ジュリアン・ジェインズ著『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』を読む(2) 二分心とは何か

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ーー追記ここまでーー
ジェインスの二分心仮説
今回はいよいよ「二分心」についてである。
二分心とは何か?
ジェインズ氏の仮説は次の通りである。
「遠い昔、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていた[…]どちらの部分も意識されなかった」
心のうちの「神」と呼ばれる部分が、「人間」と呼ばれる部分に「命令を下す」という。心のうち?神?人間と呼ばれる部分?命令?いったいどういうことだろうか?!
以下、二分心について、それがどういう精神構造なのか、二分心はいつ頃始まったのか、いつ頃崩壊し始めたのか、といった三点をまとめてみよう。
人間と呼ばれる部分
最初に気をつけておきたいのは、この「人間」と呼ばれる部分についてである。
ジェインズ氏が「人間」ではなく、わざわざ「人間と呼ばれる部分」と書いたのには訳がある。
それはこの二分心の「人間と呼ばれる部分」が、今日の私たちが「意識」している「私は人間だ」ということとはまったく違うものだということを示すためである。
二分心の「人間と呼ばれる部分」を、今日の私たちの「身近なもので考えようとしても、言えることはないに等しい」とジェインズ氏は注意を促す(『神々の沈黙』p.109)。
「[…]重要な仮説は、意識に先立って、幻聴に基づいた全く別の精神構造があったというものだ。」
これに対して、今日現在の私たちが「人間である」という場合の「人間」は、「意識がある」ということとほとんど同義になっている。
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そしてこの私たちが人間そのものだと思っている「意識」というものが、実は「二分心」の「幻聴に基づいた(意識とは)全く別の精神構造」が「崩壊」した後に残された言語の比喩の力が生み出した例え話なのだというのがジェインズ氏の説である。
この比喩としての意識、例え話としての意識については、前回の記事に書いているので、参考になさってください。
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二分心とはどういう精神構造か?
今日の「意識」で生きる私たちは、二分心時代の祖先が残した貴重な記録を通じて、古代の心の「神」と呼ばれる部分と「人間」と呼ばれる部分との関係をうかがい知ることができるという。
その一つが古代ギリシアのホメーロスによって記されたと伝えられる『イーリアス』である。
『イーリアス』の登場人物について、ジェインズ氏は次のように書く。
「行動は、はっきり意識された計画や理由や動機に基づいてではなく、神々の行動と言葉によって開始される。」
行動の「理由」や「計画」をあれこれと言葉を並べて説明しつつ自分がその「主語」の位置に滑り込むような「意識」が描かれていないというのである。ジェインズ氏は続ける。
「そもそもこの叙事詩自体が、現代人の感覚に当てはまるような人間の手になるものではない[…]。叙事詩全体は、アガメムノンが統治した時代の遺跡で、恍惚となった吟遊詩人が「耳にして」鉄器時代の聴衆に朗誦した女神の歌だ。[…]この叙事詩は意識的に創作されたものでも記憶されたものでもなく、ピアニストが即興演奏するように、無意識のうちに次から次へと創造的に変更が加えられたものなのだ。」
「この叙事詩自体が、現代人の感覚に当てはまるような人間の手になるものではない」というのはつまり、「意識」を持った著者が、「意識」を持った主人公たちの葛藤や思案や悩みや勇気を描いたものではないということだ。
この叙事詩は意識ある人が意識ある人のことを物語にしたものではなく、「吟遊詩人が「耳にして」鉄器時代の聴衆に朗誦した女神の歌」である。この「耳にして」というところが非常に重要である。まさに文字通り「耳にした」「聞いた」「聞こえた」というのである。
