『哀れなるものたち』アラスター グレイ (著), 高橋 和久 (翻訳) 映画は原作小説全体の三分の一のみ。原作の、映画で扱っていない部分について主に紹介、感想を書いた。ネタバレ満載。「抱きしめることと戦争を防ぐこと」を自分の責任として考え生きた主人公後半生について。
『哀れなるものたち』
(ハヤカワepi文庫 ク 7-1 epi111) 文庫 – 2023/9/26
アラスター グレイ (著), 高橋 和久 (翻訳)
Amazon内容紹介
19世紀末、グラスゴー。異端の科学者バクスターは驚異の手術に成功する。身投げした女性に胎児の脳を移植して蘇生させたのだ。その女性――成熟した肉体と無垢な精神をもつベラは、バクスターの友人マッキャンドルスら男たちを惹きつける。彼らの思いをよそに、ベラは旧弊な街を飛び出し、旅するなかで急速な成長をとげる。そのとき、彼女が知った真実とは? 知的な仕掛けと奇想によって甦るゴシック小説の傑作。映画化原作
ここから僕の感想
この前、『フランケンシュタイン』の感想文でも書いたが、読んだ経緯は
①昨年のアカデミー賞三部門を獲得した映画『哀れなるものたち』を、Amazonプライム配信で観た。
②映画と原作小説を比較しながら非常に深い分析をしている評論をnoteに発見!
《『哀れなるものたち』 大胆な翻案、もっと大胆な原作》
うまみゃんタイムズさん
このnote、非常に面白かったが、小説原作を読まないとなんのことだかわからないことも多数あった。ので、即、小説を読もうかなと思ったのだが、
③いや、その前にちょっと本作と関係しそうな小説『フランケンシュタイン』シェリー著、未読だったので、まずそっちを読んだ。
④というわけで、いよいよ、原作小説の『哀れなるものたち』にとりかかったのである。
映画と原作の相違点や、そのことからの深い論考は上で紹介した、うまみゃんタイムズさんnoteを読んでいただければと思う。
原作小説と映画の違いの最大POINTは
この小説、映画と異なり、複雑な構成になっている。
小説は、書いた人や時期の異なる三つの文書からなる。もちろん全部、作者の創作である。芥川龍之介の『藪の中』(黒澤明の映画『羅生門』の原作)のように、「夫と妻の言い分が異なる、どちらが真実かは分からない」という類の「信用できない語り手」小説である。
夫の言い分文書(夫による回顧自伝自費出版本)と、それをほぼ全面的に否定する妻の手紙。ん?これだけだと二部構成。いやいや、三部目は、そのふたつの文書を入手しそれらをまとめて本にしようとしているアラスター・グレイ氏による「批評的歴史的な註」という註が巻末についている。のだが、これが初めのうちは真面目に「註」をつけているのだが、だんだん脱線して、ふたつの文書が書かれた以降の、妻の後半生の評伝のようになっていくのである。著者と同名のアラスター・グレイさんが註を書いているのだが、この部分も創作でありフィクションの一部であるという、「メタ小説的仕掛けの註」である。凝った仕掛けになっているのだな。
⓪映画に描かれた事件は1881~4年に起きており、
①夫マッキャンドルスの言い分視点でその事件を回顧する自費出版本が1909年に出版され、
②妻ベラにより、夫の死(1911年)の後に、その夫の本の内容を真っ向から否定する手紙が1914年に書かれ、(未来の、存在するかどうかわからない孫かひ孫、1974年に生きている子孫に向けて書かれている。)
③その古い文書を手に入れた「アラスター・グレイ」氏が註を書いて、映画には描かれていない妻ベラの人生全体を語る。書いているのは現代・現在。
という本なのだな。ざっくり言うと。(序文に、そういう構成の本だよ、ということが軽くまとめられている。)
で、映画は?
