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〈映画的なるものたち〉よ、〈途方もないものたち〉を招喚し、物語の欠片が、撒き散らされた、われらの出鱈目な世界を生き延びる道を教え賜え、あるいは、〈通り過ぎてゆくものたち〉へ捧げる、花束/音楽のために。

2026/06/18/19:07

沈黙と取り違えてしまう、深く濃密な、光/ひかり/音響、が、そこにある。手を伸ばし、静かに指先で触れ、確かな肌ざわり、のある、光/ひかり/音響閉ざされた暗闇の中のスクリーンに、映し出され出現すれば、出来事には、〈映画〉という名前が授けられる。しかし、それは、必ずしも、スクリーンの上の事象として、存在するだけではない。〈映画〉は、閉ざされた暗闇の中のスクリーン以外にも存在している。前に、今に、後に、そこかしこに。

仮に、スクリーン以外の事象/事柄/出来事/に、〈映画的なるものたち〉、という、ささやかな呼び名を与えてあげれば、わたし/たちの生きている世界は〈映画的なるものたち〉の歌が、満ち溢れる場所である、ことに、気付く。
 
〈映画的なるものたち〉とは、生の時間/空間の断片/組立て/であり、世界の出来事の欠片である。それらは、光/ひかり/であり、音響/音楽/であり、肌ざわりであり、香りであり、味わいであり、物質/建築/機械/道具/であり、言語/観念/概念/であり、像/イメージであり、時間/流れ、空間/広がり、で、ある。

リュミエール兄弟が、1895年にシネマトグラフ/Cinématographe/を、発明し、〈映画的なるものたち〉を、フィルムの中に封印し物質化することに、はじめて成功した。以来、現在に至るまで、わたしたちは「スクリーンの中の映画の中に、〈映画的なるものたち〉を見出す。」ことになる。しかし、それは映画という物語/制度/構造に対する、信仰であり、従属でしかない。

映画から〈映画的なるものたち〉を解放し、救い出さなければならない。
 
〈映画的なるものたち〉が、わたし/たちにもたらす〈途方もないものたち〉を迎え入れ、物語の欠片が撒き散らされた、わたし/たちの出鱈目な世界を生き延びる道を、探索しなければならない。映画を、再度、驚異なるものへ。

映画について、語るのではなく、〈映画的なるものたち〉の歌を聴くこと。

24の断章、〈建築/機械〉を構築し、体系/論理へと収斂し定着しようとする言葉/断片たちを、絶え間なく解体し、浮遊させ、〈遊泳の技法〉として、〈バロック/歪んだ真珠〉的な、〈アラベスク/arabesque/幾何学/唐草文様〉を、生成すること、〈別の仕方/仕様〉で、〈遊牧民/ノマド/nomad/〉的に、
 
〈論理/体系/建築/機械/〉から、〈技法/断片/破片/道具/ツール/〉、へ

〈映画的なるものたち〉、歌声に、耳を澄ませ、目を凝らせ!


No.01/.『燃ゆる女の肖像/Portrait de la jeune fille en feu』//.セリーヌ・シアマ監督/2019年/あるいは、動く絵画/タブロー/の中の.女たち、疾走する、人の存在の形式としての女たち、の高貴なる,愛の物語/ラブ・ストーリー。

動く絵画/タブロー/、色彩の透明性に於いて、フランソワ・トリュフォー、色彩の官能性に於いて、ベルナルド・ベルトルッチ、海辺の場所で、ひとりの女性画家が、ひとりの女性の肖像画を描く、その短い時間の光と闇の中、愛の物語/ラブ・ストーリーの激しい進行の風景が静謐に刻明に記録される。

波が荒々しく打ち寄せる海辺の場所で、秘密の取り決めがあるかのように男たちが影を潜めた謎めいた場所で、女たちが、透明性と官能性を内包した、色彩の中、絵画の中、を横切って行く。動く絵画/タブロー/の中の.女たち、さらに、女たちはその中で絵画/タブローを生成させ、自身をもまた絵画/タブロー/の中の女たちへと封印して行く。愛の物語/ラブ・ストーリー、が、一瞬の永遠であり、永遠の一瞬であること、顕示される、歓びと痛み伴に。

『燃ゆる女の肖像/Portrait de la jeune fille en feu/』の中の、女たち、彼女らは、人の存在の権能/機能/役割として、ではなく、人の存在の形式として存在し、必然に当然に、友を求め愛を求める。娘でもなければ妻でもない、さらに、母でもない、人の存在の形式としての、女。制度/構造の仕組みから外れた、人としての女。セリーヌ・シアマ監督は、高度な映画作法により、映画の始まりから一挙に観る者たちを、動く絵画/タブロー/の中へ引き込み終わりへ向け捻じれの挿入を避け直線的に疾走し、“人としての女”の性愛を描写し制度/構造から外れた女たちの存在が、映画/物語の中に封印される。

火を近づけてしまうと、燃え上がってしまう。しかし、それは人の存在の形式の必然であり、何よりも、自由であることの証左でしかない。映画の全編に漲る眩い高貴さは、自由から由来している。〈映画的なるものたち〉が、色彩の中、絵画の中、愛の物語/ラブ・ストーリーのために、火を用意する。

No.02/.『ルックバック』.押山清高監督/原作:藤本タツキ/2024年)あるいは,〈純粋と混沌〉へのオマージュ、urara..「Light song/.ひかりのうた」by haruka nakamura.

映画が終わり、エンディングロールがはじまる。しかし、『ルックバック』のエンディングロールは、映画の終わりの部分として、作られ、さらに、uraraの歌「Light song」by haruka nakamura、が、映画の終わりの重要な大切な部分として、挿入される。時の経過と伴に、刻々と変容して行く街の風景、午後の光は、黄昏のそれとなり、やがて、夜の光に溶け込んで行く。

藤野と京本の出会いの奇跡、黄金の時間の煌めき、そして、二人の輝きを切り裂く暗黒、一枚の宙を舞う紙片が、時空を超越して横断する。原作の藤本タツキの漫画の鮮烈さを、あますことなく正確に描写した押山清高監督に、わたしは原作に激しくこころを揺り動かされた者のひとりとして、深い感謝しかない。ありがとう、押山清高監督。ここでは、原作に描かれてはいるけれど、映画の中で、二つの事柄がよりいっそう明確に描写され、観る者へ示されていることについて、わたしは、少しだけ言葉を書き添えたいと思う。

ひとつ目の事柄、
思春期の〈純粋と混沌〉へのオマージュが、繊細に、しかし、鮮明に描かれている。〈純粋と混沌〉は、恥ずべきことでも、揶揄されることでも、嘲笑されることでもない。最中の者たちを、断固として守護しなければならない.

思春期の〈純粋と混沌〉が、いつの間にか恥ずべき事柄として揶揄され嘲笑される対象に成り果ててしまっていた。それが、大人でありながらも大人へと成熟していない者たちの、自己への複雑に屈折した否定と肯定であることは明白だが、自身の矛盾と分裂から目を背け、〈純粋と混沌〉を自身が気持ちよくなるための方便として、他者への攻撃として利用することほど悍ましいことはない。大人の振りをした彼ら、彼女らには成熟した大人の作法は分からないし、分かろうともしない。大人の姿をした子供たちによる残虐な精神的な殺戮、野放しにしてはいけない、さらに許されてはいけない。〈純粋と混沌〉は恥ずべきことでも揶揄されることでも嘲笑されることでもない。『ルックバック』には〈純粋と混沌〉へのオマージュが刻み込まれている。

二つ目の事柄、
エンディングロールが藤野と京本の宿命の残酷なありようを、わたし/たちが受け入れるために必要な十分な時間を、やさしく用意している、ということ.

