書道の書き損じから考えた、子どもの表現と作品展―「これは何をつくったの?」と聞く前に
(English version available below via note's translation feature / translated text)
先日、浦堂認定こども園と、私が代表を務める任意団体「と和」とのコラボレーションで、展覧会『捨てられるはずだった紙の物語』を開催しました。
この展覧会は、「書道家にとって役目を終えた書き損じの和紙を、子どもたちの遊びの中にそっと置いたら、何が始まるだろう?」という、一つの小さな好奇心から始まりました。
書道家・紅楓先生と「紅月会」の皆さんからご提供いただいた、たくさんの書き損じの和紙。それを使って子どもたちに何か作品をつくらせようと考えたわけではありません。
何をつくるかも決めない。技法も教えない。ただ、子どもたちの日常の遊びの中に「素材」として置いてみる。そこから何が始まるのかを見てみたかったのです。
「何をつくる?」から始めない
和紙と出会った子どもたちは、それぞれの方法で関わり始めました。
破る。切る。つなげる。染める。縫う。そして、着る。
最初からゴールがあったわけではありません。
目の前にあるものに触れ、「こうしたらどうなるんだろう?」と試してみる。その行為が面白ければ、また繰り返す。
そうして一つの遊びが次の遊びにつながり、私たち大人が予想もしなかった表現へと変化していきました。

今回、私が改めて感じたのは、子どもの表現は必ずしも「何かをつくろう」という意図から始まるわけではない、ということです。
面白いからやってみる。
もう一度やってみる。
少し変えてみる。
その繰り返しの先に、結果として何かが残る。
私は、それを「遊びの痕跡」として捉えています。
そこに「文字」があったこと
ただし、今回子どもたちの前に置いたものを、単なる廃材として捉えるのは少し違います。そこには、すでに美しい草書体の文字が書かれていました。墨の濃淡、流れるような線、筆の勢い、かすれ、そして余白。
子どもたちは文字の意味を読んでいたわけではないでしょう。
けれど、その線や形、墨の黒、紙に残された余白から、何かを感じ取っていたのではないかと思います。
その上から色を重ねる。切る。つなぐ。染める。縫う。そうすると、書道家の表現と子どもの表現が重なり合い、どちらか一方だけでは生まれなかった独特の世界が現れてきました。

私はここに、子どもと和文化との出会い方の一つの可能性を感じています。書道を「教える」のではありません。
子どもと文化を出会わせてみる。そして、大人は少し離れたところから、子どもがそこに何を感じ、何を始めるのかを見ている。
文化との出会いとは、そんな形でもいいのではないでしょうか。
ホチキスは、紙を綴じるための道具?
今回、子どもたちが使ったのは和紙だけではありません。
ハサミ、セロテープ、ホチキス、針と糸など、さまざまな道具を使いました。
ここでも、子どもたちは大人が考える「正しい使い方」だけをしていたわけではありません。
例えばホチキス。
大人にとってホチキスは、書類や紙を綴じるための事務用品です。もちろん子どもたちも、紙と紙をつなぐために使います。
ところが、何かを綴じるわけでもなく、ただひたすら、
「カシャン、カシャン……」とホチキスを押し続ける子どももいました。
押したときの手応えが面白い。音が面白い。そして紙の上に、小さな金属の形が次々と現れていくことが面白い。
その行為を繰り返した結果、紙の上にはホチキスの針による不思議な線が残りました。見方を変えれば、これは「ホチキスによるドローイング」です。

大人が「これは紙を綴じる道具です」と用途を決めてしまえば、おそらく生まれなかった表現です。子どもは素材だけでなく、道具の意味まで自由に組み替えてしまうのです。
だから今回の展覧会では、ホチキスやセロテープのカッター台も、そのまま会場に展示しました。片付け忘れたわけではありません。
それらもまた、子どもたちの表現を生み出したものとして、展示の一部だと考えたからです。

「これは何をつくったんですか?」
もう一つ、印象的だったものがあります。
ちぎった和紙に針を刺し、糸を通し、また次の和紙を刺す。
それを何度も何度も繰り返した結果、何層にも重なった分厚い和紙の束ができていました。

これも最初から、「こういう作品をつくろう」と考えてできたものではありません。
針を刺すことが面白い。
糸を通すことが面白い。
紙と紙がつながっていくことが面白い。
だから、何度も繰り返した。
その結果として、そこに「和紙の束」が残ったのです。
こうしたものを展示していると、大人はつい、
「これは何をつくったんですか?」
と聞きたくなります。でも、その問いを聞きながら、私は少し違和感を覚えました。そもそも、子どもは「何か」をつくろうとしていたのでしょうか。
私たち大人は、作品を見ると「何を表しているのか」「何をつくったのか」「何という作品なのか」と、そこに意味や目的を求めたくなります。
けれど子どもの遊びでは、目的より先に行為があります。
面白いからやる。もう一度やる。何度もやっているうちに、何かが生まれる。だとすれば、最後に残った「モノ」だけを見て、「これは何?」と尋ねることは、その前にあった豊かな時間を見落としているのかもしれません。
「作品」だけでは、見えないもの
だから今回の展覧会では、子どもたちが残した「遊びの痕跡」とともに、その過程を伝えるラーニングポスター(ドキュメンテーション)も展示しました。