一方、映画はその文書のうちのひとつ、夫の書いた自伝回顧自費出版本に基づいて再構成されている。⓪の1881~1884年の出来ごとを、①の夫の回顧自費出版本の内容をベースに、映画にしやすいように人物や出来事や場所を変更して2時間でまとまるようにしている。①ともいろいろ別物である。
そのために、映画だけ見ると、ものすごく波乱万丈ではあるが、基本メッセージとしては(表面的には)筋の通った、理解しやすいものになっている。上記Amazon内容紹介も、映画と共通する部分のさわりのみを書いてある。
映画について、Amazon内容紹介と被るけれど、もう一回ざっくりまとめると、
自殺したところを天才医師に蘇生され、新生児の脳と成熟した大人の肉体を持つことになった若く美しい女性ベラ・バクスターが、大冒険の末に、この世界の仕組みや問題点や愛と性について、女性のおかれた境遇について、素直な心と大胆な行動力と、急激に発達していく知性でもって学びかつ大胆に行動し、成長自立していく物語なのである。「性」についてもすごくたくさんの比率が割かれていて、そこで当然、男性から所有されたり、モノ扱いされたりする女性の性、という問題もたくさん描かれるが、社会的にも哲学的にも「女性の自立、世界認識と行動、成長」についてたくさん多面的に描かれる。政治的哲学的寓話としてメッセージは明解に思える。ので、フェミニズム映画の傑作、という賞賛のされ方をするのも納得、の内容である。
のだが、原作小説と比較すると、深読みすればこの映画の「小説からの刈込み方」自体がかなり監督の深い意図があり、それほど単純ではないぞ、ということを実に詳細に論じたのが、うまみゃんタイムズさんのnoteである。実に興味深く論じられているのである。
僕は映画については「話題作をときどき見る」くらいの門外漢なので、映画との比較、というのを主眼に論じるのは差し控えようと思う。うまみゃんタイムズさんのnoteがあるのに、書いてもかっこ悪くなるだけである。
ので、小説を読みながら、僕がこれまでいろいろな他の世界文学、世界の小説を読みながら考えてきたテーマと関わる部分について、ふたつの視点で、ちょっと長くなるけれど論じていきたいと思います。
ひとつは「アングロ・サクソンの世界支配」における、スコットランドの立ち位置、それを日本人として読むこと。
もうひとつは「戦争をするということ、戦争をしない国になるにはどうしたらいいのか」ということ、そのことを主人公ベラはどういうふうに考え、行動し、生きたのかについて。
映画のほうの主要な評価が「いかに女性が男性の支配抑圧から自立して生きるか、それを寓話的に描いた」フェミニズム映画だ。だから、その原作も、フェミニズム的文学だろう、と予想して読むと、そうとも言えるが、それを超えてはみ出している。
変な言い方だが「男性のことを敵、女性を支配抑圧する敵と考え、その男性価値観の社会の支配構造を抉り出し、批判し、そこから女性を解放したり自立させたりすることがフェミニズム」とすれば、この小説はそこにはとどまらないと思うのだな。
しかし「世界を支配し、世界に不平等や不幸をまき散らし、それを戦争によって駆動してしまう男性性や男性原理」というもの全体を批判しどう乗り越えようと生きるか、がフェミニズムなのだと考えれば、これはたしかにまさにフェミニズム小説であると思う。男性原理によって不幸になっているのは、女性ではなくて人類全体だろう、というスタンスでこの小説は書かれている。
上と下の違いは男性性・男性的支配原理を乗り越えることが「女性の解放・女性の幸福」を目指しているのか「人類の幸福」を目指しているのか、もちろんそのふたつは重なりを持つのだが、主人公ベラ・バクスターは、「人類の幸福」を目指すほうに重心を置いた思想と行動の人であると思うのだな。
この前読んだ、『善と悪のパラドックス ーヒトの進化と〈自己家畜化〉の歴史』 リチャード・ランガム (著)で書かれた、類人猿から人類、人類の中でもホモサピエンスの攻撃性の進化が、ひとつは戦争をするという特性、もうひとつは家父長制(男性集団による支配)へとつながっているという分析、これと重なることを、ベラという女性の考えたこと生きた生き方、それを三つの視点で書かれた異なる文書で追いかけながら、考えていけそうなのである。という目論見でここから書いていこうと思います。