映画『ルックバック』の最も美しい部分である、と言ってもいい、とわたしは思う。わたしが『ルックバック』について書いたはじまりにあるように、エンディングロールは、時の流れの中の街が、部屋から観える風景として、藤野の背中越しに映し出される。ゆっくりと。uraraの歌「Light song」by haruka nakamura、〈ひかりのうた〉が重ね合わせられ、時が流れる。街が夜の光に辿り着くまでの、少しの時間、わたし/たちにはそれが必要だった。

No.03//.『ルノワール早川千絵監督/2025/../あるいは、「何でもない、何もかもが、一回しか、ありえない。」ということ、について。

幾つかの出来事、だが、それでも、だからこそ、人の生の時間は流れ、停止することのない風の中で、無数の〈通り過ぎてゆくものたち〉が、向こう側へと消えてゆく。子供たちは、やがて、大人になり、大人たちは、やがて。〈通り過ぎてゆくものたち〉、が、〈映画的なるものたち〉の断片となり、スクリーンを、世界を、横断して行く。何もかもが何でもないことでありながらも、何でもないことを理由として、何でもない何もかもが、一回しかありえない、ということ。幸せなことなのか、それとも、不幸せなことなのか生の時間の流れ、〈映画的なるものたち〉、歓びと哀しみと痛みと一緒に。

世界に氾濫していながらも、しかし、誰も気に留めない、〈映画的なるものたち〉の断片を、早川千絵は、カメラで、掬い上げ、映画へと組み立てる。『ルノワール』には、終わりも始まりも、内側も外側もない。〈通り過ぎてゆくものたち〉が、流れを作り、流れが〈通り過ぎてゆくものたち〉を何処かへと、運び、送り届ける。だから、『ルノワール』は、そこにあり、ここにあり、前後と今にあり、わたし/たちの前にあり、後にあり、あなた/たちの前にあり、後にあり、〈通り過ぎてゆくものたち〉のすべて、と伴にある.

No.4/.『ホーリー・モーターズ/Holy Motorsレオス・カラックス監督/2012年/.、あるいは、物語の終焉の荒々しき〈映画的なるものたち〉の咆哮。

「物語はもう必要ない。」と、わたしは強く思う。物語が秩序の成立のための方便として利用され、今この現実/秩序を受け入れるための道具/ツールとして君臨する。今を今のまま受け入れるために、物語を読まなければならない、そうだとすれば、「物語はもう必要ない。」悪しき物語も善き物語も、物語は物語であるがゆえに、何かしらの秩序へと回収され組み込まれ、秩序を強化する何かへと変化して行く。しかし、一方で、物語を生み出す想像力/フィクションこそが、今この現実/秩序をアップデートさせる唯一の根源的な力、であることに、かわりはない。そう。だから、言わなければならない。
「物語を破壊しなければならない。物語を破壊せよ!想像力を全面的に駆動させ、フィクションを、物語/制度/構造に、堕落する前に、解き放て!」と.

レオス・カラックス監督の『ホーリー・モーターズ/Holy Motors/』が、容赦なく、物語/制度/構造を破壊し、フィクションを解き放つ。映画が、映画の臨界点を超え、自壊する。荒ぶる〈映画的なるものたち〉の咆哮に、耳を塞ぎ、目を閉じるのか、それとも、伴に、歌うのか、〈映画的なるものたち〉を現在進行形の事変とし、レオス・カラックスが世界をアップデートする。

No.05//.『ダゲレオタイプの女/La Femme de la plaque argentique/黒沢清監督/2016年/あるいは、生命の形式のひとつのありようで、ある、映画のすべてを、愛すること、について

〈映画的なるものたち〉が、映画を観る者たちなど存在しないかのように、スクリーンの中で犇めき合う。蠢きが耐え難く直視出来なければ、黒沢清の映画から目を背けるしかない。黒沢清が行っている事柄は、“映画の製作を監督すること”ではない。映画の形式の中に〈映画的なるものたち〉を呼び込むための通路を構成することであり、それが成されれば、後は、通路/穴から、ぞろぞろと〈映画的なるものたち〉が、這い出して来るという仕掛け。

あらためていうまでもないことだが、映画とは、生命の形式のひとつのありようであり、映画とは、生命のひとつの形である。生命のひとつである映画のすべてを愛している黒沢清監督は、〈映画的なるものたち〉の何もかもを映画の中に招き入れてしまう。善、悪、美、醜、真、偽、聖、俗、の一切を.

結果、〈映画的なるものたち〉が、必然として持たざるを得ない光と闇も一緒に、映画の中に侵入して来る。〈映画的なるものたち〉は光/ひかりだけの存在ではない。そこには闇/影もある。黒沢清の映画が、他のそれと決定的に異なるのは〈映画的なるものたち〉の闇/影を、意識的にであれ、無意識的にであれ、排除しないことにある。彼には映画の光と闇のすべてが愛おしい。

黒沢清監督の映画を観る者たちが、〈映画的なるものたち〉を誘惑し映画の中に入れ込む通路/穴/罠を、構成している物語を、厳密に追い駆けても、あまり意味はない。物語は仕掛けでしかない。『ダゲレオタイプの女』の判然としない辻褄/論理/話/に固執する必要はない。誰もいないはずなのに、唐突に、ゆっくりと開くドア、揺れる室内灯、死者と生者、幽霊と実在犇めき合う〈映画的なるものたち〉の、悪戯として、受け入れれば、それでよい。

さあ、論理を棄て、眩暈のする〈映画的なるものたち〉の饗宴『ダゲレオタイプの女/La Femme de la plaque argentique』に酔い浸ることにしよう。

No.06//.『珈琲時光』(侯孝賢監督/2004年)あるいは、〈映画的なるものたち〉の、存在の形式であるショット//ひかり/光が、スクリーンの内と外の世界の中に、氾濫する。

ショット/ひかり/光がある。世界の中に。侯孝賢監督の映画がそれを教えてくれる。密やかな事柄を、教えられたわたし/たちは、世界のいたるところに氾濫するショット/ひかり/光を、次々と発見して行く。「〈映画的なるものたち〉は映画のスクリーンの外にも満ち溢れている。」という必然と偶然と当然に、立ち止まり、あらためて深呼吸をする。ひかり/光/音楽に包まれ。

ショットとは、〈映画的なるものたち〉の存在の形式であり、基本的な単位/エレメントである。いわば、物質に於ける元素のようなもの。映画は、ショットとショットが接合しシーンとなり、シーンとシーンが接合しシークエンスとなり、シークエンスとシークエンスが接合して物語/ストーリーとなる。映画という名前で呼ばれる、無数のショットの接合した、最小単位へ分離可能なデジタルの身体、同時に、分離不可のひとつの優美なアナログの身体。

『珈琲時光』の中、逆光の中の動く背中、反復され交錯する移動する空間/列車、街の騒めき、三歩、退いた広角的な風景、生の時間がショット/〈映画的なるものたち〉の存在の形式/として切り出される。分解してしまえば、ショットの無数の群れへと崩壊し散逸してしまうそれらが、魔法によって、ひとつの“何か”に変身する。変身の後、ショットとショットを接合させ作られた映画の接合の継ぎ目を見つけようとしても、見つけることは出来ない。わたし/たちが観ているものは、無数のショットの接合でありながらも、しかし、〈ひとつながりの何か〉である。映画の魔法の核/奥義が、そこに存在する。

わたし/たちは、スクリーンの外で、スクリーンの内で、ショット/ひかり/光を、採集し、編集し、接合させ、わたし/たちの〈映画的なるものたち〉を組み立てる。わたし/たちの生の時間/空間の〈ひとつながりの何か〉のために.

