去年のアカデミー賞主演女優賞(エマ・ストーン)、美術賞、衣装デザイン賞の「哀れなるものたち」(原題Poor Things)を、アマプラ配信でいまさらながら観た。観ての感想文。
昨年のアカデミー賞、エマ・ストーンが主演女優賞取ったり、美術賞と衣装デザイン賞も取ってたなあ。見てなかったのでアマプラで観てみた。
お話はすごく面白かった。映像も美術もきれいだった。
filmarksの見た人たちのレヴューたくさんを読むと「良かったんだけど、セックスシーン多すぎて人にすすめづらい。」「セックスシーン多すぎつらい、無理」という人が結構いて、そうかあ、俺は解剖シーンとか手術シーンの方がダメだったと思った。人それぞれだな。
映画における「セックスシーン」の話を、ちょいとここ最近思っていることを、つらつら書いていく。
「セックスシーン」多すぎということで引いちゃうと、「人間にとっての(女性にとっての、男性にとっての)性」、これジェンダー(社会的性役割、それに対する批判的視点)の話(だけ)じゃなくて、「セックス」(行為自体や肉体、性器そのもの)と人間、セックスそのものと女性について、同じくらい重く扱っているわけだから、「そこは引いちゃだめだ」「そこで逃げると映画の本質、見損ねる」というタイプの映画だと思うのだがな。ていうか、そこで引いたら、映画の半分は意味をなさないだろ。セックスから逃げるな。という覚悟で見る映画でした。(エンドロール見れば、監督もそう思ってるはず)
いまどきの日本人、特に若いひとに多いように思うのだが、映画でセックスが描かれると「わー、エロだ、きもい、エロい、できればそんなの見たくない」ってなって思考停止になるみたいな人が多い感じがする。
アダルトビデオで「エロを見るぞ」というモードでなら大丈夫なのに、普通に「話題の映画だ」「アカデミー賞取ったし、素晴らしい作品らしい」「おしゃれな映画らしい」「政治的な問題を扱った真面目に見るべき作品だ」とか思って観に行ってセックスシーンがドカーンで出くると、そこをどう呑み込んでいいのか分からなくなって、映画評価するときにそこは語らない、スルーする、みたいなことが起きるよなあ。
邦画で言えば「福田村事件」、洋画では「オッペンハイマー」、どちらも、セックスシーンが超印象的で、そのことの意味がすごく重たい作品なのに、福田村事件を「関東大震災における朝鮮人虐殺問題と朝鮮人と間違われて虐殺された被差別の人たちを描く」だから真面目に見るぞ、オッペンハイマーは「原爆の開発者となった科学者の苦悩を描く映画で、そこで広島長崎はどう扱われているかを日本人はちゃんと批判的に検証しながらみないといけない」そういう気構えで見なければならないと気負い込んで観に行って、セックスシーンがドカーンと印象的に出て来てくると、見て見ぬふり、語らないふりをするわけだ。批評家によっては「性的シーンが多すぎ」なんてピント外れなことを言う人まで出てくる始末なんだよな。福田村事件の東出くんと田中麗奈、オッペンハイマーのフローレンス・ピュー。ものすごく印象的じゃんね。そのことを語らない人が多すぎだろう。
「福田村事件」については感想文noteに書いたけれど、あの事件が暴発する中で、閉鎖的な村の中での様々な人のいろんなタイプの性欲の鬱屈が火薬として充満してた、そのことはとても重要だったのにね。オッペンハイマーでも、聴聞を受ける密室で、幻想でフローレンス・ビュー演じる愛人が裸でオッペンハイマーにまたがる、その幻想を見るシーン、あの愛人との関係というのは、人間としてのオッペンハイマーを描くうえで極めて重要だから、あんな特殊な演出になっていたわけでさ。
純文学とか「人間の全体」を描こうとする純映画(なんて言葉はないが、映画において、純文学と対応するもの、ということで勝手に言葉を作った。芸術映画、というのとはちがうんだよな。ちゃんとエンタメでもある興行収入も狙っているけれど、人間や世界のまるごとをちゃんと描こうとしている映画、ということね)、純映画では当然「人間存在の全体」を描くから、セックスのことはたくさん描くのだよ。
この映画ゴールデン・グローブ章では「ミュージカル・コメディ」部門で主演女優賞と作品賞を受賞していて、全然ミュージカルではないから「コメディ」っていう分類になっているようなんだけれど、いやたしかにそうとう面白い、笑えるところもあるけれど、しかしなあ、ものすごく「純映画」として面白かったよ。