映画における男性登場人物の「善」と「悪」のかなり単純明快な設定について
「幼児の脳と大人の肉体を持つ」ことになる、自殺したベラに赤ん坊の脳を移植するその手術をした天才外科医がゴッドウィン・バクスター。その若い弟子の医者がアーチボルト・マッキャンドルスである。マッキャンドルスがベラと結婚し、回顧本を自費出版することになる。
映画では、ベラを誘惑して駆け落ちさせる女たらし弁護士弁護士ダンカン・ウェダバーンと、サラが自殺する前に結婚していた夫、サー・オーブリー・ブレシントン将軍は、女性をモノのように扱う、男の愚かさと悪を煮詰めたようなかなり分かりやすい「悪役」敵役を演じてくれる。(ダンカンはやや男性の愚かさについては愛すべき人物とも描かれているように思われるが)。
一方、ベラを見守り育てる父性愛のゴッドウィンと、女性としてベラを尊敬し愛するマッキャンドルスは、男性ではあるが善人として、「善悪の対比」は分かりやすく描かれているのである。
のだが、小説は上記のような三文書構成になっており、それぞれの文書で各人物の描かれ方は大きく異なり、その善悪は定かではなくなっている。ゴッドウィンが「父性愛」だけだったのかどうかの描き方も違うし、マッキャンドルスの弱さ、凡庸さへのベラの見方も辛辣そのものである。一方、弁護士ウェダバーンもずいぶんよい所もいろいろある人物に思われてくる。
映画版では、世界の残酷さについて、アレクサンドリアのホテルの下にいる、貧しい赤ん坊や子供たちと、ホテルにいる自分たち豪華客船の客たちの間の差をベラに見せて教えるのは、客船で知り合ったイギリスの上流婦人の友人、黒人青年のアストレーということになっている。
原作では、このハリー・アストレー青年は白人、アングロサクソンのイギリス商人である。
ベラに世界の仕組みの残酷さを教えるのは、小説ではイギリスの白人青年ハリー・アストレーと、米国人中年男性、宗教啓蒙活動家のドクター・マレーの二人なのである。
多様性の時代だからと言って、映画においてアストレーを黒人にしてしまうと、原作小説で語られる「アングロサクソンの世界支配の残酷さ」というポイントが、見えなくなってしまう。
アングロサクソンの世界支配を、イギリスがまず行い、それをアメリカが引き継いでいく。スコットランド人は、イングランドに支配されたもともとはケルト系の国である。イギリスの中に一緒にいれば、その他の世界を支配する豊かな支配者側にいられるが、歴史的な経緯や立場を考えれば、自立していない、自由のない被支配者として、イングランド、アングロサクソンの支配下にある。
ベラ、女性が男性に従属している状態とスコットランドの状態は重なる。貧しい人たちから見れば、豊かな側の一員であるという認識、でも自立していない無力な状態。このことへの気づきがベラの精神を深く傷つけ、成長の大きなきっかけになるのである。
大英帝国内の一員ではあるが支配されているということへの気づきというテーマで、マリオバルガスリョサの『ケルト人の夢』の感想文をかつて書いた。あの主人公、ケースメントはアイルランド人であり、アイルランドとスコットランドでは立ち位置もまた違うわけだが、「アングロサクソンの世界支配構造の残酷さに気づく」ということが、大英帝国内の非アングロサクソン起源の人たちにショックと成長を促す構造は共通である。
? アングロサクソンの傲慢さ、ここでは日本にも言及してくれちゃっているので、長いけれど、引用しようと思う。