No.7//『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡/Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)/』(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督/2014年)、あるいは、重力の頸木から解放され、浮遊する者たちの、自由と背徳。

背負うこと。背負うべきものたちとは、人が与えられし生を賭して守護すべきもののことである。守護すべきものたちを守護するために、守護すべきものたちを人は背負う。一切の悔恨は存在しない。重さに自身が砕け散ろうとも、何ひとつ後悔は存在しない。守護のために、背負わなければならない。

しかし、背負い、背中に乗せた重みを噛み締め、軋む背骨の痛みに耐え、砕けてしまいそうになる足を、前へ前へと踏み出すこと、それが人に与えられた生の唯一のかたち、であるとしたら、わたし/たち人は、あたかも荒れ狂う波間に漂い揺れるガレ―船の中の、鎖に手足を繋がれた奴隷の漕ぎ手の如き存在でしかない。自由の中にこそ、人の生はある、はず、にもかかわらず。

重力の頸木から解放され、宙を舞い浮遊すること、が、人の生の自由の象徴として刻印される。だが、そこに背負うべき事柄の放棄という罪悪感/後ろめたさが背後から忍び寄り、執拗に責め立て始める。浮遊する者たちは、行うべき当然のことを行わない者として、自らを断罪し、再び、自身を重力の鎖に繋ぎ止める。人が人として当然の事柄を行うために、人は人の生の奴隷に成り下がる。自らの手で。少しだけ周囲を見渡せば、人生の葛藤の中心には「〈背負うこと〉と〈浮遊〉の闘争の絵図」が、幾重にも活写されている。

従って、コミックの中のヒーロー、ヒロインたちは、挙って、宙を飛ぶことになる。「〈背負うこと〉と〈浮遊〉の闘争の絵図」から「〈背負うこと〉と〈浮遊〉の和解の絵図、あるいは、背負うこと、を引き受けつつ〈浮遊〉する絵図」への転換という夢のまた夢を、コミックの中のヒーロー、ヒロインたちが担うことに。だからこそ、世界中の子供も大人もみんなコミックに夢中になる。飛行機、ヘリコプターの飛行機械/テクノロジーが誕生しても、「〈背負うこと〉と〈浮遊〉の闘争の絵図」から逃れることは出来ない。コミックのフィクション/想像力の中だけが、それを可能にしているのだから。

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)/Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance)/』とは、「〈背負うこと〉と〈浮遊〉の闘争の絵図」の中で、狂うほどに足掻き藻掻き暴れる、守護すべきものたちを背負うしかない人々へ向けた、「〈背負うこと〉を棄て、〈浮遊〉へ逃走する背徳的な白昼夢」であり、フィクション/想像力だけが、背徳を十全に肯定し受け入れることが出来る、というアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の映画へのオマージュでもある。しかし、映画というフィクション/想像力もまた、現実の部分であることは言うまでもない。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥは確信犯的に映画という現実を信頼しているのだ。

No.08//.『ナイト・トーキョー・デイ/Mapa De Los Sonidos De Tokio/イザベル・コイシェ監督/2010年)、あるいは、アクター/actor/、による、〈映画的なるものたち〉の時間。

僅かだが、ほんの僅かだが、〈映画的なるものたち〉から身体を求められた選ばれし者たちがいる。菊池凛子田中泯彼女、彼は、そうした選ばれし者たちのひとり。〈映画的なるものたち〉の中の、アクター/actor/、とは、脚本に書かれた、役を演じる者という意味での、役者/俳優ではない。アクター/actor/、とは、脚本/言葉を行為へと変換する装置として、身体を作動させる者たちのことではない。アクター/actor/、とは、理由もなく存在せざるを得ない身体が発する内的なる行為を、〈映画的なるものたち〉に、見返りを得ることなく捧げる者たちのことだ。脚本/物語/言葉はそのために用意された偽装のための道具でしかない。アクター/actor/、の供儀/サクリファイス。

だから、菊池凛子と田中泯はスクリーンの中の映画の中で、二人が互いに向き合うのではなく、映画を観ているわたし/たちの方を向きながら、互いに言葉を交わす。彼女、彼は、自分たちが何者であるのか知っているし、自分たちが何をなすべきなのかも熟知している。菊池凛子と田中泯がスクリーンの中、横たわり、立ち上がり、歩き、佇み、横断して行く。もうそれだけで他には何もいらない。必要なものはない。わたし/たちを、アクター/actor/、による〈映画的なるものたち〉の時間が、やさしく静かに包み込んでくれる。

No.9//.『ル・アーヴルの靴みがき/Le Havre 』(アキ・カウリスマキ監督/2011年)、あるいは、人間的であるために、抗う者たちの記録、〈映画的なるものたち〉が、何を、わたしたちにもたらすのか?

「非・人間的であること」と「人間的であること」の境界線が溶解し混沌の灰色の中へ紛れて行く現在という時間、「非・人間的であること」が「人間的であること」の仮面を被り、平然とわたしたちの世界に侵入して来る。当然のことのようにそれは行われる。神も仏も存在しない。誰もそれに抵抗することは出来ない。存在するものたちの全てが、アルゴリズムの支配する情報に書き換えられ、真偽、善悪、美醜を問わず、デジタル・データへと変貌し記録され記憶される。人間が人間として存在する、人間的であるはずのわたし/たち人の生の時間/空間は、一体何処へ消え去ってしまったのだろう?

だが、少しだけ、ほんの少しだけ、抗う者たちがいる。アキ・カウリスマキ監督の映画とは、現在という時間に抗う者たちの戦いの記録、結果として、彼ら、彼女らは戦いに勝利したのか?あるいは、敗北したのか?違う違う!そうじゃない、勝敗など、どうでもよろしい。戦いに、勝利しようが敗北しようが、人が人であり人間が人間的であることの意味、人間が根源的に持つ限りなき〈やさしさ〉が世界に示されること、その事柄が、すべてなんだ。

アキ・カウリスマキ監督は、いつも、静物画のような完璧な構図の色彩の中彼ら、彼女らの戦いの始まりから終わりまでの全部を、目を背けることなく静かに見守るように正確に精密に描写する。抗う者たちの記録を残すために.

『ル・アーヴルの靴みがき/Le Havre /』のラスト・シーン,〈映画的なるものたち〉が何をわたし/たちにもたらすのか、自分の目で確かめて欲しい。眩しく軽快な結末、ファンタジーと侮辱することなかれ、到来する光景は幻想でも奇跡でもない、人間が人間的であるということが、呼び寄せる当然の事柄.

No.10//.『ストレイ・ドッグ/Destroyer/』 (カリン・クサマ監督/2018年)、あるいは、ノワールの流儀、欲望が奏でる“血と暴力と金”の論理学。

誰もかれもが行き止まりにいる。元に戻ろうとしても、帰り道は既に塞がれている。行き止まりの向こう側に行くことが出来るかもしれない、秘密の脱出口が何処かにありはしないかと、しきりに地面を叩くが、そんな都合のよい出口なんてありはしない。行き止まりで果てるしかない。はじめから分かっていた。行き着く場所が行き止まりだってことは。容赦のない焼け付く陽射しの中、乾いた笑い声が洩れ、風が舞う地面にサングラスを外し唾を吐く.

『ストレイ・ドッグ/Destroyer/』は、行き止まりから始まり、行き止まりで終わる。誰も救いを求めない。求めても、祈っても、救いなど訪れないことを痛切と伴に知っているからだ。救いはない。何もない。誰もが知っているけれど、誰もが口にすることのない、わたし/たちが生きている苛烈な現実の断面が眼前に暴露される。観たくないものを観ることになるのかもしれない予感がするのであれば『ストレイ・ドッグ/Destroyer/』を観ない方がいい。

ノワールの流儀、仮に、そうしたものが存在し、流儀が、“血と暴力と金の論理学”を意味するものであるとすれば、『ストレイ・ドッグ/Destroyer/』は、流儀に正確に従っているのかもしれない。さらに、流儀の根源を辿れば、生命の宿痾である欲望に行き着く。ノワールの流儀とは、生命の欲望の劇が織り成す法則のことであり、人が人である限り逃れることの出来ない業を司る法である。何のことはない。映画『ストレイ・ドッグ/Destroyer/』とは、観ようが、観まいが、結局、わたし/たち自身の内奥の物語でしかない。

映画というフィクション/想像力が、ノワールの流儀に引き寄せられるのは当然でしかない。〈ノワール〉とは、わたし/たち人間の存在の根源に、誰もが秘めた事柄。映画というフィクション/想像力が見逃すはずなどあり得ない。

No.11//.『シェイプ・オブ・ウォーター/The Shape of Water』(ギレルモ・デル・トロ 監督/2017年)あるいは、造形職人の映像絵巻.言葉の起源としての、〈辺境の者たち〉の、 愛の物語/ラブ・ストーリー。

物語の祖型として、ラブ・ストーリーが存在する。愛について語ること、それは人が人として誕生した時に、必要不可欠な事柄のひとつとして現れた。愛について語ることが言葉を求め、愛の物語/ラブ・ストーリーが生まれた。愛の物語/ラブ・ストーリーとは、言葉の起源であり、「人間的であることはどういうことなのか?」という永遠の問いへの、返信であり、答えである。