ジェインズ氏は『イーリアス』にある次の一節に注目する。
「だが、なぜ私の心はこのようなことを私に訴えてくるのだろう」
私の心が、私に訴えてくる。「私」の中で、喋りかけてくる人と聞いている人が、別々なのである。
「人々をロボットのように操り、その口を通して叙事詩を歌い上げた、この神々とは何者なのか。彼らの正体は、人間が聞いた声であり、『イーリアス』の英雄たちはその言葉と指示をはっきりと聞き取ったのだった。その鮮明さにかけては、ある種の癲癇患者や統合失調症患者が聞く声や、ジャンヌ・ダルクが聞いた様々な神々の声に少しも劣らない。神々は中枢神経系の産物で[…]ペルソナと呼んで差し支えなく、親のような心象あるいは訓戒する心象
この一節は非常に密度が濃い部分である。
神々の正体は人間の頭の中で聞こえる声
神々の正体は、人間が聞いた声である。その声は「中枢神経系の産物」であり、今日の私たちにも「幻聴」として聞こえ、幻覚として見えることがあるものである。
あるいはジェインズ氏はここには書いていないが、私たちが日々眠っている時に見る「夢」も、夢に出てくる人々やその声も、この「中枢神経系の産物」である。
二分心時代の脳神経の機能的つながり方についての仮説
二分心の仮説では、人間の心には「神」と呼ばれる部分と「人間」と呼ばれる部分があり、前者が後者に「命令を下す」という関係が考えられるのだけれども、この二つの部分とその関係は、脳の神経系ネットワークのどのような繋がり方に依るのだろうか。
ジェインズ氏は、今日現在の私たちの「言語野」と総称されるネットワークが脳の左半球に寄って形成されていることに注目する。そして次のようにいう。
人類の歴史の早い段階にでは、今は言葉を持たぬ右半球の「言語」野にも、何らかの機能があったということは考えられないだろうか。その答えは推測の域を出ぬにせよ明確だ。これほどまでに重大な結果をもたらし得た進化の淘汰圧は<二分心>文明時代のもので、当時、人間の言語が一つの半球だけで司られていたのは、もう一つの半球が神々の言葉のためのものだったから
すなわち、脳の右半球に「神」の幻覚幻聴を発生させる神経ネットワークがあり、左半球にはその右半球の声を聞き、それに従って行動を起こす神経ネットワークがあり、この左右半球の神経ネットワークを繋ぐのが脳梁の「前交連」なのではいないかと、ジェインズ氏は考える。
右半球に「神」の幻覚幻聴を発生させる神経ネットワークは、過去の記憶、さまざまな経験の記憶、五感で感じたもの知覚したもの記憶、他者の声・言葉を聞いた記憶と今現在の知覚の情報を結びつける。そして、過去の経験に基づいて現在の状況でなすべきことを言語化する。それが神の声の「訓戒的(こうすべき、ああすべき、云々するなかれ)」な物言いを生み出すと考えられる。
神の声を発生させる右脳
この右半球について、ジェインズ氏は次のように書く。
「神々というのは訓戒的な経験の融合物であり、個人が与えられた諸々の命令が混ざり合ってできたものだった。だから、神の領域は声を出して話す行為には関わる必要はないが、言語を聞き、それを理解する行為への関与は必要だったはずだ。」
神の領域(右半球)が、呼気を吐きつつ口唇咽頭を動かしたり振るわせたりするという高度な運動の複合に直接的に関わらなくてもよかったというのが面白いところである。
後に生まれる意識は、まさに直接口を動かして言葉を発する時の「主語(喋っている私)」によって喩えられる。
この一節に続けてジェインズ氏は、この右半球の「神」の領域を刺激することで、幻覚を生じさせた実験を紹介していく。この辺りの詳細はぜ『神々の沈黙』を読んでいただくとおもしろいところである。
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今日の私たちがこうした中枢神経系が作り出す幻聴幻覚の世界に触れることができるのは「夢」を見たり、詩をよんだりする特別な時間に限られる。