「今日の朝食の席でミセス・ウェダバーンは、世界は昔のひどい時代と比べて、今は格段によくなっているとおっしゃった。その通りです。なぜか。ミセス・ウェダバーンやわたし、そしてミスター・アストレーがその一員であるアングロ・サクソン人が世界をコントロールしはじめたからです。われわれアングロ・サクソン人は、この世に存在したさまざまな民族のなかで、最も頭がよく、最も心が優しく、最も進取の気性に富み、最も深くキリスト教を信じ、最も勤勉で、最も自由で、最も民主的な考えを持った民族なのです。身に備わった他の民族より優れた長所をわれわれは自慢すべきではない。それは神の思し召しなのです。神が他の誰よりも大きな頭脳をわれわれにお与えくださったのは、自らの悪しき動物的な本能を容易に制御するためです。ですからそれは、中国人、ヒンズー人、黒人、アメリカ・インディアンと比べて言うと―――いや、ラテン民族やユダヤ人と比べてさえ―――われわれは、学校なるものが存在していることを知りたがらない子どもたちの遊ぶ運動場にいる教師のような存在だ、ということを意味します。子どものかれらに教えることこそがわれらの義務。どうしてか、お話しましょう。
子どもたちや子どもっぽい人たちは、何の監督も受けずに自分たちだけになると、いちばん強いものが他のものを打ち負かし、むごい仕打ちをします。中国では裁判による拷問が街頭沿いの娯楽になっているし、夫に先立たれたヒンズー人の妻は夫の死体の隣で焼き殺されます。黒人は人間同士が食い合う。アラブ人やユダヤ人は幼児の陰部にとても口にできないような処置を施します。おしゃべり好きなフランス人は血なまぐさい革命に熱中する。呑気なイタリア人は人殺しも厭わない秘密結社に平気で加わるし、スペイン人の異端審問を知らぬものはいない。人種的にはわれわれにいちばん近いドイツ人でさえ、野蛮なまでに暴力的な交響曲やサーベルによる決闘が好きというありさま。神はそうしたものすべてをやめさせるよう、アングロ・サクソン人をお創りになった。そしてわれわれはその仕事をするのです。
ですが、人々の改善が一朝一夕に、世界中のすべての地域で、可能なわけではありません。劣等民族の横暴な支配者たちは、われわれがかれらの首をすげ替えるのをおとなしく黙って見てはいない。ですからかれらに思慮分別を教えこむには、まずかれらを痛めつけなくてはならないのです。アングロ・サクソンの誇るライフルや機関銃や甲鉄の軍艦や卓越した軍紀のおかげで、いつでも連中を間違いなく痛めつけることができます。しかし大西洋の西で、もう一つの、より広大なアングロ・サクソン国家が自分の力を実感しはじめ、手足を伸ばし始めている―――合衆国です!二〇世紀が終わる前には、合衆国が地球の残りの地域を支配するようになる。それを疑う人はいないのではないか。あなたは疑問だとお考えかな、アストレー?」
「あなたの予言どおりになる可能性は十分あるでしょう」ミスター・アストレーは慎重に答えた、「もし属国の人々がわれわれから何も学ばないのだとしたら、です。でも、日本人は小粒ながら頭のいい生徒であるように見えますし、ドイツの工業力は英国を追い越しかねないほどです」
「あなた方はプロシアの問題を片付け、ニッポン人はわたしたちに任せること。何しろわたしたちの学校で生徒が先制になることはありえないのでね―――かれらの小さな頭蓋のせいで、それは無理な話。たしかにドイツ人の頭蓋骨があなたやわたしに匹敵するということは認めてもいい。だが、柔軟性に欠ける。わたしの言いたいことは次のようになことです、ミセス・ウェダバーン・世界が最終的に文明化されるまでに、あと一世紀は戦いが続くでしょう。しかしその戦いは戦争行為として理解されるべきではない。英国がエジプトを侵略するとき―――合衆国がメキシコやキューバに乗り込むとき―――それはその地の原住民の治安を維持し、原住民を教化しているのであって、原住民を傷つけているのではないのです。そう、アングロ・サクソンの警察力が世界から横暴な支配者を一掃するのには一世紀ほどかかるかもしれない。しかしわれわれはそれをやりとげます。西暦二〇〇〇年までには、中国の陶工も、インド人の真珠取りも、ペルシャ人の絨毯職人も、ユダヤ人の仕立て屋も、イタリア人のオペラ歌手も、みんながみんな、ようやく安心して自分たちの仕事を思う存分追求できるようになるでしょう。アングロ・サクソンの法によってついに、従順なる人々が地球の相続者となれる時代が来るのですから」