『シェイプ・オブ・ウォーター/The Shape of Water/』は、過去、現在、未来のすべての時間と場所に無数に存在する、愛の物語/ラブ・ストーリーのひとつであり、「人間的であることはどういうことなのか?」という問いへのギレルモ・デル・トロ監督が提示したひとつの答えである。さらに『シェイプ・オブ・ウォーター/The Shape of Water/』というラブ・ストーリーは、孤独なる者たちの孤独を分かち合う物語でもある。そう。二人の中のひとりは〈怪物/モンスター〉、もうひとりは〈他者の言葉を聴くことは出来るが、自分自身の言葉を声にすることが出来ない者〉。無数の困難と試練の中で、彷徨う〈辺境の者たち〉の孤独な魂たちが、宿命的に引き寄せられて行く。

残酷な世界の中で、二人は出逢うべくして出逢う。愛を語り合う二人の言葉を、わたし/たちの耳は、わたし/たちの言葉として、聴き取ることは出来ない。しかし、人の言葉を超え、二人は確かに愛を語り合い触れ合い抱擁し互いの孤独を分かち合う。水の中、抱き合う二人の、怖ろしいまでの美しさ!〈映画的なるものたち〉のギレルモ・デル・トロ監督による放蕩的散乱に、観る者は眩暈に襲われてしまうだろう。映画は序破急を超え、幾つかの迂回と逡巡の後、暗闇の硝煙の中、急激にカタストロフィに向かい転げ始める。

結末は、自分の目で確かめて欲しい。21世紀の映画造形職人・ギレルモ・デル・トロ監督の〈辺境の者たち〉への深く広い愛に満ちた、映像のマエストロの熟練の技が炸裂する、御伽噺的映像絵巻物、心ゆくまで、ご堪能あれ!

No.12/『ナミビアの砂漠山中瑶子監督/2024/あるいは、〈映画〉という物語が敗北した後、〈映画的なるものたち〉が、沸騰する、言葉が失われた砂漠/現代の日本/の中の、恋人たち。

物語に支えられた言葉が壊れ、言葉によって支えられていた物語が崩壊する.物語/言葉の残骸が地平線の彼方まで広がる、物語/言葉の廃墟(のような)現代の日本という場所。仮に、荒地/廃墟の中で、男と女が出会ったとしても愛の言葉を、交わす、愛の物語/ラブ・ストーリー、が、始まるはずもない。失われし言葉たち、失われし恋人たち、失われし愛の物語/ラブ・ストーリー

希望も絶望もない。荒地に残されたものは、破壊された物語/言葉の破片、継ぎ接ぎの言葉しかない。しかし、恋人たちは狂おしいほどに言葉を求める。身体という檻に囚われた魂を救済するためには、言葉が必要不可欠だから。しかし、それでも、そうだから、だからこそ、恋人たちは獰猛な動物たちのように唸り合い罵り合い絡み合い傷付け合う。愛を確かめるように、激しく.

映画という物語が敗北した後の、廃墟のような世界に出現した『ナミビアの砂漠』という愛の物語/ラブ・ストーリー。〈映画的なるものたち〉が、言葉が失われた現代の日本/砂漠の中の、恋人たちを、目撃し、記録し、描写し、スクリーンの中で、沸騰しのたうち回る。映画も物語も言葉も壊れた後、〈映画的なるものたち〉以外に、恋人たちを救い出すことは誰も出来ない。

No.13//.『ドア・イン・ザ・フロア/The Door in the Floor/』(トッド・ウィリアムズ監督/原作:ジョン・アーヴィング/2005年)、あるいは、透明な哀しみ、揺れ動く小説家の家族の肖像、そして、小説家の存在の形式について。

小説家の家には壁のいたるところに家族の写真が掲げられている。しかし、それは取り戻すことが出来ない過去の家族の写真たち。“無慈悲な暴力”が奪ってしまった、二度と取り返せない家族の肖像。欠落を抱えたまま漂流する家族の方舟。物語は方舟に訪れることになったひとりの青年の到着から始まる。挿入されるエピソードの幾つかは、凡庸であることを必要条件とされているかのように、凡庸そのままのかたちで物語を彩る。特別な事柄は何も起こらない。特別な事柄は何もない。それが海を漂流している波に揺れ動く、透明な哀しみに満ちた方舟であることを除いて。さらに、家族の肖像には欠けた部分があることを除いて。そして、小説家の家族であることを除いて。

映画の最後の最後のショットで、映画が大きく激しく回転する。或る意味に於いて、唐突であり、別の意味に於いて、当然の帰結である最後の最後のショット。ショットによって、「『ドア・イン・ザ・フロア/The Door in the Floor/』という映画が、何を描写した映画であるのか?」という問いへの返事の内容が、はじめて開示されることになる。返事は、「漂流する小説家の家族の方舟の記録であり、小説家の存在の形式について、の映画」となる。

揺れ動く方舟の中心にいた者のひとりが小説家である、ということ。世界にはいついかなる場合も暴力の影が存在している、ということ。小説家は暴力の影と密約を交わした“親しき友人”であり、向こう側へ通じるドアを開け、入る者、ということ。事柄が交錯し収斂のために最後の最後のショットへと向かう。小説家の存在の形式が、顕示され、世界の構造/仕組み、が現れる。

No.14/『コンパートメントNo.6/ Hytti Nro 6』(ユホ・クオスマネン監督/2021年)あるいは.シンプルで、スウィートな、愛の物語/ラブ・ストーリー、and、物語は終わりから始まる。

何方かが損なわれ失われることないラブ・ストーリーは現在ではもはや不可能なのかもしれない、とわたしは思っていた。〈喪失と回復〉の物語という構造以外持ち得ない現在のラブ・ストーリー。愛の物語/ラブ・ストーリーがいつの間にか〈喪失と回復〉の物語へと変容して行く。共感と感動を求めて.

でも、『コンパートメントNo.6/ Hytti Nro 6』は、そうじゃない。ラブ・ストーリーを〈喪失と回復〉の物語の構造に変化させるために、掴まえようとするその手を、擦り抜け、わたしたちを愛の始まりの物語へと連れて行く。

偶然に長い旅路を列車のコンパートメントで過ごすことになってしまった男と女、晴れやかな空はなく、凍て付いた暗い平原を延々と移動する小さな空間の中の二人、特別な事柄は何も起こらない、何ひとつ劇的な事柄はない。哀しみもある。痛みもある。苦さもある。ダークでさえある。しかし、映画は、何度か繰り返し愛の物語/ラブ・ストーリーの常套句を肩透かし的に避けた後、逡巡と疾走の中、終わりの終わりに、大きな回転が待ち受けている。

ラスト・シーンを以てして、ファンタジーと揶揄することは容易い。確かにファンタジーかもしれない。だが、それは愛がいかなるものであるのか知らない者の嘆きでしかない、と、わたしは思う。愛とは共有された幻想/ファンタジー以外の何ものでもない。ファンタジーが持つシンプルの強さと弱さが分からない者たちには、愛することの意味を、分かち合うことは出来ない。

映画はラスト・シーンによって一旦閉じられる。しかし、二人の物語は終わってはいない。映画の終わりから、二人の新しい物語が始まることになる。

『コンパートメントNo.6/ Hytti Nro 6』は、愛の物語/ラブ・ストーリーが、共感と感動を強要され、〈喪失と回復〉の物語へと変容して行かざるを得ない、現在の中、忽然と現れた解説の不要な、シンプルでスウィートなラブ・ストーリー。晴れやかなる〈映画的なるものたち〉の歓びに存分に浸れば、明日もしかして、わたし/たちのラブ・ストーリーが、はじまるかもしれない

No.15//『スモーク/Smoke』(ウェイン・ワン監督、原作:ポール・オースター/1995年)、あるいは、都市の中の迷路/迷路の中の都市/の中、大人のための(甘くない)ファンタジー。

〈通り過ぎてゆくものたち〉の行き交う場所が、都市/街と呼ばれ、フィクションのような本当の話と本当の話のようなフィクションが、都市の中の迷路/迷路の中の都市/の中で入り交じり、何かしらの罪を背負うしかない大人たちが、ひとときの幻影/夢をスモークのように観る。幾つもの“偶然の音楽”が、奏でられ、散在する〈通り過ぎてゆくものたち〉の孤独の中、希望と絶望が黒と白と灰色の斑文様の混濁した、ひとつながりの何かを織り成して行く。

ハーヴェイ・カイテルウィリアム・ハートフォレスト・ウィテカー、の三人、原作の本、『オーギー・レンのクリスマス・ストーリー』及び、脚本はポール・オースター感傷を排した乾いたトーンで描写された、特別な出来事は何もない、豪奢な俳優陣だが、小振りな作品、でも、映画を観た後、観た者たちの中に残る響きは、限りなく透明で美しく、少しだけ、哀しい。

〈映画的なるものたち〉が、ささやくように静かに語り掛ける、わたし/たち〈通り過ぎてゆくものたち〉へ、送り届ける小さなプレゼント。都市の中の迷路の、大人のために大人が作った大人へ向けた(甘くない)ファンタジー.

