【雑記】25年ぶりの日南学園VS横浜
甲子園での熱戦が続いています。しっかり観戦することはできなくても、テレビから聞こえてくるブラスバンドの演奏や、時折響く打球音と歓声が耳に入ると、まさに「日本の夏」の風情。夏の風物詩ですね。
さて、今日(14日)は、3試合目で宮崎県代表「日南学園」と神奈川県代表「横浜」が対戦します。大会屈指の長身右腕・織田翔希投手を筆頭に厚い投手陣に加え、強力打線の横浜高校に、日南学園が堅い守備を活かして対抗し1回戦の明徳義塾戦のように少ないチャンスを如何にしてものにするか。そういう試合なのかな、と素人ながらに思っているところです。
この対戦、ちょうど25年前、2001年の第83回選手権大会準々決勝以来の甲子園再戦のはず。強豪校同士なので、練習試合などはあっているかもしれませんし、何年か前のMRT招待高校野球(宮崎の方はわかると思います)でやっていたような気がしますが、甲子園では25年ぶり2回目のはずです。
なぜ、そんな話をするかと言うと、
実は私、25年前の両校対戦を甲子園で観ています。観ていますというより、スタンドで取材していました。当時私は、毎日新聞横浜支局所属の1年生記者でした。高校野球担当で神奈川県大会から取材し、全国最多(当時)の205校が参加する神奈川県大会を制した横浜高校に甲子園まで帯同し、横浜高校サイドで生涯忘れない暑い夏を過ごしていました。支局の記者なので、運動面の原稿を書くのではなく、社会面や地域面に横浜高校の記事を出すために同行しています。よってニュートラルな取材位置ではなく、監督やコーチ、選手、チーム関係者ととにかく親しくなって、横浜高校に「たっぷり思いを込めた」記事を書く日々を過ごしていたわけです。
さて、その当時の対戦相手、日南学園は、その後プロ野球で活躍する寺原隼人投手を擁していました。この甲子園の話題の一つは、宮崎県大会で球速150キロを記録していた寺原投手が、当時の高校生最速記録だった「151キロ」を超えるか否か。その「151キロ」は、3年前の夏の甲子園で横浜高校の松坂大輔投手と沖縄水産の新垣渚投手が記録していました。つまり「松坂越え」が注目されていたのです。そして、寺原投手は2回戦の玉野光南戦で154キロを記録し、高校最速記録を更新。この準々決勝の前には「さあ何キロまで出るのか!」というフェーズに入っていたのです。
高校野球ファンには言うまでもありませんが、松坂大輔投手は「横浜高校」。83回大会に出場している選手は、まさに3つ上の松坂世代による春夏連覇に憧れて横浜高校に入った選手たちなのです。選手たちは、表向きは特段関心ないような素振りを決め込んでいましたが、静かにメラメラと闘志が高まっていくのは確実に感じていました。親しくなっていた某主力選手に前日の練習後、「渡辺さん、宮崎出身でしたよね?僕たちを応援するんですよね?」と冷やかされ、答えに窮したのは懐かしい思い出です。
さて、25年前の結末は・・・・
試合は、4対2で横浜高校の勝利でした。序盤で横浜高校にリードされた日南学園は、中盤で1点ずつ2点を返し、振り出しに戻したものの、最終回に制球を乱して連続3四球を重ねて2死満塁に。ライト前への2点適時打で勝負がついた形でした。寺原投手は、初回に150キロを記録したものの、2回以降は直球の多くが130キロ台に落ち、球数も最終的には160球を超えるなど苦しい展開でした。試合後の報道では故障もあり、満身創痍の状態で奮闘していたことが伺えたことを今でもよく覚えています。
一方、横浜高校は、次の準決勝で日大三高(西東京)と事実上の決勝戦と言ってもいい激戦を演じ、残念ながら7対6で敗れました。その準決勝は日南学園戦で完投したエース・畠山太投手が連投の疲労と肘の不安で先発できず、2年生の福井投手が先発する形に。試合前に「先発できません」と少し俯きながら話した畠山投手の姿は鮮明に記憶に残っています。寺原投手にしろ、畠山投手にしろ、夏の闘いが如何に過酷かということを記者として実感した場面でした。
ちなみに、畠山投手は、とても純朴な性格で好感を持っていた選手の一人でした。卒業後は、日本大学から富士重工(スバル)に進み、都市対抗野球や日本選手権でも活躍。引退後もスバルでコーチを務めるなどアマチュア野球界で息長く活動していたはずです。懐かしい。
さて、今日の試合はどうなるでしょうね。楽しみです。日南学園高校の金川豪一郎監督は同い年。一方的に知っているだけですが、日南学園主将として甲子園に出場したのを覚えています。
さあ、地元・宮崎県と、新聞記者としてのスタートを切り、社会人になり、家族を持った大好きな街・横浜との試合。心の底から両校の健闘を祈っています。頑張ってくださいね。