こうした話をした上で、アストレーとドクター・フッカーはベラをアレクサンドリアのホテル、その前の現地人の悲惨さと客船・ホテルの客たちとの落差、世界の残酷さを見せに連れて行くのである。
そして大ショックを受けたベラがアストレーの手にかみついく。数日間放心状態となった後、アストレーからマルサスの『人口論』やダーウィンの『種の起源』やウィンウッドの『人間の苦難』、その他世界の仕組み問題点からその対処法の有力なものいくつか、共産主義、社会主義。平和主義、平和的アナキスト、それぞれとその違い、そういうことを学んでいくのである。映画では軽く「社会主義者」になった姿が描かれているが、原作小説ではそこを深く掘り下げた部分が存在するのである。
スコットランド人からみた世界政治の問題を扱っているのだ。ベラはイギリスに支配されるスコットランド人をある意味象徴していて、イギリスの一部となることで世界全体から見ると豊かな生活を享受している。しかし、支配され差別され無力なものとして扱われている。その構造をつきつけられる、というのがアレキサンドリアのシーンの小説内における位置づけなのだな。
第三部、「批評的歴史的な註」におけるベラの後半生。「抱きしめる」ことと「戦争をとめる」思想の展開――『愛の経済――国家間および階級間の戦いに終止符を打つための母親の処方箋』
結婚後、ベラは医師として産婦人科のクリニックを経営するだけでなく、フェビアン協会というイギリスの社会主義思想の運動に傾倒したうえで、さらに独自の活動家となっていくのである。
特に、第一次大戦で、三人の息子のうち二人が兵士として参戦して戦死してしまうことに大きな衝撃を受けてしまう。そこからさらに独自の思想を深めていき、1920年に『愛の経済—国家間および階級間の戦いに終止符を打つための母親の処方箋』という小冊子を自費出版する。これを英国中の労働組合幹部に送ったりするが、全然相手にされない。この小冊子については、序文の要約と、あとは批判記事が引用される。批判記事から、その小冊子の主張を想像する、というつくりになっている。このあたりについての、第三部から、これまた少し長くなるが引用する。
「ベラ・バクスターは後半生、ヴィクトリアと名乗って過ごした。」「1890年、グラスゴー大学で医学博士の学位をえている。同じ年1890年、カウカデンズ近くのドビーズ・ローンで〈ゴドウィン・バクスター産婦人科クリニック〉を開いた。これは完全な慈善団体で、彼女は自ら訓練した地元の女性たち数人という小スタッフでこれを運営した」「1892年から1898年の間に、ドクター・ヴィクトリアは二年おきに三人の子どもをもうけた。」「フェビアン協会は1899年に彼女の著した公衆衛生に関する小冊子を発行している。」「子供たち全員が初等教育で(ゲームとして学べる段階で)基本的な看護について学び、中等教育で基本的な医学の訓練を受けるようになることが彼女の願いだった。」「1900年以降は婦人参政権運動の活動家になった。」
「1914年にはじまった戦争によって大きな衝撃を受け、結局その衝撃から立ち直ることはなかった。彼女は労働者がストライキを打つことによって、その戦争を終らせることを願ったが、下の息子ふたりが開戦とほぼ同時に軍隊に加わり、ほどなくしてソンムの戦いで戦死した。彼女はフェビアン協会が「犯罪的な大虐殺を生温い態度で容認する」のが我慢できず、教会から袂を分かち、戦争に反対したケア・ハーディ、ジミー・マクストン、ジョン・マクレーンをはじめとするクライズデイル社会主義同盟の人々(及びスコットランドの自治を主張する人々)とともに演壇に立つようになった。帝国統計局のデスクから戦争勝利に向けての努力を手助けする長男のバクスターとも喧嘩別れしている。」
「皮肉なことにバクスター・マッキャンドルは子供をもうけることなく。1919年に二十七歳の若さで没した。」
第一次世界大戦で二人の息子、その後戦争ではないが長男も子供を残さず死んでしまい、ベラは一人ぼっちになってしまったのだな。
