジーによってつくり出された人工物などの物質的媒介力を追うことの方が重要だと言いたい。(p.24)

★これは決定的に重要な系譜宣言。「マルクス系譜ではない」と明言する。バラドのボーア-ハラウェイ系譜とは別の、もう一つの新しい物質主義の系譜がここにある。

そして章対応のリストが続く:第1章「物の力」=プロメテウスの鎖、第2章「アセンブリッジの媒介作用」=ダーウィンのミミズ、第3章「食べられる物質」=摂取された食べ物、第4章「金属の生」=ボルティモアのゴミの集積体、第5・6章=電気のこと、第7章=幹細胞。

私は、政治にとっても倫理にとっても、情動作用は中心的な問題だと考えつづけている。だが本書では、触媒としての情動を梃にして人間の諸関係を拡張し、人間の身体に特有とは限らない「情動作用」をも扱う。(p.22)

政治理論家たちは、人間の身体に特有とは限らない諸形態が内在している(示唆としての)情動なのである。それを受けて私は、ここで思い描くことができない、魅惑という現象が二つの異なる方向を指し示している。(p.22)

★情動(affect)が中心。ジャン=ジャック・ルソー、フリードリッヒ・シラー、ニーチェ、ラルフ・ウォルドー・エマーソン、ソロー、ホイットマンというロマン主義系譜が引かれる。

これはバラドの量子物理学・科学哲学系譜とまったく対照的。ベネットの方は「身体・自然・感受性」の系譜。

第1章 物の力 pp.35-66

冒頭の現象学的記述(p.41)

白いペットボトルの蓋が一つ/滑らかな棒きれが一本/手袋、花粉、ネズミ、蓋、棒。私が出合ったとき、それらの物は揺らめく光を発しながら、残骸であることと物であることのあいだを行ったり来たりしていた。一方でそれらは、それぞれ人間の活動(作業員の労働、誰かがそこに放置したこと、ネズミ退治の成功)を示唆している以外、特に心にとめる価値を超える独自の存在として注意を引くものでもなかった。…私の中の情動が掻き立てられたことはたしかだ。…手袋の、ネズミの、花粉の、ボトルの蓋の、棒の力も含んでいるのではないかということに気づいたのだった。(p.41)

★スティーヴン・ジェイ・グールドの「うんざりするほどの複雑さと手ごわさ」概念が引用される。これがベネットの出発点 — ボルティモアの排水溝で見た「ゴミの集積体」が、なぜか「物の力」として立ち現れた経験。

★これは私の写真論と直接対話できる場面。撮影中、被写体が「手に負えない」「ふと立ち上がる」瞬間。「撮らされる」「撮れちゃう」感覚そのもの。私の「リバー」シリーズで野川の河原で出合う打ち上げられた木の枝・ペットボトル・人工物の集積、「観測の詩学」でSuperKEKBの周辺施設の鈍い金属の輝き、これらは全部ベネットの言う「物の力」の立ち現れだった、と気づく。

物-力Ⅲ(p.48)

裁判所で殺人未遂の罪に問われた男の裁判で陪審員をつとめたときに、オドラデクの親戚に会ったような気がする。それは、小さなガラス瓶があった。中には残留火薬の抽出サンプルが、その金属の蓋は接着剤を使ってしっかりと締められていた。…この物/証言者は、陪審員たちに提示されている。(p.48)

★ラトゥール風の「物のアクタント性」を法システムに見る事例。カフカの『オドラデク』も引用される。「化石石灰岩などに明らかなように、水生生物と岩の連続性に目をひらかせ、物の生成を浮き彫りにする」。

これは私の「リバー」「観測の詩学」シリーズで、生物と非生物が連続する場面を撮影してきた経験と重なる。

第2章 アセンブリッジの媒介作用 pp.67-98

アセンブリッジとはなにか?(p.73)