しかし、『イーリアス』の時代には、昼間に目覚めて活動する間にも、身体がある種のストレスを感じると、いつもこの「中枢神経系が作り出す幻聴幻覚」が発生した可能性があるという。
ジェインズ氏は次のように書く。
「統合失調症の幻覚が古代における神々の導きに似ていると考えるのが正しいなら、どちらの例にも共通する生理的誘因があるに違いない。私が思うには、それは要するにストレスだ。[…](幻覚は)ストレスによってできたアドレナリンの分解物が、血液中に増大したことによって引き起こされたのだと思う。
当時の人々が大きなストレスを感じると、中枢神経系はその右半球で幻覚を発生させて、どういう行動を取れば良いか、命じ、指図したというのである。
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命じる神、訓戒する神 ー右脳が左脳に命じる
この中枢神経系が作り出す幻聴幻覚は、意味不明なことを口走るアナーキーなものではなく、「親のような」「訓戒する」声・姿で経験されるものである、とジェインズ氏は書いている。
「神々の主な機能は、新しい状況下でどう行動するか考え、指示することだ。神々は問題を見極め、その時の状況や目的に沿って行動を準備する。その結果、複雑な<二分心>文明が生まれ、作付けの時期や収穫の時期の判断、有用なものの選り分け、諸事を大がかりな構想の中にまとめ上げること、左半球にある言語的・分析的領域にある神経学上の人格に指令を与えることなど、本質的に異なるさまざまな部分を総括していた。」
人々は、脳の右半球の「神々」の領域が発する幻覚の声を聴き、その声の指示するところに従って、次に行うべき行動を開始したという。ジェインズ氏は二分心の「一般的パラダイム」を次のように論じている。
一 集団内で強制力を持つ共通認識
集団内で信じられていること、文化全体の合意に基づく期待や掟。
二 誘導
限られた範囲に意識を集中させて狭めるための儀式化された手順
三 トランス
集団内で強制力を持つ共通認識と誘導への反応による意識の希薄化
四 古き権威
トランスに入って交信したり結びついたりする相手
脳の右半球から聞こえてくる「神の声」が、正しいことを教え、正しい行いを命じるものであるのは、その声が「集団内で強制力を持つ共通認識」を反復するものである事による。神の声は、神や一族の祖先といった「古き権威」という姿で現れては、気ままな思いつきなどではなく「集団内で強制力を持つ共通認識」に基づいた訓戒を授ける。
ジェインズ氏によれば、幻覚の中身が「集団内で強制力を持つ共通認識」に基づくものになる様子は、今日の統合失調症の患者さんの幻覚や、催眠状態にある人や何者かに「憑依」された人の語りにも見られるという(p.496)。
なお、二分心はあくまでも古代のものであり、今日の「意識」がある私たちの心とは別のものである。ただし、別のものではあるが、意識はあくまでも二分心が崩壊した「痕跡の上」に作られているのである。
「意識は、文化の要請に従って学習されたものであり、今は抑圧された古い精神構造の痕跡の上でバランスを保っていることをしっかりと理解すれば、再び文化の要請によって意識を部分的にでも捨てることも、押さえつけうることもわかるだろう。アナログの(*例え話としての)<私>のように学習によって身につけたものは、しかるべき強制力を持つ共通認識があれば何か別のものに主導権を奪われてもおかしくない。」
この意識から主導権を奪うものとして、「催眠」や「憑依」がある。
ただし、ジェインズ氏は、古代の二分心と「現代の憑依」とでは、脳内で生じていることは異なると論じる。
即ち、古代の二分心では「実際に右半球で言葉が形作られて右半球から幻聴が聞こえていた」ものが、現代の憑依では「左半球で明瞭な言葉が組み立てられて、それを右半球が操っている、あるいは導いているのではないだろうか」という(『神々の沈黙』p.428)。
* * *
以上が二分心とはどういうことかについての簡単な整理である。
二分心の始まり ー 二分心は社会統制の一形態である(「幻覚を引き起こす王」による支配)
では、この二分心はいったいいつ頃、どこで、どういう背景でしゃべり始めたのだろうか?