当時は多くの人がそうだったのだが、彼女もまた、世界で最も豊かな国―――最も工業化が進んでいるが故に最も文明が進んでいるのだと自負している国――が、どうして歴史上、他に類のない大規模で残酷な戦争を行ったのかについて、執拗に、そして必死に考え抜いた。彼女が頭を悩ませたのは、ひとりひとりを取り出してみれば殺生を好むわけではなく、また愚かでもない男たち(彼女は自分の息子たちのことをかんがえるのだった)が何百万人も、自らの死を厭わず相手を殺せという自殺行為すら強要するような政府の命令に、なぜ唯々諾々と従ったのか、ということだった。人間の中の動物の部分は狂気の伝染性の流行に簡単に冒されやすいものだ、というトルストイの見解を彼女は受け入れる。ロシアを征服したところで自国が豊かになるはずもなかったにもかかわらず、何千というフランス兵がナポレオンに率いられてその北の地まで遠征し、そこで死んだのがいい例だというわけである。しかしながら医者である彼女は、流行病なら原因が発見されれば蔓延を阻止できる、ということを知っていた。過密地域で暮らし、働く人々の間では、個体数が過密になった生物の場合と同じで、好戦的な態度が広がりやすいということは、彼女も理解していた。しかし第一次世界大戦における戦死者の少なくとも四分の一は、広い家で暮らしていた裕福な人々であり、しかも戦場の大虐殺を命令し、指揮したものは、ほとんど全員がこの階級の人間なのだった。彼女の出した結論はこうである―――第一次世界大戦は、英国が歴史上、フランス、スペイン、オランダ、フランス、アメリカ合衆国、フランスと次々に相手を変えて行った戦争と同じく、国家的及び商業上の競合関係がきっかにはなったが、この戦争に従事し、戦争を支持した男たちは「自殺行為に等しい服従病という流行性の病気」に負けてしまったのであり、その原因は、母親と父親が養育の過程で、子どもである彼らの大部分に、自分たちの命は無価値なものであるという信念を、徹底して植えつけたことにあるのではないか。
という考え抜いた結果を、ベラは『愛の経済――国家間および階級間の戦いに終止符を打つための母親の処方箋』という小冊子にまとるめる。その冊子の序文が以下である。註で「要約を交えつつ引用」したのが下のもの
自分の肉体の尊厳を知る男であれば、裸で列に並び、服を着た別の男に性器を検査されるなどということに耐えられるだろうか?自分の精神の尊厳を知る男であれば、そんなことをして金をもうけるなどということに耐えられるだろうか?ところが医学検査は人殺しという宗教に入信するための先例式にすぎない。この宗教において最高の兵士とは自らの肉体を感受性皆無の機械、しかも自分で動かす機械ではなく遠隔操作される機械であるとみなす人間のことである。わたしの下の息子ふたりは喜んでそうした機械になり、自分たちの肉体がめった切りにされ、叩き潰されて泥と化すのに甘んじた。長男は肉体ではなく精神をそうした戦争機械に組みこんだ。彼も弟たちと同様、自己軽視の犠牲者である。と今わたしは思う。けれども生まれてから十年間、この息子たちは三人とも清潔で広い家に暮らし、愛情深く、教育も冒険心もある親を手本として、その親の庇護のもとで仕込まれた。わたしは急進的な社会主義者だったし(今もそうである)、夫は自由党の支持者だった。息子たちは全員、平和を愛する専門職業人としてスコットランドの公僕となる準備をしていた。そうして、人間に優しい現代の智恵を最大限利用し、二〇世紀の大きな課題と目される問題に取り組むため―――誰もが居心地のいい清潔な家に住み、役に立つ仕事をすることで十分な賃金をもらえるような英国をつくるため―――努力するはずだった。それなのに宣戦布告がなされると、わたしの三人の息子はたちどころに狐狩りに精を出すイングランドの保守主義者の子どもと同じ行動に出た。わたしがこれをよくない行動であると考えていることを百も承知のうえで。なぜ彼らはこれが正しい選択だと感じたのだろうか?人間性というものが、あるいは人間の雄というものが本来抱えている堕落性に答えを求めたくない。また、彼らが学校で学ぶ軍国主義的な歴史のせいにすることもできない。なぜなら、そうした教育の悪影響は家庭における彼らの読書と教育によって間違いなく中和されたからである。