二十世紀の最後、なにかが起きる闘技場——軍関係者はそれを「作戦の舞台」と呼ぶが——は、多くの人にとって劇的に拡がった。「グローバリゼーション」が起こり、地球そのものが出来事の空間となった。この巨大な全体の諸部分は、親密に相互接続されていると同時に、即座に衝突を起こしやすくなっている。…様々な新しい呼び名が提案された。ネットワーク、メッシュワーク、帝国的なシステム…私はドゥルーズとガタリから借りた、アセンブリッジという用語だ。(p.73)

アセンブリッジは、多様な要素の震える物質、そのつどの集まりである。それは、生きて脈打つ連合体であり、混乱させるエネルギーを内部に執拗に抱えつつ作動することができる。…様々な情動作用や個体群が交差する地点は他の地点に比べて交通量が多いからであり、そのために力が表面上に均一に配分されてはいないからだ。また、特定の型の物質も、…中心となる頭によって支配されているのではない。(p.73)

★これは私の「四つのshoot」と直接対応する記述。「中心となる頭によって支配されているのではない」「混乱させるエネルギーを内部に抱える」連合体としての写真撮影。

撮影現場は、写真家・カメラ・レンズ・光・空気・温度・湿度・被写体・場所・歴史・周囲の音、これら全てが「アセンブリッジ」を作っている。シャッターを切る瞬間は、その「集まり」が「そのつど」立ち上がる瞬間である。

第3章 食べられる物質 pp.99-122

ニーチェ、兵士の食べ物、ワーグナーの音楽(p.105)

食材の活動的な力(他の活力ある物質の集まりと合わさって力を増進した時に活性化される潜在的な力)の証明は、ほとんどの場合、先に引いた諸調査に見られるように、物理学や生物学などの諸科学を通じて与えられる。社会科学や人文学が食べ物を問題としてとりあげるときには、人間の行為に意義深いものとなる社会文化的な儀式、自己表現としての料理のレトリック、あるいは新しい食品への欲望を掻き立てる美的・商業的なテクニックなどに、どのように人間がかかわっているのかといったことを大きくとりあげるが、そういったものは例外的に、食べ物に関して書く人は、素材の色、質感、香りなどを書く傾向がある。(p.105)

★肥満治療手術、農業ビジネス、フード・マーケティング、自動販売機、電子レンジが、人間の意志・習慣・発想を弱めたり高めたりする「アセンブリッジ」の指標として描かれる。

バラドの抽象とは違って、ベネットは「食事」「ゴミ」「停電」「金属」など、生活実感のなかから物の生気を取り出す。これは保坂さんの写真論との親和性が極めて高い。

第5章 生気論でもなく機械論でもなく pp.141-174

カントの形成衝動(p.147)

カントは、彼のいう形成衝動を、非身体的な魂とは注意深く区別している。「私たちは、物質、それと交流関係にある異質な原理(魂)によって補足しては『ならない』」(六五節)。魂とは、身体なしでも存在できるとされるものであるのに対して、形成衝動は、身体の中にあって、物質の機械的な活動、つまりニュートン的な力(生命力ではなく)によって推進される活動と一緒になった形でしか存在することができない。(p.147)

第三の道(p.152)

カントが形成衝動を好んだのは、それによって目的論的な説明と機械論的な説明を結合することが可能になるからだ。私が興味を持つのは、この概念が、人間に「推進」しつづける無人称的で非歴史的な媒介作用の存在を指し示しているからだ。形成衝動は、人間によって投入された目的的なエネルギーへと還元できない媒介力を持っている。カントにとってこのような推力は、当然、なにか神聖な起源を持つものと考えなければならないが、私は、人間や神に属する合目的性とは離れた、物質そのものに無人称的な媒介作用が統合されているという発想を試みてみることが可能だし、望まれているのではないかと考える。(p.152)

★ベネットの「生気論的物質主義」が「目的論と機械論の中間」にある「第三の道」として位置づけられる。これは私のコイネージ「装置論の第三の極」とまさに重なる構造。バラド第15では「自由意志と決定論の両極を否定し、第三の可能性」(バラドp.239)、ベネット第16では「目的論と機械論を結合する第三の道」(ベネットp.152)。両者は別の語彙だが、同じ場所を指している。

ドリーシュのエンテレヒー(p.156)