一つの表現が、どんな出会いから始まったのか。
子どもは何に興味を持ったのか。
何を試し、何を繰り返し、そこから遊びがどう変化していったのか。
最後に残ったものだけを見ても、それは分かりません。
例えば先ほどの「和紙の束」も、それだけを見れば不思議な造形物です。
しかし、そこに至るまでの子どもの行為や言葉、時間を知れば、見え方はまったく変わります。
だから私は、ドキュメンテーションも含めて「作品」なのではないかと思っています。
完成したモノと、そこに至るまでの子どもの思考や行為の物語。
その両方があって初めて、私たちは子どもの表現を立体的に見ることができるのではないでしょうか。
ただ、実際の会場では造形物の視覚的な力が強く、ドキュメンテーションが少し見にくくなってしまいました。
「遊びの痕跡」と「そこに至る物語」を、どうすれば同じ強さで伝えられるのか。次にこうした展示をするときには、さらに考えてみたいと思っています。
大人の都合で「美しく」しない
展示について、もう一つ大切にしたことがあります。
それは、大人の美意識で子どもの表現を編集しないことです。
例えば、大きな和紙の端の方に子どもが小さな絵を描いていたとします。
展示する側からすれば、その部分だけを切り取ったり、中央に配置したりした方が、「作品」としては美しく見えるかもしれません。
でも、その子は、その大きな紙の「そこ」に描いたのです。
なぜそこだったのかは、大人には分からないかもしれない。
けれど、その位置も、その周りにある余白も含めて、その子が素材と関わった痕跡です。
大人が「こちらの方がきれいだから」と勝手に編集してしまえば、子どもの表現を尊重しているようで、実は大人の美意識に合わせて「子どもの作品」をつくり直していることになります。
だから今回の展示では、できる限り、子どもたちが残した状態そのものを見てもらうことを大切にしました。
子どもの表現を尊重するということは、子どもが表現している時間だけの話ではありません。
それを大人がどう受け取り、どう記録し、どう展示するのか。そこまで一貫して初めて、「子どもの表現を尊重する」と言えるのではないかと思うのです。
では、「作品展」とは何だろう?
今回の展覧会を終えて、改めて考えています。
子どもの「作品」とは、いったい何なのでしょう。
何かをつくろうと考え、完成させたモノだけが作品なのでしょうか。
私は、そうではないと思っています。
素材と出会う。
心が動く。
触ってみる。
試してみる。
失敗する。
もう一度やってみる。
面白くなって繰り返す。
そこから、また別の遊びが始まる。
そして、その時間の中に子どもの思考や感情があり、結果として何らかの「痕跡」が残る。さらに、その目には見えない過程をドキュメンテーションによって可視化する。
そこまでを含めて、子どもの「作品」と呼んでもいいのではないでしょうか。そう考えると、「作品展」の意味も変わってきます。
上手にできたものを並べて見てもらう場所ではなく、
子どもが何に出会い、何を感じ、どう考え、どう遊び、どのように世界と関わったのかを伝える場所。
作品展とは、本来そんな場所であってもいいのではないかと思います。
問われているのは、大人の眼差しかもしれない
今回の展覧会には、たくさんの方に足を運んでいただきました。
子どもたちの表現をじっくり眺め、ドキュメンテーションを読みながら、その背景にある遊びについて話してくださる方もいました。
そして私自身、この展覧会を企画し、実際に展示してみたことで、改めて気づいたことがあります。
子どもは、大人が思っている以上に自由です。
紙の価値を変える。
道具の意味を変える。
「作品をつくる」という目的さえなく、遊びながら新しい表現を生み出していく。
だとすれば、問題は子どもが自由に表現できるかどうかだけではないのかもしれません。その自由な表現を受け取る私たち大人の側が、どれだけ自由でいられるのか。
「これは何をつくったの?」
「これは何の絵?」
「これは何に使うの?」
そうやって、大人の知っている世界へすぐに回収してしまわずに、その子が何を面白がっているのかを見てみる。
今回の展覧会で問われていたのは、子どもの表現力だけではなく、それを見る私たち大人の眼差しだったのかもしれません。
書道家にとって役目を終えた一枚の和紙から始まった、小さな実験。
そこから子どもたちが見せてくれたものは、私が想像していた以上に大きなものでした。
そして、「子どもの作品とは何か」「作品展とは何のためにあるのか」という問いは、今回の展覧会が終わった今も、私の中で続いています。
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