レヴィ=ストロース『神話論理』を深層意味論で読む(1) 空海の曼荼羅-「心」で『神話論理』を読む
空海の「心」と「野生の思考」
空海著『秘密曼荼羅十住心論』は、その名の通り「心」の十のあり方についての論として読むことができる。
『十住心論』を読む以前、私自身も現代人の素朴な常識に従って、”「心」のあり方は一つで、それは身体の脳神経か何かに還元して説明し尽くせるのではないか?”というふうに考えていた。
しかし空海によれば、”心”の世界はもっと広大無辺である。
しかも、”心”は一個の身体を超えている。
松岡正剛氏は 『空海の夢』で次のように書かれている。
「仏教の要訣は、せんじつめれば意識をいかにコントロールできるかという点にかかっている。[…]生命の一部として突出してきた意識というものが、虫や鳥にはありえなかった「自己の未来」を発見し、それが端的には死の輪廻に他ならないことをも知って、(ヒンドゥイズムの“梵我一如”の)哲人たちは死の到来の前に意識の内実をふたたび生命のよって来る母体、すなわち大自然、大宇宙と合一してしまうことを構想したのであった。続く仏教は、それにしてもその「我」が問題だと考えた。[…]「我」そのものを発想してしまう意識の中の特異点をとりはずせないものかと考えた。そこで仏教者たちは、なぜ「我」というものが意識の中にこびりついてしまったのか、まずその原因の除去から取り掛かることにした。業(カルマ)というも、四諦八正道というのも、およそはそのことである。」
意識。意識すること。意識することの主語としての「我」。
私たちが日常的にいう「心」とは、こういう意識、「意識する我」と同じようなことであろう。
私たちの普段の心は、自分から隔ったものを欲しがり、それを手に入れては喜んだり、手に入れられずに怒り苦しんだり、逆に、自分の身近なものを保持・増大しようとして、それが増えれば喜び、減ったり失われたりしたら怒り苦しみ、そしてまだ失っていないのに、来るべき喪失の日を想像して恐怖する、といったことに忙殺されている。
こうなると心=「意識する我」は、なにやら手に負えない駄々っ子のように見えなくもないが、仏教では、というか伝統的な東洋の叡智では、こういう意識、「意識すること」は、「コントロール」できるものだと考える。いたずらに右往左往するがままに放っておくのではなく、コントロールすることができる。その意識をコントロールする方法として、例えば様々な呼吸法や瞑想法といったものが開発されてきたのである。
*
心はどのようにしてこのようなあり方に生成したのか
ここで仏教は、心、意識する我というものを、何らかの経緯によって現れてきて、固まって、「こびりついた」ものと考える。
心、意識する我は、決して動かすことができない永遠不変の塊ではなく、もともとなかったものが、不定形な状態から次第次第に形をなしてきたもの、生成の相にあるものと考えられた。
とすれば、この心=意識する我を生成するプロセスがどうなっているのか、その秘密を明らかにすることができれば、心をコントロールすることができるどころか、自在によりよい心のあり方を発生させることすらできるのではないか。
そして、空海の『秘密曼荼羅十住心論』の「曼荼羅」とは、まさしくこの、さまざまな(仮に十の)心のあり方を発生させるアルゴリズムをモデル化したものである。
*
『秘密曼荼羅十住心論』の第十住心「秘密荘厳住心」の冒頭で、空海は次のように記している。
「秘密荘厳住心というは、すなわちこれ究竟じて自心の源底を覚知し、実の如く自身の数量を証悟するなり」
自らの心の源底を知ること。
日々のさまざまな心のあり方が、そこから浮かび上がってくる、心の「源底」がどういう動き方をしており、どういう心の可能なあり方を生じることができるのか、知り尽くすこと。
私たちが、自らの「心」の底を知ることができるとき、私たちは「秘密荘厳住心」の境地に入ったということになる。
心の源底の動き方をモデル化したものとしてのマンダラ
そして空海は、心の源底とは「曼荼羅」であると書く。
『いわゆる胎蔵海会の曼荼羅、金剛界会の曼荼羅、金剛頂十八会の曼荼羅、これなり。如き曼荼羅に、各々に四種曼荼羅、四智印等あり。四種といっぱ、摩訶と三摩耶と達磨と羯磨と、これなり。かくの如き四種曼荼羅、その数無量なり。雪塵も喩にあらず、海滴も何ぞ比せん。』
この曼荼羅とはどういうことか?という疑問には後ほどゆっくり応えていくとして、先に注目しておきたいのは、曼荼羅はひとつではなく無量で、数えきれない多さである、というところである。
そしてこの、無数の曼荼羅はそれぞれ「四種」に分かれる。