結局、その理由はわたし自身に求めざるをえない。生まれて六年から七年の間は、わたしがあの子どもたちに対する絶対的な支配権を持っていた。何しろ、お金はふんだんにあり、優しい夫がいたのだから。けれどもわたしは彼らに、一九一四年から一八年にかけての戦争の本質である自己卑下という流行病に対する抵抗力となる自尊心を与えなかった。どうしてそれができなかったのか?自分自身にその病の根を見つけ出すことができないなら。わたしは他の人たちに対して無用の存在にすぎない。しかし、わたしはそれを発見したのだ。以下をお読みいただきたい。
で、それ以降の小冊子内容は引用されていないのだが、それを読んだ人の感想意見が書かれた手紙や書評などが引用される。そこからその内容を想像することができる。
「マルサスとD・H・ロレンスとマリー・スノーブルの思想をつまみ食いしただけの狂気じみたごった煮です。第一次大戦を止められなかった責任は自分にあって、それは、子どもを産みすぎて、十分“抱きしめて”やることができなかったから、というのですから。それで彼女は労働者階級の親たちに、将来の軍隊を縮小させるために、子どもはひとりだけにしようと呼びかけています。そして、その親たちは一人っ子とベッドを共にすることによって、その子に自分がかけがえのない存在であると実感して欲しいというのです。そのベッドで子どもは実例を通じて愛の行為や受胎調節についてすべてを学ぶことになると言っています。子どもはそうすることによって、(彼女の考えでは)、エディプス・コンプレックスやペニス羨望をはじめ、ドクター・フロイトによって発見されたか発明されたもろもろの病とは無縁のまま成長し、兄弟姉妹と喧嘩する代わりに、隣の子どもと夫婦ごっこをして遊ぶことができるというわけです。今の彼女は完全にセックス狂――昔の言葉を使うなら色情狂―――で」「“抱きしめる”というのは愛の行為を表す彼女の用語ですし、姦淫は“ウェディング”と呼ばれています。」
おお、『愛の経済』からの引用もあった
しかしまた『愛の経済』は、商品化された避妊具の使用は不健康であると述べて、受胎調節の唱道者たちをも困らせた。ドクター・ヴィクトリアは次のように記している―――
市販の避妊用具は使用者の意識を性器に固定させてしまい、その結果、抱きしめることがおろそかになる。優しく抱きしめる行為はミルクと同じようなもので、誕生してから死ぬまで、抱きしめる、抱きしめられることによってわれわれは健康を増進することができ、また必ず健康が増進するはずである。ふたりが一体となるウェディングは抱きしめるという行為の粋―――(もしわれわれが幸運であれば)人生の半ばにおける主たる喜び――ではあるが、優しく抱きしめる行為と異なるものではない。ところが、われわれの学ぶ教えはすべて―――残念ながらあのよきマリー・ストープスの教えでさえも――それをめったに手に入らない商取引の対象として分離し、宣伝することによって、それを抱きしめる行為とは別のものに変えてしまっている。抱きしめられたことのない男は性愛を恐れるか、ガラスを破って高価な陳列品をさっとかっさらう強盗行為と同じようなものだと考えてしまうのである。
結局、どうも、こどもを一人に限定するのに、避妊具は使わないということで、彼女は「シーツを挟んだセックス」というのをこの小冊子では推奨しているようだが、そこはよく分からない。『愛の経済――国家間および階級間の戦いに終止符を打つための母親の処方箋』というのは、母が一人息子を抱きしめることで、子どもが自尊心を、自分が大切だということを高めることで、自尊心の欠如によって起きる自らを戦争機械の一部にしてしまうという戦争の原因である病を防ごう、という考え方なのである。新聞記事もそのことを理解したようでデイリーエクスプレスの記事が引用される。
母親っ子と呼ばれる男の子がどんな子であるかは誰もが知っている――めめしくてちっぽけななよなよ男で、誰からも誉められたいが、自分を守るためにすら、相手に一撃をくらわす度胸もないような輩である。もしドクター・ヴィッグの主張がまかり通れば、英国中の少年は全員が、まさしくそうしためそめそとぐずってばかりいる意気地なしになってしまうだろう。