ドリーシュは、有機体の活動的な属性を化学的・物理的見地からより繊細に理解しようとすることのみにあったのではなく、有機体に生命を吹き込むものはなにかをよりよくきわめるためだった。「ではなぜ、あれらの折り畳みや曲折……、その他ここまで記述してきたすべての過程が起こるのか、なにかそれを駆り立てているという見方があるには違いない」。このにものか、その種の力のことをドリーシュはエンテレヒーと名付けたのだ。実体でもエネルギーでもなく(それらと同じ形でだけ活動するためのではないかしら)、エンテレヒーは「生命という現象を成り立たせている非メカニカルな媒介者」なのだ。(p.156)

★ハンス・ドリーシュの「エンテレヒー」概念。アリストテレスから取られた語で、芸術のように見事に構成する非メカニカルな目的論的働き。「物質を活気づけるだけではなく、芸術の用語を借りる」(p.156)。これは写真論への翻訳可能性が高い。

「撮れちゃう」瞬間に立ち現れる、写真家の意志でも被写体の偶然でもない「なにかそれを駆り立てている」もの。それをベネットはエンテレヒーと呼ぶ。

第7章 政治的エコロジー pp.193-218

ミミズの政治(p.199)

たとえば、人々が人種や経済の分断された地区にバラバラに住処を定めるとき、それを政治的な行動だと考える。たとえば、地区の財政、犯罪率、交通政策などに影響を及ぼそうと企てたり、支持を表そうとしてなされた移住ではなく、そんなことを意識さえしていない場合であっても。人々が郊外の新しい家に彼らの荷物を運びこむ行動と、巣穴に葉を引きずっていったり、サバンナと雨林の境界に移動していくミミズの行動には…(p.199)

★熱帯雨林の住民とミミズの移住、サバンナと雨林の境界に移動していくミミズの行動。ミミズが「アセンブリッジ変換器」として、人間の政治・経済・移住を結節する。

これは私の「リバー」シリーズ(野川・渋谷川・神田川・鶴見川)、「山手通り19km」シリーズの政治的読み直しに直結する。都市インフラと水と人と生物の集合体としての「政治」。

第8章 活力と自己利益 pp.219-240

セールのハリケーン(p.233)

たとえば、ミシェル・セールは、その個体間の協働と競合のプロセスは、ランダムでも無構造でもなく、物理学や生物学と同じくらい心理学が含まれているのと示唆しているのだと言う。このように言う時、セールはルクレティウスにしたがって、あらゆるスケール、あらゆる場所で繰り返されるのだという。「洪水と火災、過剰と蕩尽、垂直の成長と突然の落下、蓄積とその消失」をすべて含み込んだプロセスであり、「その中で歴史は……ハリケーンの動きの影響を受けた外洋のようなものだ」。その理論は、最初に「落下」、あるいは物質-エネルギーのコナトゥス的な推力があり、それから僅かな逸脱が起こって、いくつかの段階に解消していたり、ひとつの渦巻のプロセスとなり、ある段階で個体群の衝突が起こり、やがて混乱し不安定化した流動の段階になり、次に物質が個体群へと凝結または結晶化、さらには形の腐敗、衰退、散逸の段階を経て、次にはまた、新たな落下、そして…(p.233)

★ベネットが結論に持ち込むのはハリケーン、洪水、変動の語彙。生気と腐敗の循環。これは私の「リバー」「桜2026」「観測の詩学」の写真主題群と直接対応する。

桜が咲いて、散って、地面で腐って、土になる。野川を歩いて、堤防の上の人工物が朽ちて、また誰かが置く。SuperKEKBが動いて、電子と陽電子がぶつかって、そのデータが論文になって、世界の理解が更新される。これら全部が、ベネットの言う「物質-エネルギーのコナトゥス的な推力」のなかにある。


つまみ読みの収穫——3つのポイント

ポイント1 「アセンブリッジ」が「四つのshoot」の集合体側の記述になる(p.73)