曼荼羅というのは「ひとつの固まったモノ」ではなく「多数に分かれつつ繋がって伸び縮みするコト」である。
一 / 多
静 / 動
モノ / コト
こういった細かい言葉の対立関係によく注意して読んでおこう。
ここで「多数に分かれている」と言ってしまうと、四つにカットされたケーキのような、個々独立した四つのものを思い浮かべてしまうかもしれないが、そうではない。”多数に分かれている”は、独立した要素のようなものに分解できるということではなく、「分ける動き/分かれる動き」である。
ひとつの固まったものではなく、多数に分かれていく動き
しかもこの動きは、一度分け終わったらおしまい、止まります、といったものではなくて、分かれているようでつながっている。二つに分かれた二つのものは、いわば長く延びたパイ生地や粘土の両端のように、分かれながらもつながっている。つながっていないと伸びることもできず、つまり他方と区別されたモノとしての一方が姿を固めることもない。
そしてマンダラが四つに分かれたもの一つ一つが、それもまた四つに分かれる。

この四極(この図で言えば、緑色の線が突出している四つの角)それぞれがまた四つに分かれていく。つまり分離しつつ結合している四項の一つ一つの項が、これまた四項に分離しつつ結合しており、またその四項の一つ一つが…という具合に、フラクタル図形のように展開していくのである。
一々の塵、一々の海の滴のようなひとつひとつの曼荼羅は、それぞれ「摩訶と三摩耶と達磨と羯磨」の四種に分かれていくのである。

無量に増えていく曼荼羅の四種に分かれるその動きが止まることはない。
際限なく分かれ増えていくのであって、静止させて、並べて、数え上げることはできない。
* *
分かれながらも繋がっている/四つでありながら一つである
さらに、四種に分かれた曼荼羅は、分かれながらもあくまでも繋がっている。繋がっているというか、はじめから”ひとつ”であると言ってもいい。
「”ひとつ”か”多数”か」という対立関係のどちらか一方に振り分けられるものではなく、ひとつでありながら多数であり、ひとつでもなく多数でもない、というあり方をしている。
孤立して、独立して、静止した「ひとつひとつ」の最小単位がまずあって、それが後から分かれたり増えたりするということではない。”孤立して静止した最小単位なるものがあると想定したところから考え始める”というやり方ではそもそもないのである。最初から(というか最初と最後の区別とは無関係に)分かれながらもつながりつながりながらも分かれようとする動きがまず動いている。諸々の四種曼荼羅同士は分かれながらも繋がっており、無量でありながら一であり、一でありながら無量である。これを「重々帝網」と喩えることもある。
*
この動きの、動き方のパターンが、人間の”心”と呼ばれるものである。
人間の心というもの(孤立して静止した最小単位)があって、それが対象としての「重々帝網」を”認識する”という二項関係はここにはない。
心 →<認識>→ 重々帝網
そうではなくて、人間の”心”もまた、重々帝網の中の一部である。
強いて図で描けば、次のような具合になるだろう。