二分心登場の背景についてジェインズ氏は、人類が大人数で定住し農耕牧畜生活を営むようになったことがあるのではないかと指摘する。
「<二分心>とは社会統制の一形態であり、そのおかげで人類は小さな狩猟採集集団から、大きな農耕共同体へと移行できた。<二分心>はそれを統御する神々とともに、言語進化の最終段階として生まれた。」
二分心は、大人数がいつも一緒に定住しつつ農耕牧畜を営む社会において、多数の人々の活動を同期させる上で大きな役割を果たしたとジェインズ氏は考える。
定住農耕牧畜開始後、数千年を経て生まれた古代のメソポタミアの都市などは、まさに二分心の神の声を多数の住民たちに聞かせ、その命じるところを共有させ、人々の行動の大規模に同期させる社会の頂点ということになる。
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詳しく見てみよう。
人類で最も早く農耕牧畜を開始したナトゥフ文化を営んだ人々について、彼らには「意識はなかった」とジェインズ氏は書く。
彼らは意識を持たず、脳の右半球から生じる幻聴の命じるところに従って活動していたというのである。
「幻聴は言語の副作用として生まれ、部族の生活で時間のかかる仕事を一人一人にやり通させる働きをしたのではないか[…]。そのような幻聴は、人間
人々に命じる幻聴の声は、「族長の声」にはじまったというのである。
もちろん最初は幻聴ではなく、実際に生身の族長が、その生きた体で、口を使って発声をしたものである。
部族の若者は、親や年長者や長老たちや族長が命じる声を繰り返し聞き、それらを記憶するわけである。特に危険にさらされた場合や、危機に際して強いストレスの中で聞かされた言葉は、その後も長く、「訓戒」する声として記憶され、勝手に頭の中で喋り続けるようになる。
二分心の幻聴の声は、それが聞こえている一人の人の身体の右脳の中でゼロから発生してきたものではなく、その前段に、危機的な緊張状態の中で部族の長老たちに訓戒されるという経験があるわけである。この時、長老たちの口と若者たちの耳の間で、実際に空気が振動し、リアルに声が聞かれているわけである。
始まりがそういうことだからこそ、幻覚の声は気ままな思いつきを語るのではなく、「集団内で強制力を持つ共通認識」「集団内で信じられていること、文化全体の合意に基づく期待や掟」ばかりを言うようになるわけである。
「意識を持たぬ古代の人が道具を作るとき、「より鋭く」という幻覚の声で命令されるおかげで、一人で仕事を続けることができた。」
逆にいうと、極端な緊張状態にあって、皮肉な軽口ばかりを叩く長老に支配された部族の若者には、おそらく皮肉な軽口の幻聴ばかりが聞こえたことだろう。
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部族のメンバーに幻聴を引き起こす大きな「ストレス」の一つが、他でもない族長の「死」であるとジェインズ氏は書く。
族長が亡くなって動かなくなってしまったことは、部族のメンバーに大きなストレスを与える。そのストレスが引き金となって、部族のメンバーの頭の中で、かつて聞いた族長の声の記憶が、喋り出すのである。こうして「死せる王は、民の中で幻覚となって相変わらず命令を下」すことになるという(『神々の沈黙』p.176)。
あるいは今日でも様々な部族に見られるイニシエーション(通過儀礼)の儀式が、若者を強いストレスを感じる場面に追い込んだ上で、部族の長老たちが部族に伝わる秘密の言葉を伝えるというパターンを取ることもまた、幻聴のもとになる声を記憶させる仕掛けの名残と言えるかもしれない。
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族長霊・長老霊の集合体のようなもの
死んでしまった族長たち、長老たち、王たちは、その体は墓に葬られた後も、部族のメンバーたちの頭の中でその声を響かせ続ける。死んでしまった長老の声を思い出すことができるメンバーが生きている限り、その長老は「声」としては死んでいない、生き続けているのである。そこから族長の骸から頭蓋骨だけを取り出して綺麗に装飾して祭壇に置いたり、像を作ったりするということにつながる。
そうして何人もの族長たち王たちの世代交代が続く中で、ある一人の族長の声に、次の族長の声が重なる。この族長たちの声を重ねて集めていった先に、あの人この人、個人としての族長ではなく、より抽象的な族長霊の集合体のようなものとして、部族の、都市の「神」が成立するのである。
この辺りの話は、柳田國男の祖霊や折口信夫の言霊の思想に通じる気配があり、読者としてはとても面白い。
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ところでこの、部族の若者の右脳に過去の長老たち伝来の言葉をインプットするプロセスが無事に成功するかどうかは、ある共同体で現に生きて活動している人々に、どれだけしっかりその共同体の祖先たち=神々の声とされるものを聞かせ、耳を傾けさせることができるかにかかっている。