No.16//.                『小説家を見つけたら/Finding Forrester』 (ガス・ヴァン・サント監督 //.2000年)、 あるいは,〈通り過ぎてゆく//.辺境のものたち〉の遭遇の、始まりと終わり、『日没』と序文。

世界の中で、無数の〈通り過ぎてゆくものたち〉が擦れ違っている。毎日のように、そこかしこで。しかし、何かのまちがい、何かの悪戯、何かの偶然で擦れ違うはずであった〈通り過ぎてゆくものたち〉が出逢う時が存在する.ガス・ヴァン・サント監督の、『小説家を見つけたら/Finding Forrester/』は、遭遇の始まりから終わりの一部始終をやさしく繊細に鮮明に描写する。

『小説家を見つけたら/Finding Forrester/』の中の三つの事柄。

互いに〈通り過ぎてゆくものたち〉であるはずの者たちが、遭遇するという奇跡的な事柄の始まりと終わり、そして、遭遇が互いの生の時間に決定的な意味を与えるという事柄、さらに、〈通り過ぎてゆくものたち〉の二人が、〈辺境の者たち〉であるという事柄。三つの事柄が絡み合う、美しい時間。

ガス・ヴァン・サント監督の〈辺境の者たち〉へ向ける眼差しの深いやさしさ、しかし、あるのはやさしさだけではない。ガス・ヴァン・サント監督の映画作法の洗練と鮮烈に、映画を観る者たちは映画の歓びに包まれ、至福の時間に酔い浸る。だが、映画の歓びの奥には、〈辺境の者たち〉を辺境へと追放する現在という時間に対する、彼の静かなる激情が潜んでいる。ガス・ヴァン・サント自身もまた追放された〈辺境の者たち〉の、ひとりなのだ。

映画は終わりに向かい、流麗なカメラワークが、小説『日没』、その序文、を。エンディングロールのやさしさに満ちた映像がはじまり、わたし/たちは暗闇の中、〈通り過ぎてゆくものたち〉の空白を受け入れ、ひかりの方へ。

No.17『テルマ/Thelma/ヨアキム・トリアー監督/2017年)、あるいは、部分が全体を飲み込んでしまう存在.//.〈現在進行形の映画作法〉の、結果のひとつ。

時々、部分が全体を飲み込んでしまっている存在に出会うことがある。部分と部分の接合したものが、全体であり、全体の内部の中に、部分があるはずなのに、その存在に於いては、部分/細部が全体を凌駕し、部分/細部が全体を従え、物語/映画を形成している時間と空間の構造を、「全体の中の部分」から「部分の中の全体」に転倒させ、〈倒錯的構造〉へと変貌させてしまう.

『テルマ/Thelma/』はそうした部分が全体を飲み込んでしまっている存在のひとつ。図書館での発作、病院での検査、湖の上の小舟での燃焼、等々、無数の精密に鮮明に描写される不穏なシークエンスの圧倒的な映像の美しさが『テルマ/Thelma/』という映画を飲み込んで行く。シークエンスの異様な美しさが突出し、前後の文脈から切り離され、物語の全体的な構造と進行形を超え映画の全体を支配し、〈映画的なるものたち〉として、叫び声を上げる.

『テルマ/Thelma/』の物語は「異形の者の覚醒の物語/記録」という、言わば、「古くて新しい物語/記録」であり、言い換えれば、「普遍的な物語/記録」であり、古典的でさえある。物語の基盤は安定し、物語の構造と進展は確固としたものである。しかし、部分が全体を飲み込んでしまっている存在のひとつである『テルマ/Thelma/』は、怪異性を帯びた不可解な映画として存在してしまうことに。「異形の者の覚醒の物語」を「倒錯的構造の異形の映画」が描き出すという二重の異形の事態に、映画を観る者たちは、理由の不明な緊張と怖れに包まれ、息を止めて事の成り行きを見守ることになる。

裏返せば、『テルマ/Thelma/』は、部分が突出してしまい、全体として統合することが出来なかった結果、とも言える。映画のラスト・シーンに、〈倒錯的構造〉を成す映画の時空の異形性を取り繕うような、何事もなかったかのような、あるいは、何かがこれからはじまるかのような、凡庸なショットを置いてしまった作法の弱さに、ヨアキム・トリアー監督の映画作法が現在進行形であることを、わたしは知らされる。『テルマ/Thelma/』は、ヨアキム・トリアー監督の進行中の映画作法の途上のひとつ、として存在している.

No.18//.『瞳をとじて/Close Your Eyes/』(ビクトル・エリセ監督/2023年)あるいは、創造者の終焉の時、物語/容器の中に,〈映画的なるものたち〉が、満ち溢れることはない。

巨大な何かがゆっくりと沈んで行く。静かに、波を立てることもなく。それはあってはならないことであり、これはきっと何かのまちがいなのだろうと何度もわたしはわたしに問い直す。しかし、何度、問い直してもそれはそこにその姿のまま厳然として存在している。観てはいけないものだったのかもしれない。だが、観ないでいることはわたしには不可能なことでしかない。わたしだけではないはずだ。ビクトル・エリセ監督の最新作が公開されるという容易には信じ難いニュースが、嘘ではないことに体が震え、あまりにも長い空白の時間を思いながら、公開の時を待ち望んだ者たちは、世界中に数え切れないほどいただろう。ビクトル・エリセ監督の最新作が公開される!

『瞳をとじて/Close Your Eyes/』の物語のありようの凡庸。凡庸さに肯定と否定を含めたあれこれの何かを言ってもほとんど意味はない。ビクトル・エリセがビクトル・エリセである理由は、そうしたことにあるわけではない。映画の中に挿入された物語は、ビクトル・エリセ監督の映画に於いて、〈映画的なるものたち〉が散逸してしまわないようにするための容器でしかない.

時間の中の光/ひかり/が、具象/抽象の形式を成して存在するという事柄、光/ひかりの中の時間が、具象/抽象の形式を成して存在するという事柄、二つの事柄が重ね合わせられて存在するという出来事/事象〈映画的なるものたち〉の結晶、として、ビクトル・エリセ監督の映画は存在する。〈映画的なるものたち〉が、時間の中で遊泳し、光/ひかりの中で、進行と遅延を繰り返す。

『瞳をとじて/Close Your Eyes/』の中、〈映画的なるものたち〉が姿を現すことはない。幾重にも折り込まれた、喪失と探索の入れ子構造を形成している『瞳をとじて/Close Your Eyes/』の物語/容器の中に、〈映画的なるものたち〉が満ち溢れることはない。丁寧に作られ決壊点へと進行する物語/容器しかし、中身は空白のまま、映画は終わりを迎える。映画の魔法が終わる。

『瞳をとじて/Close Your Eyes/』、ビクトル・エリセ監督という巨大な創造者の終焉の時、映画の魔法使いの終わりの時が到来する。映画の魔法がもう甦ることはない。わたし/たちは終焉を目撃し受け入れることしか出来ない。

No.19//.『リアリティのダンス/La danza de la realidad/』(アレハンドロ・ホドロフスキー監督/2013年)、あるいは、〈映画的なるものたち〉の祝祭、魂の彷徨の旅の果て、最も美しく, 最も切なく, 最も哀しい, ラスト・シーン。

人間が人間であることの根拠であり、根源であり、彷徨の宿命にあるもの、人間は〈魂を埋め込まれた泥人形〉として、魂の求めるまま、世界を漂流する。そうしなければ、目で観ることも耳で聴き取ることも出来ない、魂の姿かたちと声を、確かめることが出来ないのだから。無数の試練と困難が〈魂を埋め込まれた泥人形〉を襲い、呪われた運命は歯車を容赦なく回転させる.