ここで冒頭の話、”心”にもいろいろある、というところに戻ってくる。
十住心論であれば、十パターンの心のあり方が説かれる。十住心論第十住心冒頭に記された「心」について竹村牧男氏は次のように説かれている。
「「自心」は元来、多彩・無量の内容を有しているからである。人間の心には、無明・煩悩に覆われたあり方から、人間性に目覚め、仏道に目覚め、密教の堂奥に進入するという、浅・深多様なあり方があり、一方、実は自己は他者と重々無尽に結ばれていて、その他者の心の活動のすべてを自己の心に有している[…]」
まさに、マンダラとしての心は、「多彩」で「無量」のあり方をあらわし得る。
諸々の四種曼荼羅たちが分かれながらも繋がり、無量でありながら一であり、一でありながら無量であるというのが「心」の源底の動きであり、この動きの動き方から生じる曼荼羅の配列パターンに応じて、個々人の「人間の心」には”浅・深多様な”あり方がある。「無明・煩悩に覆われたあり方」は十住心論では第一住心「異生羝羊心」であり、「人間性に目覚め」た心のあり方は第二住心「愚童持斎心」である。そして「密教の堂奥」に入り、自在にありとあらゆる心の形を生/滅させることができるのが、第十住心「秘密荘厳心」である。
* *
心/物の二元論の手前へ
ここで竹村氏が、ある自己の「心」と、その自己に対する他者の「心」とが「重々無尽に結ばれて」いると書かれているところも非常に重要である。
”心”ということを対象世界と対立し独立する閉じた孤独な何かとは考えないとき、ここも重要なポイントである。
しばしば、近代的な心と物の二元論をモデルにしてものを考えていると、世界にはまず、
心 / 物
という分別が厳然とあらかじめ、初期条件として設定されており、そして「私の肉体」という「物」の中に、私の「心」なるものが閉じ込められており、そして他者の肉体という物の中にも、おそらく他者の「心」なるものが閉じ込められているのだろうが、それを物質として手に取ったり重さを測ったりすることはできないので、心なんてあるのかないのかわからない、といったようなことを考えるのが現代人である。
しかし、十住心論でいうところの「心」とは、そういう心/物二元論の、分別された二項対立の一方の項ではない。
十住心論でいうところの「心」とは、心/物でいえば「/」に相当する。
Δ1 / Δ2
こういう二項対立があったとき、心は、Δ1の方でもなく、Δ2の方でもなく、その間の「/」である。
この「/」は何をしているかというと、これがΔ1とΔ2を分けているのである。細かく言えば、つながっているところを分けながらも、完全に分離してしまうことはなくつなげてもいる。分けつつつなぐ、分離しつつ結合するのが「/」である。
いや、分けつつつなぐ、という言い方は誤解を招くかもしれない。
「/」は、もともとそれ自体として自性をもって、即自的に存在しているΔ1とΔ2なるものを、2次的事後的に接着しているわけではない。
ほかでもない「/」の働きこそが、Δ1をΔ1ではないものーではないものとして、Δ1ではないもの(今の場合はΔ2)と区切り出すのである。「/」の分けつつ繋いだままにする動きが止まってしまえば、Δ1も、Δ1ではないものである限りのΔ2も、消えてしまうのである。
いずれにしても「心」は、そのような切り分けつつつながったままにする「/」をおり重ねて共振させたような事柄としてアイドリングしている。
この「/」のパターン、「/」たちの重ね合わせ方・共振のさせかたのパターンに応じて、さまざまな「心」のあり方が、さまざまなパターンのマンダラとして浮かび上がってくる。

自/他を分別するのも「心」
そして他でもない
自 / 他
この分別も、数ある「/」の蠢きが浮かび上がらせた一つの影なのである。
そういうわけで、無数の「/」たちの躍動に照らし合わせてみると「自/他」の区別も、なんら所与の静的に分離された別々の二つのものの二次的な関係ではなく、むしろ「/」たちの共鳴体としての大きな「心」のうちで多様に煌めく様相の一片といったことになる。