ベネットの「アセンブリッジ」は、ドゥルーズ=ガタリから借りた語で、「多様な要素の震える物質、そのつどの集まり」と定義される。

私の「四つのshoot」(撮る/撮られる/撮らされる/撮れちゃう)は、撮影の四つの側面を分解する語彙だった。これに対し、ベネットの「アセンブリッジ」は、それら四つが同時に作動する集合体の側の記述になる。

撮影現場は、写真家(撮る)・被写体(撮られる)・装置や状況(撮らされる)・偶然や生気(撮れちゃう)が、すべて同時に絡まり合う「震える物質」のアセンブリッジ。中心となる頭はない。誰がシャッターを切ったのかは、後から決まる。

これでつまみ読み15のバラド「intra-action(内部作用)」と、つまみ読み16のベネット「アセンブリッジ」が、両方とも「四つのshoot」の支柱になる。バラドは「内部から立ち上がる」側面を、ベネットは「集合体として震える」側面を、それぞれ照らす。

ポイント2 ベネットの「第三の道」とバラドの「第三の可能性」が、私の「装置論の第三の極」と同じ場所を指す(p.152, バラドp.239)

つまみ読み15で確認したバラドの「第三の可能性」(自由意志と決定論の両極を否定する、p.239)と、つまみ読み16のベネットの「第三の道」(目的論と機械論を結合する、p.152)は、別の語彙で同じ場所を指している。

そして両方とも、私の「装置論の第三の極」(主体と客体を超える写真装置の極、コンプリヘンシブノート §10)と同じ場所を指している。

第一期つまみ読み12冊で発見した「12冊が同じ場所を別の語彙で記述している」という観察が、第二期4冊でさらに強化された。バラド(エージェンシャル・リアリズム)、ベネット(生気論的物質主義)、ANT(栗原亘ら)、佐藤論文(NM地図)、すべてが同じ場所を指している。

7月9日発表で、これは決定的な命題として提示できる。「私のコイネージは、現代の哲学・社会学・人類学・物理学が独立に到達した同じ場所を、写真論の語彙で記述しているにすぎない」。

ポイント3 ベネットの具体性と物との情動的接触が、写真実践の哲学的記述になる(p.41)

バラドの抽象的厳密さと対照的に、ベネットは「ゴミ」「食べ物」「金属」「電気」「幹細胞」「ミミズ」「ハリケーン」と、具体的な物を相手にする。

そして物との出合いは「情動作用(affect)」として記述される。p.41のボルティモアの排水溝の場面は、写真家が現場で経験することそのままだ。「揺らめく光を発しながら、残骸であることと物であることのあいだを行ったり来たりしていた」物。これは私が撮影してきたものの記述そのもの。

ベネットは、写真論を直接書いていない。しかしベネットの記述スタイルは、写真の隣にある。これは7月9日発表で、写真と物との情動的接触を語る部分で、もっとも頼れる支柱になる。


つまみ読みのあとに残る問い

問い1 ベネットのフラットな存在論問題(佐藤論文p.19)

佐藤論文がベネットに対する難問として挙げていた「フラットな存在論」問題——「どの存在も等しく行為体であるならば、どのようにして他のものより重要であるとか、配慮するべきであると言うことができるのか」——は、原典を読んだ今、より響く。

ベネットは「平等の達成ではない」(p.84前後)と注意するが、では何を基準にして「ゴミの集積体」と「人間の身体」と「ミミズ」を扱い分けるのか? この問いは、写真家にとっても切実だ。撮影において、被写体すべてを「等しく扱う」ことは可能か? 答えは恐らく「否」だろう。撮影には必ず選択がある。

7月9日発表でこの問題に正面から答えられるか。あるいは「淵に立たせる」(肉声を残す)姿勢のなかに、答えを留保するか。

問い2 バラドとベネットの差異を、写真実践でどう使い分けるか

バラドは「装置」と「内部作用」、ベネットは「アセンブリッジ」と「生気」、これらは同じ場所を指すが、強調点が違う。

撮影の瞬間を厳密に記述するならバラド。撮影現場の情動的な集まりを記述するならベネット。私のコイネージ「四つのshoot」は両方を内包しているように、私には見える。

