考えなくなったこと
韓国のカフェにいると、不思議と考えなくなることがある。
窓際の席に座り、湯気の立つコーヒーを眺めているだけなのに、いつも頭の中を占めていたものが、するりと遠ざかっていく。
最初はその感覚がよくわからなかった。
考えなくなったというより——考えなくていいと、誰かに許してもらえたような感覚、とでも言えばいいのだろうか。
日本にいた頃の私は、常に何かを考えていた。
次の予定。
返していない連絡。
あの時の言葉はこれで良かったのか。
まだ足りないのではないか。
それだけじゃない。
誰かと自分をいつも比べていた。
あの人はもっと上手くやっている。あの人はちゃんとしている。じゃあ、私は?
一日が終わる頃には、身体よりも頭のほうがずっと重かった。
頑張ることが、呼吸をするくらい当たり前のことだった。
立ち止まることは怠けること。
休むことは、負けること。
だから何もしない時間にも、どこかざわざわしていた。
罪悪感、とまでは言わないけれど、落ち着かなさがいつもそこにあった。
韓国で暮らし始めた頃も、その癖はなかなか抜けなかった。
カフェに入るとすぐスマートフォンを開く。
予定を確認する。
SNSを見る。
何か「有意義なこと」をしなければと、どこかで思っていた。
私はいつから、時間に意味を求めるようになったのだろう。
何かをしていないと、価値がないと感じるようになったのだろう。
考えてみれば、ずっとそうだった。
20代は必死に働いて、30代は子育てと仕事を両立して、40代はまた違う種類の「頑張り」があって。
気がついたら50代になっていた。
「そろそろ楽になってもいい頃じゃないか」
頭ではわかっている。
でも身体のほうが、まだやめ方を知らなかった。
カフェの窓から、朝の光が白い壁を照らしている。
路地をゆっくり歩く人の足音が聞こえる。
近くの席でコーヒーカップが静かに置かれる、小さな音がする。
それだけの時間だった。
でも、その時間が——とても、心地よかった。
胸の奥の、ずっと緊張していた何かが、少しほどけるような感覚。
こういうことか、と思った。
疲れていたんじゃない。
ずっと、緩め方を知らなかっただけなんだ、と。
50代になって、ようやく思う。
人生には、答えを出さなくていい時間が必要なのだと。
若い頃はいつも正解を探していた。
どんな働き方が正しいのか。
どんな生き方がいいのか。
どんな自分なら認められるのか。
でも年齢を重ねるうちに、少しずつわかってきた。
正解は一つじゃない。
それどころか——「正解かどうか」より、「自分が心地よくいられるかどうか」のほうが、ずっと大事なことかもしれない。
誰かの答えを生きても、心が満たされるとは限らない。
自分の「心地いい」に気づくことのほうが、何倍も難しくて、何倍も大切だと。
そして最近はカフェに入っても、以前ほどスマートフォンを見なくなった。
誰かと比べることも、少なくなった。
将来への不安がなくなったわけじゃない。
悩みが消えたわけでもない。
それでも——以前より、少し軽い。
考えすぎることをやめたから、だと思う。
すべてを解決しようとしなくなった。
すぐに答えを出そうとしなくなった。
「まだ足りない」という声が聞こえても、「そうかな」と、少しだけ疑えるようになった。
今はただ、コーヒーの香りを感じながら過ごす朝が好きだ。
窓から入る光を眺める時間が好きだ。
静かな路地を、あてもなく歩く時間が好きだ。
何かを得るためではなく、自分に戻るための時間。
そういう時間があるだけで、一日が少し穏やかになる。
韓国のカフェで考えなくなったこと。
それはきっと、
「もっと頑張らなければ」
という強迫と、
「今の自分では足りない」
という思い込み。
50歳になった今、ようやくわかる。
人生は、前へ進むためだけにあるんじゃない。
ときには立ち止まり、窓の外を眺める日があってもいい。
コーヒーが冷めるまで、何もしない朝があってもいい。
誰かの役に立たない時間も、誰かに見せない時間も、ちゃんと自分の一部だ。
そんな時間もまた、暮らしの大切な一部なのだと——
今日もまた、韓国の小さなカフェでコーヒーを飲みながら、そっと思う。
何かを考えるためではなく、
少しだけ考えるのをやめるために。