自己と他者、個々の人間同士は、個々別々に孤立して分かれているようでいて、その実「心」の源底においては重々帝網に分かれながらも繋がり、無量でありながら一であり、一でありながら無量に分かれつつある。
◇
自己の「心」にはいくつものあり方があり、またそれらは”自己の”心でありながら、まったく同時に”他者の”心でもある。
こういう無量にして重々無尽に分かれつつ繋がっている網(ネットワーク)の動き、分かれ、広がり、結びつく無数の動きが、私たちが日頃、自分自身の「心」でもってあれこれ考えたり、悩んだり期待したり、落胆したり、嬉しくなったり、恐ろしくなったりしていることの底にある。
四種曼荼羅の無量のネットワークが四つに分かれつつ結びつく様を知ることは、私たちが自他の「心」の動きに向き合うときの向き合い方を鍛えることにつながりそうである。
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自他未分で重々無尽に分かれつつ繋がっていく”心”の動きを観じるとなると、本格的に行おうとすれば、それこそ密教行者の修行のようにとてつもなくハードな行が必要になるはずである。
一方で衆生の第一住心もまたた四種曼荼羅の無量のネットワークの動きの小さな部分であるとすれば、身近なところから小さく、自他未分で重々無尽に分かれつつ繋がっていく”心”の動きを観じる実践も可能なのではないか。
『神話論理』の精読はマンダラ瞑想である
ここでヒントになりそうなのが、クロード・レヴィ=ストロースの『神話論理』である。
弘法大師の話をしていたところで、いきなりレヴィ=ストロースが持ち出すなどイッタイナニゴトか!と思われるかもしれないが、どうかお許し願いたい。
深層意味論の知見によれば、創造的な読みは、互いに全く無関係にみえるような複数の本を並列して読むところで芽を出しやすい。
クロード・レヴィ=ストロースの『神話論理』は、最小構成で四者(四項)の関係が分かれつつ結ばれ・結ばれつつ分かれる両義的で媒介的な動きと、その動きの反復を通じて発生する四項関係の配列のパターンとしての「構造」をめぐる壮大な物語である。
ちなみに、神話論理の四項関係といえば、安藤礼二氏が『熊楠』で書かれているように、かの南方熊楠が『燕石考』においてレヴィ=ストロースに先行して「四項関係」を使った神話分析を試みている。
そして熊楠といえば、まさに「曼荼羅」の思考を実践したひとである。
このあたりの話は中沢新一氏の下記の著作で知ることができる。
また、読みようによっては、現代の人類学者、ティム・インゴルド氏の「線」の理論も、「分けつつつなぐ」動きのこと、絶対無分節の自己分節のことを論じたものとして読むこともできるかもしれない。
人類学は「記述するということ」に極めて自覚的な学問である。そこで記述は、「他者/自己」の分節、「記述する者/記述される者」の分節という問題に迫っていく。
深層意味論的にいえば、記述するということは、絶対無分節のゆらめきから束の間波紋のように前景化してみえる八項関係を、言葉の言い換え関係として束の間定着させるということである。
絶対無分節の自己分節を、微細に観察し、そしてそこから浮かび上がる分かれつつつながる動きの影を、それ自体が”絶対無分節の自己分節”の影の一つである”言葉”の配列のなかに染み込ませていく。
絶対無分節には上もなく下もなく、表層も深層もないが、人の”心”にはいわば「水面」がある。
心の水面に波紋が現れる。
そしてこの水面こそが、過去から連綿と並べられ続けた言葉たちの縦横の配列なのである。

◇
この話は相当長くなるので「連載」していこうと思います。
手始めにレヴィ=ストロース氏の『神話論理I 生のものと火を通したもの』を精読しながら、細かく四項関係を拾っていこうと思います。
なお、神話論理は非常に分厚く、精読すると何年もかかると思いますが、それがおもしろいのです。

よろしければぜひお付き合いくださいませ m(_ _)m
本シリーズの記事はこちら↓でまとめて読むことができます。
以降の一連の記事では、レヴィ=ストロース氏の神話論理を”創造的に誤読”しながら次のようなことを考えていきます。
※
経験的な区別が概念の道具となる
レヴィ=ストロース氏は大部の神話論理の冒頭に次のように書いている。
「生のものと火を通したもの、新鮮なものと腐ったもの、湿ったものと焼いたものなどは、民族誌家がある特定の文化の中に身を置いて観察しさえすれば、明確に定義できる経験的区別である。これらの区別が概念の道具となり、さまざまな抽象的観念の抽出に使われ、さらにはその観念をつなぎ合わせて命題にすることができる。それがどのようにしておこなわれるかを示すのが本書の目的である。」
経験的感覚的な区別(分別)を、概念の道具として観念を抽出し(つまり分別同士を重ね合わせて意味分節する)、この観念を繋ぎ合わせる(意味するものと意味されることとの一対一の静的ペアをリニアに連鎖させる)ことが「どのようにしておこなわれるか」。この「どのように」をマンダラ状の意味分節システムの生成消滅の脈動のモデル上でシミュレートすると、概ね以下のような具合になる。
神話論理のアルゴリズム(動き方)
即ち、神話は、語りの終わりで、図1におけるΔ1〜Δ4を分けつつ、過度に分離しすぎない程度に付かず離れずに結んで安定した曼荼羅状のパターンを描き出すことを目指す。