しかし7月9日の発表で、両者を同時に持ち込むのは混乱を招くかもしれない。陸人さん・張さんとの対話のなかで、どちらをメインに、どちらをサブに置くか、当日の流れで決める。

問い3 ベネットの「生気」概念は、宮台の「ピュシス(社会の外)」(本書第十講 p.393)とどう接続するか

宮台は本書(『宮台式人類学』)第十講 p.393で「世界=社会+社会の外」という対概念を立てる。「社会の外」=ピュシス、アジールの解体=社会の劣化。

ベネットの「生気」「物の力」「アセンブリッジ」は、宮台の「ピュシス」と同じものを指しているか? 一部は重なるが、宮台はもっと文化人類学的に(部族社会、アニミズム)、ベネットはもっと物質主義的に(ゴミ、金属、電気)それを記述する。

両者を結ぶ可能性として、奥野克巳(本書共同代表)の「マルチスピーシーズ人類学」「アニミズム」(つまみ読み12『帝国医療と人類学』、第二期到着待ち『はじめての人類学』)が、橋渡しになるかもしれない。


7月9日発表ブロックとの接続

特に接続強度が高いのは次の四つである。

第2章アセンブリッジ(p.73)は【第四部】装置論の第三の極の理論的支柱になる。「四つのshoot」の集合体側の記述として、バラドの「intra-action」と相補的に機能する。スライド2〜3枚分の価値がある。

第1章 p.41のボルティモア排水溝の現象学は【第三部】写真は何を接地させるかと直接接続する。撮影現場で物が「立ち上がる」瞬間の記述として、最も雄弁な引用。

第5章 p.152の「第三の道」と p.156のエンテレヒーは【第四部】の補強になる。バラドの「第三の可能性」と並行する命題として、私のコイネージ「装置論の第三の極」の二重の支柱になる。

第8章 p.233のセールのハリケーンは【第二部】喪失とは何かと接続する。「洪水と火災、過剰と蕩尽」の語彙が、写真主題群(リバー、桜2026、観測の詩学)の哲学的記述になる。

その他、第3章の食べ物・自動販売機論は【枠】認識論/実在論ブロックへの導入として、第7章のミミズの政治は【第四部】補強(山手通り・リバーシリーズとの接続)として、それぞれ接続する。


縫合チェック

ベネット『震える物質』は、336頁の中規模の本である。バラド588頁の半分強だが、密度は高く、20頁の視覚読みで「読んだ」と言うのは厚かましい。佐藤論文という地図があったため、効率的に核心へ到達できた。

ただし、本書には保坂の写真論や「縫合」「四つのshoot」概念は登場しない。ベネットの「アセンブリッジ」を「四つのshoot」として読み直す作業は、私が自分で行う必要がある。

つまみ読み16本目として、本書は第一期12本と第二期3本のうち特に次のものと密接に対話する。つまみ読み03『虚構の「近代」』(ラトゥール)とは「物のアクタント性」(p.48)で深く接続する。つまみ読み10『メイキング』(インゴルド)とは「材料(material)」と「物(matter)」の違いで対話できる。つまみ読み11『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(多木浩二)とは「物質の生気」概念で対話できる。つまみ読み13『アクターネットワーク理論入門』とは隣接ジャンルとして並走する。つまみ読み14佐藤論文とは「地図と原典」の関係にある。つまみ読み15バラド『宇宙の途上で出会う』とは「同じNMの旗のもとでの兄弟関係」にある(系譜は別だが指している場所は重なる)。

これでシリーズ第二期は一旦完結する。第二期到着待ち4冊(ブーバー『我と汝』、ベイトソン『精神と自然』、奥野『はじめての人類学』、コーン『森は考える』)が来た後、シリーズはさらに広がる可能性がある。

7月9日発表まであと49日。今は【第四部】装置論の第三の極ブロックの語彙が、ANT・NM(バラド/ベネット)・佐藤論文の四重の支柱で揃った。次の作業は、これらをスライドのドラフトに移すこと、あるいは【枠】【第一部】【第三部】の未着手ブロックに進むこと。

これは今、私に見えていることであって、再読すれば動く。動くことを織り込んで、ここに置いておく。


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どっとはらい

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