父/王の帰還、父/王がその場所/妻であり母である女と子供のいる場所/に帰還する。長く熾烈な魂の彷徨の果てに、“欠損”の身体を抱えて。彷徨の果て、父は自身の魂のありようを知らされ、炎の中、王と決別し、古き場所からの出発へ向かう。さよなら、トコピ-ジャ、さよなら、愛しき、トコピ-ジャ.

『リアリティのダンス/La danza de la realidad/』のラスト・シーン、舟が行く。家族を乗せ、〈私〉を乗せ。あらゆる映画のあらゆるラスト・シーンに於いて、最も美しく、最も切なく、最も哀しい、ラスト・シーン、わたしはアレハンドロ・ホドロフスキーの言葉に泣き崩れる他なかった。わたしもまた彷徨の途上の者たちのひとりなのだ。〈映画的なるものたち〉の祝祭の中〈通り過ぎてゆくものたち〉を華麗なる音楽と色彩が横断し氾濫して行く.

No.20//.『アレクサンダー大王/Alexander the Great/』//.テオ・アンゲロプロス監督/1980年/.あるいは、〈映画的なるものたち〉が、物質化された時間となり、揺蕩う、秘儀は再び閉ざされ、映画は未だ未開の状態にある。

〈映画的なるものたち〉が、揺蕩う時間となって出現する。テオ・アンゲロプロス監督の映画を観るという事柄/行為は、映画を体験することであり、スクリーンの上の揺れる光と影を観る者は、映画の中に封印されている時間を生きることになる。テオ・アンゲロプロス監督の映画を体験した後、わたし/たちの身体には時間が堆積され、〈映画的なるものたち〉の相貌のひとつ、時間の地層が、身体に組み込まれて行く。テオ・アンゲロプロス監督の映画の前後に於いて、わたし/たちは、異なった生の時間の層を持つことになる。

映画の記憶なのか、それとも、わたし/たちの記憶なのか、それを問うことにあまり意味はない。わたし/たちの記憶の中に映画の記憶が存在し、映画の記憶の中にわたし/たちの記憶が存在する。テオ・アンゲロプロスによって、映画は生の時間として純粋に物質化され、映画を観る事柄/行為が、純粋に物質化した時間を、身体に挿入する事柄/行為へと変容された。記憶を生の時間の痕跡とすれば、映画の記憶とわたし/たちの記憶が互いに浸透し合うのは必然と言える。〈映画的なるものたち〉が、他の何かと交換することの出来ないわたし/たちの大切な記憶の部分へとなる。テオ・アンゲロプロス監督は、映画を物質化された時間の受け渡しの場と結構し、観る者たちは、揺蕩う物質化された時間である〈映画的なるものたち〉の中で、伴に揺れ動いて行く。

しかし、テオ・アンゲロプロス監督以後、彼の映画の継承者を、時間の純粋な物質化の技法を行使する者を、わたしは今も尚知らない。映画の秘儀は、再び閉ざされ、継承者の出現を待っている。映画は未だ未開の状態にある。

No.21//.                『アワーミュージック/Notre musique/』. //.(ジャン=リュック・ゴダール監督 //.2004)あるいは,〈映画/フィクション〉の中の、色彩の数は〈世界〉の中の、色彩の数、より多い。

色彩が世界に溢れ存在している。世界の中に、映画/フィクションが存在し、映画/フィクションの中に色彩が存在する。あるいは、映画/フィクションの中に、世界が存在し、世界の中に色彩が存在する。「世界の中の色彩」と、「映画/フィクションの中の色彩」、普通に単純に考えれば、映画/フィクションを内部に存在させている世界、世界の色彩の数の方が、世界を外部に存在させている映画/フィクション、映画/フィクションの中の色彩の数より、「色彩の数が多い」はずである。全体の色彩の数と、部分の色彩の数、部分が全体の部分であれば、論理の必然として、「全体の色彩の数は、部分の色彩の数より多い。」の話が結論となる。繰り返す。普通に単純に考えれば。

しかし、不可解なことに〈映画/フィクション〉と〈世界〉の交わった現実の事態は逆転している。「〈映画/フィクション〉の中の色彩の数は、〈世界〉の中の色彩の数より多い。」という、理解し難い、非/不合理な事態が平然と生じてしまっている。部分の中の事象の数が、全体の中の事象の数より多い.〈映画/フィクション〉の実存が現実を,世界の論理/仕組みを,超越して行く。

ジャン=リュック・ゴダール監督の映画が、世界の存在の論理/仕組みを破壊し超越して行き、〈映画/フィクション〉の実存を鮮烈に誇示する。〈映画/フィクション〉こそが、世界の中の色彩が誕生する震源地であり、そこから〈新しい色彩〉が常に世界に向けて零れ落ちている。世界は〈映画/フィクション〉から生み出され波及した色彩が漂着する場所でしかない。必然として〈映画/フィクション〉の中の色彩の数は、世界の中の色彩の数より多くなる

ジャン=リュック・ゴダール監督の映画の前と後、世界の色彩のありようが変貌する。ジャン=リュック・ゴダール監督が映画の実存のありようを変更し力を解き放った、結果、わたし/たちは、今も尚、ジャン=リュック・ゴダール監督の映画の中に、〈新しい色彩〉が湧き出す事件に遭遇し続けている.

No.22//.『ニーチェの馬/The Turin Horse/』(タル・ベーラ監督/2011年)、あるいは、〈映画的なるものたち〉/.ひかりのかたちをした,生の時間/の臓物、そして、21世紀の映画、西方より、来る。

タル・ベーラ監督が〈映画的なるものたち〉の腹部を切開し、臓器を取り出し、血の滴り落ちるその塊を整然とわたし/たちの前に陳列する。〈映画的なるものたち〉は光の側面ばかりではない。生の時間の断片として、存在する〈映画的なるものたち〉の必然と偶然の光/希望と闇/絶望、暴かれる闇が臓物の塊のかたちをしてごろんと横たわる。〈映画的なるものたち〉のほんの僅かな部分しか、わたし/たちが知り得ていないことを、タル・ベーラ監督が容赦なく白日の下に晒す。タル・ベーラとは、生の時間の血まみれの解剖学者なのだ。〈映画的なるものたち〉の未踏の領域が、わたし/たちの到着を、巨大な口を開け、体液を垂らしながら飲み込んでしまおうと待ち受けている.

わたしは『ニーチェの馬/The Turin Horse/』を観終えた後、息が止まり、暫く、身動きすることが出来なかった。簡単に言えば、わたしは“衝撃で、腰が抜けてしまい、言葉を失い、声もなく、「あわあわ」、と叫んでいた”という話。テリー・ギリアム監督の『未来世紀ブラジル』以来の出来事なり。再び映画を観て“腰が抜けて”呆然とすることになろうとは、全く、想像していなかった。“腰が抜けてしまう”映画、今時、そんな映画が存在し得ることなどあり得ない、と、信じられない方は自分の目で確かめて欲しい、と、わたしは思う。尚、わたしが言葉を失い「あわあわ」と叫んだ中身は次のこと.

〈21世紀の映画、西方より、来る。〉

No.23//.                『スリー・ビルボード  //.. Three Billboards Outside Ebbing, Missouri/』(マーティン・マクドナー監督/2017年)、あるいは、二本足で歩いている、人の姿をした、哀しき獣たち、「さあ、殺される前に、皆殺し/.戦争/.の準備/.を、始めよう!」

『スリー・ビルボード/Three Billboards Outside Ebbing, Missouri/』は、事の終わりが事の始まりであることを示す。「これは単に始まりでしかない。」連鎖というものがいつどのようにして生まれ出るのかを表す、と言い換えてもいい。救いのない暗澹たる様に、わたしは慄く他なかった。正義を行うことが、復讐/報復の連鎖へと変容して行く。避け難く。人が人として誕生した時から、わたし/たちは変容に対抗するために〈法〉と〈歴史〉という概念/思想を考え出し錬成して来た。変容を変容のままにすれば、やがて巨大な暴力の波となり、究極的に、皆殺し/戦争/へと進化せざるを得ないからだ.