そのためにまずβ二項が第一象限と第三象限の方へながーく伸びたり、β二項が第二象限と第四象限の方へながーく伸びたり、 中央の一点に集まったり、という具合に振幅を描く動きが語られる。
両義的媒介項たちを遠ざけたり近づけたりする
β項は神話では、火を使うことを知らず鶏のように土を啄んでいる人間であるとか、服を着て弓矢をもって二本足で歩くジャガーとか、ヤマアラシに変身して人間の女性を誘惑する月とか、下半身を上半身と分離して上半身だけで川に飛び込み流れる血の匂いで魚を誘き寄せて捕らえる人間、といった姿をしている。そのようなものたちは、経験的感覚的には「存在しない」が、神話は、何かが存在する/存在しないを分別できるようになる手前の「/」の動きを捉えて、これを安定化させることを目論んでいる。そうであるからして、人間/動物、獲物/狩猟者、といった経験的には真逆に対立するはずの二極が、ひとつに重なり合ってどちらがどちらかわからないような状態をあえて語り出す。オオゲツヒメの神話の吐瀉物を食物として供するといったこともこれである。こういう経験的に対立する両極の間で激しく行ったり来たりするような振幅を描く動きをみせるものや、経験的に対立する二極のどちらでもあってどちらでもないようなあり方をするものを両義的媒介項(図1ではΔに対するβ)という。
お餅、陶土、パイ生地を捏ねる感じで、四つの項たちのうち二つが、第一の軸上で過度に結合したかと思えば、同時にその軸と直交する第二の軸上で過度に分離する。この”分離を引き起こす軸”と”結合を引き起こす軸”は、高速で入れ替わっていく。
そこから転じて、βたちを四方に引っ張り出し、 β四項が付かず離れず等距離に分離された(正方形を描く)ところで、この引っ張り出す動きと中央へ戻ろうとする力がバランスする。ここで拡大と収縮の速度は限りなく減速する。そうしてこのβ項同士の「あいだ」に、四つの領域あるいは対象、「それではないものと区別された、それではないものーではないもの」(Δ)たちが持続的に輪郭を保つように明滅する余地が開く。
私たち一人一人にとっての世界の意味は対立関係の組み合わせとして分節されたものである
ここに私たちにとって意味のある世界、 「Δ1はΔ2である」ということが言える、予め諸Δ項たちが分離され終わって、個物として整然と並べられた言語的に安定的に分別できる「世界」が生成される。何らかの経験な世界は、その世界の要素の起源について語る神話はこのような論理になっている。

私たちの経験的な世界の表層の直下では、βの振動数を調整し、今ここの束の間の「四」の正方形から脱線させることで、別様の四項関係として世界を生成し直す動きも決して止まることなく動き続けている。分別心の表層意識に浮かぶ図2のような、所与の諸要素たちをかっちりとした構造体として配置したように感じられる意味分節システムは、実は、図3のような脈動する波の伸び縮み(周期的に反復される振動の周期T[s]が伸び縮みすること)を瞼を細めて薄目で眺めたようなものである。

*
神話の論理に通達することは、私たちが自分自身を含む世界を意味あるものとして経験することを可能にしている分別(ふんべつ)、あるいは意味分節のパターンが、あれこれさまざまな様相で生成したり消滅したりする様を観察することを可能にするし、またそうした分別、意味分節のやり方を相当程度自覚的に自在に組み立てることをも可能にするのである。
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