集落なり都市なり、集まって同じ仕事に勤しむ人々が、同じ幻聴を聞いて行動を同期させることができるようになるためには、メンバーの一人一人に、確実に、規格化された同じ訓戒の声を聞かせ、無意識のうちに覚えさせないといけない。
特別な神官のような人が個人的に一人で「こんなとき先代族長ならこう言うだろうなあ」としみじみ思い出すことができるだけでは、共同体の行動を律することにはならない。
神の声を聞いたという人が、その声を覚え、自らの口を使って大きな声で発し、空間に響かせ、その場で聞いている人々の耳に注ぎ込まなければならない。そしてさらに、聞かされた人々の脳の右半球が、その族長の声を反復して発することができるように、しっかりと記憶されなければならない。
これは結構大変なメディア戦略、おそらく周到に計画された儀式、ストレスを与えて緊張状態を高めつつ、その隙に大きな声を同時に大人数に聞かせる仕掛けが必要となることである。
そしてこのイベント、幻聴の元になる声を多くの住民に共有させるべく覚えさせる仕掛けは、いつもいつもうまく成功するとは限らないのである。
話を聞いていない人が増えてしまうと、幻聴により行動の同期をとることができなくなってしまう。
(この辺りの話については『反穀物の人類史』と言う本が関連するのでご参考にどうぞ。)
* * * *
今日でも、身近な死者がかつて語った声を不意に思い出すということは全くないことではない。
例えば大波が押し寄せる防波堤の先端へと柵を乗り越えて入っていく人を遠くから見つけた場合、思わず「危ないなあ、無茶するなあ」といった言葉が脳裏に浮かんでくることがあtたとする。
その後で、「いやいや、もしかすると防波堤を管理する仕事の人で、命綱など安全装備をした上でやっているのかもしれない。いやそれにしても一人で行くのはおかしい、通報しようかどうしようか」などと考えたりする。
このとき、後者は意識的思考そのものである。しかし前者の咄嗟に訪れた「危ないなあ」は、しばしば自分が子供の頃に、親やおじいちゃんおばあちゃんに言われた訓戒の言葉だったりする。
今日の私たちはこれを自分の意識的な言葉の紡ぎ出しということにして語るけれども、この不意に脳裏に浮かんでくる感じはどちらかといえば幻聴的である。
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訓戒的な声が教える「こういう時はこうすればいい」「こういうときにはこういうことはしないほうがいい」といった教訓話や、おばあさんおじいさんの知恵袋的なものは祖先たちの経験を通じて発見された「勝ちパターン」の集合体なのである。
何より「言語は事物の比喩によって知覚作用と注意力を増大させる」とジェインズ氏は書く(『神々の沈黙』p.170)。
それが繰り返し同じ世代を超えて、共同体メンバーによって思い出され、決まり文句として口をついて出るうちは、その訓戒は「集団内で強制力を持つ共通認識」になるわけである。
こういうのが井筒俊彦氏のいう集団的言語アラヤ織となって、私たちが最初に世界を分節化する時の枠組みを成すのである。
祖先たちの言葉を、新しく生まれた子供たちへ伝承する。そして祖先たちがやっていたのと同じように行動できるようにする。こうして特定の場面でどのように行動すべきかを規制するルールのようなものが輪郭を成すようになり、そのさきに社会が再生産されていくわけである。
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二分心の崩壊 ー 脳の右半球、二分心の「神々」の領域が機能を失うとき
次に、ジェインズ氏は『イーリアス』に、一つの共同体で<二分心>が沈黙していく様を読み取る。
『イーリアス』は古代のギリシアで二分心の時代が終わり、「<二分心>が崩壊して意識が発生する混乱期」に文字に記されたものであるとジェインズ氏はいう。それは紀元前1000年前後のどこかであると考えられる。
二分心が沈黙してしまうきっかけは、社会環境(というか自然環境に埋め込まれた社会環境)の変化にある。
「(二分心の崩壊の)原因は、秩序を失って解体した社会、人口過剰、そしておそらく幻の声による命令が文書による命令に取って代わられた影響もあるだろう。<二分心>が崩壊した結果、今日なら信仰の領域に収まる多くの慣行が生まれた。それは、失われた神々の声を取り戻そうとする努力だった。
即ち、共同体を構成する人々の大規模な移住や交代があり、都市の王が歴代の王から伝承して口にしていた二分心の声を、真面目に聞かない人々や、言葉がよくわからず聞こうにも聞けない人々が増えた可能性がある。
さらにまた、「命令」が、「声」ではなく「文書」、つまり書かれた文字によって下されるというコミュニケーション・メディアの様式の変化も関係があるという。
この事態に対応して、人類はいったいどのような善後策を講じたのだろうか?
また次回に続きます。
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