〈法〉は、正義を行うことを、罪と罰の言語体系へ組み込み書き換え、共同体の司る制度/構造として作用させ、正義の行使に秩序を付与した。〈歴史〉は、出来事の記憶を出来事の記録へと変換させ、怨恨が共同体、及び、個人の中で無秩序に無制限に肥大化することを阻止した。わたし/たちは正義を行うことを、〈法〉と〈歴史〉の枠組みを用意することで、皆殺し/戦争という怪物に変身することを回避しようとして来た。無数の失敗と悔恨の血と涙の果てに。しかし、〈法〉が〈法〉として、〈歴史〉が〈歴史〉として、空洞化し機能せず、〈法〉と〈歴史〉の枠組みが建前だけの見せ掛けだけの書割と等しいものとなれば、世界の何もかもが野蛮な混沌の中へ溶解して行く。

『スリー・ビルボード/Three Billboards Outside Ebbing, Missouri/』の舞台は現代のアメリカだが、描かれる何もかもが、弱肉強食の未開のジャングルの様相を帯びている。現代のジャングル。獰猛な獣たちが人の姿をして、二本足で歩いている。人間のような振りをして。〈法〉と〈歴史〉の空疎が哀しき獣たちを生み、哀しき獣たちが〈法〉と〈歴史〉を、さらに空疎なものへと壊して行く。血と涙の結実を棄て、文明以前の野蛮へと退行して行く.

問いは存在したまま残っている。哀しき獣たちを前に、わたし/たちは、尚も〈法〉と〈歴史〉を掲げることが出来るのか?さらに、神も仏もいない世界〈法〉と〈歴史〉がわたし/たちに突き付ける、極限の問い、「許されざる者たちを、わたしたちは許すことが出来るか?」に答えることが出来るのか?

『スリー・ビルボード/Three Billboards Outside Ebbing, Missouri/』は嘲るように、終わる。問いなど無駄なこと、何の意味もない、問う者も問いに答えようとする者も、さあ、殺される前に、皆殺し/戦争/の準備/.を始めよう.

No.24//.                『ワン・バトル・アフター・アナザー.. /.  //.  One Battle After Anothe/』(ポール・トーマス・アンダーソン監督 /.2025年)、あるいは、〈映画的なるものたち〉よ、〈途方もないものたち〉を招喚し、物語の欠片が撒き散らされたわれらの〈“糞(のような)”出鱈目な世界〉を生き延びる道を教え賜え。

〈“糞(のような)”出鱈目〉が、世界を跋扈し、気が付いたら、世界は、〈“糞(のような)”出鱈目〉の残骸に埋め尽くされていた。悪夢を観ているのかと、顔を冷たい水で激しく洗っても一向に目が覚めない。いやいや、違う違うそんなはずがない、と首を激しく振り、テレビのニュースを見ると、〈“糞(のような)”出鱈目〉が登場して、笑顔で、〈“糞(のような)”出鱈目〉をあたかも本当の現実であるかのように平然と嘘をついていた。いやいや、違う違うそんなはずがない、と頭を何度も叩き、新聞を広げて見ると、〈“糞(のような)”出鱈目〉が登場して、真剣な顔で、〈“糞(のような)”出鱈目〉をあたかも未来の現実であるかのように平然と嘘をついていた。いつの間にか〈病的な嘘つきたち〉と〈狂った夜郎自大たち〉に世界は支配され、現実が変更されてしまった。わたし/たちは悪夢を観ているのではない!

一年中、天気と地震と熊と火事と交通事故と殺人のニュースの洪水が襲い、溺れ、存在しないかの如く扱われる、他の重要な事柄。秘密にされ覆い隠されているのではない。何度も何度も延々と執拗に繰り返される、天気のニュースの洪水の中に、沈められている。しかし、沈んでいるからといって事態は決して眠っているのではない。着々と事態は冷酷に進行し、わたし/たちは既に切り立った崖の先端の場所へ導かれてしまっている。眠っている時以外スマートフォンの中に顔を埋めた誰もが気にはしない。スマートフォンの中の自分が観たい世界と天気のニュースの洪水しか、彼ら・彼女らには存在しない。あと少し、少しだけ、踏み出せば、崖から落下してしまうとしても。

デジャブ!全く同じ光景を、何処かで観た記憶がある。そう。崖に追い詰められ、みんなで一緒に無言で崖から落下して行ったこと。生々しい記憶がわたし/たちの身体の中に刻まれ残っている。なのに、なのに、なぜ?わたし/たちは再び崖の先端に導かれてしまったのだ?〈病的な嘘つきたち〉と〈狂った夜郎自大たち〉のため、なのか?違う!そうじゃない!〈病的な嘘つきたち〉と〈狂った夜郎自大たち〉を先頭にして道案内をさせたのは、他ならぬ、わたし/たち自身なんだ。崖の切っ先の場所を求めたのは、わたし/たち.わたし/たちが、わたし/たちを、集団自決するかのように追い詰めている。あきらめてしまったのか? 未来を、いいのか? 本当に、未来を失って!!

『ワン・バトル・アフター・アナザー/One Battle After Another/』が、映画としてフィクションとして、現実の世界に降臨する。スクリーンから飛び出し、希望と絶望に彩られた黒と白と灰色の混濁した、デジャブの中の〈“糞(のような)”出鱈目〉にまみれた、わたし/たちの世界に、一撃を与える。

誰もあきらめていない。誰も決してあきらめない。誰もが、泥まみれ血まみれ涙まみれに、無様にジタバタと転げ回り、未来を奪回しようと足掻き藻掻く。全然、スマートじゃない!しかし、しかし、無様が〈映画的なるものたち〉へと変身し、〈途方もないものたち〉を呼び寄せ、ありえないことがありえること、へと変容し、〈“糞(のような)”出鱈目〉を蹴散らして行く。

『ワン・バトル・アフター・アナザー/One Battle After Another/』、出演は、レオナルド・ディカプリオショーン・ペンベニチオ・デル・トロチェイス・インフィニティ、等々、登場人物たちのみんながみんな、素敵!007(ダブルオーセブン)級、凄く凄く凄く、限りなくカッコいいんだ!!

/.One Battle After Another./ワン・バトル・アフター・アナザー/〈映画的なるものたち〉よ、〈途方もないものたち〉を招喚し、物語の欠片が撒き散らされた、われらの〈“糞(のような)”出鱈目な世界〉を、悉く殲滅し、われらの生き延びる道を教え賜え!

あとがき/01/.子供たちが殺されている。わたしは、絶対に、許さない。

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子供たちが殺され続けている。何度も何度も繰り返し。如何なる意味に於いても、正当な理由は存在しない。繰り返す、如何なる意味に於いても。百万歩,譲って、仮りに、結果には大人の正当な理由があるとしよう。よろしい。では、問う。あなたは、大人の正当な理由があれば、子供を殺すことが許される、と言っているのか?誰かが、あなたの子供を殺すことが、大人の正当な理由があれば、許される、と言っているのか?大人の正当な理由によってあなたの子供が殺されることを受け入れよ、と、わたしに言っているのか?爆撃がもたらした乾いた粉塵の渦が舞うコンクリートの残骸の丘を爪を剥がしながら掻き分け、わたしの、あるいは、あなたの、血に溺れた子供たちの身体の破片を見つけ出す、という事柄を、あなたは、わたしに、向かって、受け入れよ、と言っているのか?子供たちの破片を抱きしめた、わたしに。
 
受け入れない。断じて受け入れない。決して大人の正当な理由を受け入れない。許されない。如何なる意味に於いても、そんなことに正当な理由は存在しない。大人の理由、であろうがなかろうが、絶対に、わたしは許さない。

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あとがき/2/〈“糞(のような)”出鱈目な世界〉の中の、わたし。

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しかし、わたし/たちが生きている現実の姿が、そうしたものであるとすればわたし/たちの世界は本当に〈“糞(のような)”出鱈目な世界〉でしかない。正しい大人の理由によって、大人たちが子供たちを殺し、人と人が殺し合う〈“糞(のような)”出鱈目な世界〉。世界は、いつから出鱈目な糞まみれの世界に変貌してしまったのか?百年も経過していない、ほんの少し前、第二次世界大戦、燃え上がる炎の中、何百万、何千万の死骸の連なる山々が噴き出す、血と肉と金属とコンクリートの燃焼する匂いの混ざった黒い煙に包まれ、目を背けても背けても、前後左右の至るところ、がそうであり、背けることの出来ない、残虐な炎と煙の光景を、目の当たりにしたはずが、なぜ?

