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取るに足らないものの印は、誰の注意を配分するのか――ジェフ・ウォール「取るに足らないものの印」読書ノートを書き直す

口上

ChatGPT用のメタテンプレートをバージョンアップしています。
これは、私(保坂)が以前に書いた wayofseeing の読書ノート「取るに足らないものの印は、誰の注意を配分するのか――ジェフ・ウォール『取るに足らないものの印』読書ノート」を、内容の方向性は保ったまま、見出し・論点の順序・書誌の明記だけを整えて 読み易く書き直した版です。

書誌(本文中に明記)

  • Jeff Wall, “Marks of Indifference”: Aspects of Photography in, or as, Conceptual Art. In Ann Goldstein and Anne Rorimer (eds.), Reconsidering the Object of Art: 1965–1975(Los Angeles: Museum of Contemporary Art, 1995), pp. 247–267.

  • (日本語)ジェフ・ウォール「取るに足らないものの印――コンセプチュアル・アートにおける/としての写真の諸相」『写真の理論(Theories of Photography)』収載。

  • 甲斐義明「ジェフ・ウォール解説」『写真の理論(Theories of Photography)』収載。


1. いま私が知りたいこと:取るに足らないものは、誰の注意を配分するのか

「取るに足らないもの」に目を向ける写真は、民主化の美談として語られやすい。
でも私が引っかかっているのはそこじゃない。

取るに足らないものは、誰の注意を配分するのか。
何に目を向けさせ、何を見えなくし、どんな正当性を強めるのか。
この問いのために、ウォールの “Marks of Indifference” を読む。

(仮縫い→遷移)ここで大事なのは「些末なものは良い」と閉じないこと。まずウォールが言う“前衛の規律”を特定してから、注意の配分へ折り返す。


2. 前衛/アヴァンギャルドになり切るとは?──熱くなることではなく、自己批判の規律に入ること

前衛になり切る、と聞くと「もっと過激に」「もっと政治的に」といった熱量の物語に流れやすい。
でもウォールの語り口はむしろ冷たい。

絵画や彫刻が自己批判(auto-critique)を通じて「描写(depiction)」から離れていったように、写真も自己批判の回路に入らなければならない。
ただし写真は、物理的に「描写するメディウム」だ。描写から逃げられない。
だから写真がモダニズム芸術として成立しようとするなら、描写=“物を作る”という条件そのものを、作品の中で問題化するしかない。

ここでの前衛は、英雄的な成功様式ではなく、成立条件の不安定さを抱え込む規律として現れる。
甲斐義明の解説が言う「失敗/挫折(failure)」の匂いは、たぶんこの冷たさと繋がっている。

(仮縫い→遷移)前衛=熱量ではなく、自己批判の規律。では、その規律が写真に通されるとき、写真の“社会的有効性”はどう変形される?


3. コンセプチュアル・アートが写真を取り込む──ルポルタージュの再機能化

ウォールは、コンセプチュアル・アートが写真を「便利だから使った」とは描かない。
それは写真が自分自身と他芸術との関係を定義する条件を変形させ、写真を制度化されたモダニズム形態へ押し出した、と見る。

その中心舞台のひとつが **reportage(ルポルタージュ)**だ。
フォトジャーナリズムを模倣して芸術を作るという発想は、前衛の自律芸術批判の弁証法と、出版/コミュニケーション産業の現実の交点から生まれてくる。

ルポルタージュでは、古典的な「構図=tableauの特権」が退き、ファインダーの矩形とシャッター速度という装置の窓だけが前景化する。
この“装置の窓”の感覚が、写真を媒体固有性へ押し込む力にもなる。

(仮縫い→遷移)ここで「取るに足らないもの」は、趣味ではなく制度への折り返しとして出てくる。次は、その折り返しが「出来事を撮る」から「撮るために出来事を作る」へ転じるところを押さえる。


4. ルポルタージュからフォトドキュメンテーションへ──出来事の側が従属する

ロングの例が分かりやすい。
彼の写真は、出来事の進行を“追いかけて撮る”のではなく、写真化のために出来事を構想し、実行し、写真はその従属物として提示される
ウォールはこれを「photo-documentation」として扱う。

ここで「取るに足らないもの」はさらに奇妙になる。
それは現場の偶然ではなく、制作の側が“些末さ”をレベル設定として付与するものになるからだ。
つまり些末さは倫理ではなく、技法であり、テスト条件になる。

(仮縫い→遷移)では、そのテスト条件は誰を救い、誰を排除するのか。次に deskilling/アマチュア化を「民主化の美談」にしない形で読む。


5. アマチュア化/脱技能化(deskilling)──民主化ではなく、正当性の再配線

ウォールが見る deskilling / re-skilling は、「みんなが作れるようになった」という単純な民主化ではない。
それは「何を技能と数えるか」「何を作品と認めるか」が再配線されるプロセスだ。

前衛は写真に二重拘束を課す。
社会的に有効であるだけでは足りず、同時に “Picture の新しい命題” を提示せよ、という要求。
そのなかで「プロレタリア的アマチュアリズム」のような身振りが、古典的美学を拒否しながら、新しい“絵の意識”として主張されうる。

反美学主義でありつつ、否定形で美学的に重要であれ。
この冷たい規律が、写真をモダニズム芸術へ押し込む。

(仮縫い→遷移)ここまで来ると、「些末さ」は倫理ではなく、正当性をめぐる審問を起動する印として見えてくる。最後に最初の問いへ戻る。


6. 取るに足らないものの印は、誰の注意を配分するのか(仮置き)

いまの私の仮置きはこうだ。

  • 配分されるのは「被写体への注意」ではなく、正当性への注意だ。
    何が作品か、何が記録か、何が出来事か、何が演出か。その境界審問へ注意が集まる。

  • コンセプチュアル・アートが写真を取り込むとは、写真を“世界を見る窓”から、自己批判の装置へ寄せることだ。

  • だから「取るに足らない」は善さではない。テスト条件であり、前衛の規律を通すためのレベル設定だ。

ここで私は、“役に立つ”という言葉が誰のための有用性か曖昧なまま進めたくなっている。
(=些末さを「良いもの」として縫合せず、誰の正当性を強化してしまうかを保留する。)

(仮縫い→遷移)ひとまず「取るに足らないもの」は注意の民主化というより、注意を〈正当性の審問〉へ引き寄せる印だ、と仮縫いしておく。次は、その審問がどの制度に接続し、誰を排除/救済するのかを、私の語彙(撮る/撮られる/撮らされる/撮れちゃう)で再配線したい。


参考文献リスト

  • Wall, Jeff. “Marks of Indifference”: Aspects of Photography in, or as, Conceptual Art. In Ann Goldstein and Anne Rorimer (eds.), Reconsidering the Object of Art: 1965–1975. Los Angeles: Museum of Contemporary Art, 1995, pp. 247–267.

  • 甲斐義明「ジェフ・ウォール解説」『写真の理論(Theories of Photography)』収載。


ハッシュタグ(20)

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セルフチェック(ベストを尽くしたか)

  • 「既存note本文を書き直す」口上:✅(冒頭に明示)

  • 題名提案:✅(3案)

  • 書誌を本文中に埋め込み:✅(冒頭に明記)

  • 最小限推敲(増やしすぎず、見出し・順序・読みやすさの調整に限定):✅

  • 仮縫い→遷移で閉じる:✅

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