1923年に新聞記者からインタビューを受けた際にこうも書いている。
彼が尋ねる――これまでの人生で。悔やんでも悔やみきれないことはあるか・彼女は答える。
「第一次世界大戦」
彼が質問の意味はそうではない、という。質問は、自分個人が原因となって起きたことで悔やんでいることはあるか、という意味だと説明する。彼女は答える、
「あるわ、第一次世界大戦」
(中略)彼が英国の若者にメッセージはないかと尋ねると、彼女はにこやかに笑って、もし五ポンドくれたらなら、自分の人生における素晴らしいことを簡潔に数語でまとめて答えるけれど、でも最初にお金が欲しい、と答える。彼は五ポンドを彼女に渡す。すると彼女は、すぐ隣に山と積んであったなかから、小さな堅表紙の『愛の経済』を一冊抜き出して手渡すと、さよならと言いながら、彼を送り出したのだった。
彼女は第二次世界大戦直後の1946年に亡くなるが、1945年に死を予感して、友人の詩人にあてた手紙の中でも
あなたがもしわたしの出版したものを読んだら(でも今生きている人で読んだ人などいるのかしら?)、もし『愛の経済』(それは一篇の詩として読まれるべきものなの、あなたの最悪の詩が一篇の論文として読まれるべきなのとちょうど逆に、ね)を読んだら、もし哀れに無視されたわたしの最高傑作をたとえ一節でも読んだなら、わたしが自分の体の働きを異常なほど熟知していることが分かるでしょう。不思議でもなんでもない、それを気づかせてくれたの人は天才だったのですから。
クリニックもどんどん小さくなって、近所の老人と、子どもたちの犬のお医者さん、みたいになって年老いて誰にも知られずに死んでいくのだが。この、不遇だが、独自の思想と信念で生きたベラの後半生の感動的な評伝へと「批評的歴史的な註」はいつのまにかなっていくのである。
ここで語られている、『愛の経済』その中での、「抱きしめること」と戦争をどうやったら予防できるのかの考え。
映画になった第一部というのは、この本の入り口であって、映画になっていない第二部と第三部で語られる、第一次世界大戦で息子たちをを失ったことから、それをどうやったら防げたのかを考え続け、それを広めようと行動した後半生というのが、この本には含まれているのだな。
僕は読書感想文でも映画の感想文でもセックスのことについてすごくこだわって書き続けているし、またその一方で、戦争をどう考えるか、戦争をどうしたらなくすことができるかということも、ずっと考えて色々なnoteを書き続けている。
そのふたつのことを、このアラスター・グレイという小説家も、ベラ・バクスターという架空の女性、女医さんの人生を通じて描いているわけである。
そしてもちろん、僕は、人生の間、ずっと抱きしめ合い(わたしたちの夫婦の言葉では「合体」というのだが)、そして、ベラ・バクスター同様に、老人になっても医者として人のために働き続ける女医である妻のことを考えながら、ずっと考えながらこの小説を読んでいたのである。役立たずのマッキャンドルスのように思われているかなあ、申し訳ないなあと思いながら。あるいは、たくさん子どもがいるために、ひとりひとりをしっかり抱きしめるそのことが、どんなに一生懸命やっても足りなかったのかなあというようなことも妻だったらこの小説を読んで考えてしまうよなあとか。
愛と性のこと、子ども子育てのこと、戦争のこと、そういうことが一人の人間の人生と頭の中で、どういうふうにつなげて考えられるか、どういうふうにつなげて物語にできるか。という壮大な試みとして、力作であった。小説にできることは、映画とは違うのである。
もちろん映画もすごく面白くて二回目は妻と一緒にAmazonプライム配信で自宅居間大画面テレビで観ていたら、パリ売春宿セックスシーンの途中で五番目男子26歳が帰ってきて、「お、失礼」ってなっておおおおおってなったが。でも息子ももう大人だから、全然大丈夫なのであった。映画を先に観てから小説を読んでみる、という順序がとっつきやすいように思われる。