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何度、同じ誤りを、繰り返せば気が付くのか?何故、歴史を学ばないのか?
 酒を飲み、一晩過ぎると、何もかも忘れる、わたし/たちは、バカなのか?
 バカは、わたし、わたしたち、であり、当然の帰結が、現在の世界の姿?

munax/05/hwtrxeg/1653/bfk/15b63/856/e/r83h

あとがき/03/.わたしは何もできない。無力な、わたしは、世界を変更することが出来ない。

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わたしは、わたしの無力に激しく怒り、体を震わせ、俯く。わたしは何もできない。瞳から涙が次々と零れ落ち、足許の乾いた白いコンクリートの地面が濡れ、灰色になる。でも、そんなことをしても、何も変わらない。そんなことをしても、わたしの無力が無力でなくなるわけではない。そんなことをしても、何も世界は変更されない。そんなことをしても、世界の中、子供たちが大人によって殺され続け、延々と人と人が殺し合う。何も新しいことは起きない。何も変更されない。〈“糞(のような)”出鱈目な世界〉は、皆殺しの歌を合唱し、さらに、糞を飲み込み、糞まみれに出鱈目に成って行く。

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 あとがき/04/.〈映画的なるものたち〉が、〈“糞(のような)”出鱈目な世界〉のわたし/たちに〈途方もないものたち〉を遭遇させる。

時が到来する。〈映画的なるものたち〉が、わたしの眼の前に出現して、〈“糞(のような)”出鱈目な世界〉の中、わたしの頬を叩く、強く、強く、

糞の中に沈殿して、糞まみれになって甘美な眠りを貪っているんじゃない!
自身の、無力さ、非力さ、糞さに、酩酊するな!涙をぬぐい、起き上がれ!

とでも言うかのように。〈映画的なるものたち〉とは、スクリーンの中の映画のことではない。それは、生の時間/空間の断片/組立て/であり、世界の出来事の欠片である。スクリーンの中の映画の内部から、あるいは、スクリーンの中の映画の外部から湧出する、光/ひかり/であり、音響/音楽である〈映画的なるものたち〉が、わたし/たちの世界に顕れ、わたし/たちの身体を、激しく揺り動かす。 顔を上げろ!前を向いて、動け!止まるな!疾走しろ!

しかし、わたしの身体を揺さぶる、〈映画的なるものたち〉という、ささやかな呼ばれ方をするものたちの、真の役割/機能は、わたし/たちを〈途方もないものたち〉と遭遇させることにある。決して、感動のために存在しない.

あとがき/05/.わたし/たち人類の生命の歴史のページを〈途方もないものたち〉が、めくる。

〈途方もないものたち〉とは、宇宙を開闢させ、世界を根源的に変更させる最初にして最後、アルファにしてオメガ、物質から生命へ生命から知性へ、跳躍を生成した何か、想像力の起源にして、想像力の臨界、知性の光と闇を統合するもの、芸術と哲学の、父にして母、子供たち、人間が人間的であることの根幹、現在へ奔流して来る未来からの無限の時間、生命の変転の閃光光であり闇、闇であり光、白にして黒、黒にして白、言葉ならざるものであり言葉、言葉とは、言葉ならざるものなり、以てして、言葉なるものなり。
 
わたし/たちは、〈映画的なるものたち〉が招喚する〈途方もないものたち〉によって、人類の生命の歴史のページをめくる。かくして、生命が流転し、

あとがき/6/〈“糞(のような)”出鱈目な世界〉の出鱈目を、〈映画的なるもの〉が、招喚する〈途方もないものたち〉は、決して許さない。

氾濫し浮遊する〈映画的なるものたち〉を捕獲し、わたしの身体の中に、わたしだけが所有する記憶として、言葉/論理ならざるものとして、一旦、仮固定する。わたしの身体の中の〈映画的なるものたち〉は、わたしだけが所有する記憶であることを理由として、それらは論理/言葉ならざるものである。
そして、仮固定した〈映画的なるものたち〉を他者と共有し、〈途方もないものたち〉の招喚の儀式を、決行するために、それに言葉/論理を付与する。

〈映画的なるものたち〉が招き寄せる〈途方もないものたち〉は、〈“糞(のような)”出鱈目な世界〉が内包する〈“糞(のような)”出鱈目〉を、絶対に許さない。糞は糞へ、出鱈目は出鱈目へ、と返還される時が到来する.

生命の閃光が、〈“糞(のような)”出鱈目な世界〉を、破壊し、人類の生命の歴史のページをめくる。真・善・美の彼方の自由へ向けて、生命の色彩が.

スクリーンの中の映画の内部から、あるいは、スクリーンの中の映画の外部から湧出する、生の時間/空間の断片/組立て/であり、世界の出来事の欠片である〈映画的なるものたち〉が出現し、わたし/たちの未来を切り開く。掴まえなければならない、救い出さなければならない。〈映画的なるものたち〉を。糞に溺れ、甘美な眠りに沈潜し、無力さに俯いて、涙を流す自分に酔うのはもう止めよう。スクリーンの中の映画の内部に、スクリーンの中の映画の外部に、〈映画的なるものたち〉を探し出し、耳を澄ませ、目を凝らせ!

あとがき/07/.「物語はもう必要ない。」の言葉のリフレインの中で、物語という制度/構造を,徹底的に擦り抜ける、反・非・/.制度/./構造/.の〈映画的なるものたち〉に、言葉を付与する。

「物語はもう必要ない.」という言葉のリフレインの中で、〈映画的なるものたち〉を巡る、わたしの思考の、〈バロック/歪んだ真珠〉的な、〈アラベスク/arabesque/幾何学文様/唐草文様〉が、〈別の仕方/仕様〉で、〈遊牧民/ノマド/nomad/〉的に、〈遊泳の技法〉として、書かれた。物語という制度/構造へと建築されることを徹底的に擦り抜けようとする、反・非・制度/構造の〈映画的なるものたち〉。それらに言葉/論理を付与することは、或る意味、矛盾した不可能な行為なのかもしれない。しかし、そうであったとしても、他者と、それらの重要な部分を共有するためには、それ以外の方法はない。 言葉とは、言葉ならざるもの、言葉を以てして、言葉ならざるものを呼ぶ。

物語の欠片が撒き散らされた世界の中で、〈遊泳の技法〉として、書かれたわたしの思考の〈バロック/歪んだ真珠〉的な〈アラベスク/arabesque/幾何学文様/唐草文様〉が、何を、読み手にもたらすのか、途上の中、書かれるべきことが書かれた、ここに至っては、もうそれは読み手に委ねるしかない。
 
さらに、映画から〈映画的なるものたち〉を解き放つ試みの、24の断章は、巨大な映画の記憶の切片でしかない。前後に、未踏の領域が騒めき揺れる。

あとがき/08/.〈通り過ぎてゆくものたち〉へ、 静謐の中、捧げる、花束/音楽のために。

終わりに、書き添えることを、忘れてはいけない事柄が、存在している。
 
数え切れない〈映画的なるものたち〉が、わたしの身体の中を流れている。 わたしの血は、〈映画的なるものたち〉で作られている、と言ってもいい。わたしの体を切れば、血が滴り落ち〈映画的なるものたち〉が零れ落ちる。そして、記憶とは〈通り過ぎてゆくものたち〉の事柄である。わたしの記憶は〈映画的なるものたち〉と伴にあり、わたしは〈映画的なるものたち〉によって救済された。そのことを思うと、歓びと痛みに、息が止まる。従ってわたしの思考の〈バロック/歪んだ真珠〉的な〈アラベスク/arabesque.//.幾何学文様/唐草文様〉は、生成され、記述され〈通り過ぎてゆくものたち〉.//.〈映画的なるものたち〉へ向けた、花束/音楽として、静謐に、捧げられた。

ありがとう、〈映画的なるものたち.//. 通り過ぎてゆくものたち〉                  ありがとう、


2026.6月//.夏の始まり、雷鳴の鳴り響く午後、花の名前が滅亡する前に、大きな風のひかりの音楽の、歌の、聴こえて来る、ほうへ、〈了〉

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