朝…目が覚めたら 第7話『55歳の私』編
それから1週間ほど入院したが検査結果も異常はなく、体力も回復したので退院となった。久々の我が家に無性にドキドキしたが記憶はなくても体は覚えているようで、部屋の雰囲気は違って見えても全く違和感なく体が馴染んだ。
変わったことと言えば、夫が家に着くなり温かいコーヒーを出してくれたことだ。私の入院中にたっくんと二人で家事をこなした賜物だろう。ダイニングテーブルの席に着き、コーヒーをすすりながらキッチンに立つ夫を見るとなぜだか涙が溢れてきた。
「な・なんや? どうしたんや? どこか痛いんか?」
ギョッとした顔で慌てふためく夫。
「ううん……違う。なんだかわからないけど涙が出てきただけ」
滅多に泣かない自分の涙に私自身も説明がつかない。
「ちょっと2階に上がってくるね」
2階に上がると、悠紀の部屋はすっきりと片付けられ、男児の部屋も仕切りが取り除かれ高校生になったたっくん……達也の勉強机とベッドだけになっていた。
入院中にお見舞いに来てくれた達也の成長した姿には戸惑ったが、中身はたっくんのままだった。
「お母さん『たっくん』はやめてよ……。中学から『達也』って呼ぶようにしてもらったんだよ……」
上背のある低い声の男子高校生にそう言われて『たっくん』呼びが恥ずかしいことに気付く。
あんなに小さかったたっくんが一瞬にして高校生になった。学生だった悠紀も智也も大人になってしまった。どんなふうに成長したんだろう……。
確かに共に歩んだ10年間があったのだ。でも私にだけその10年間がない。
結婚して妻になって母になって……誰よりも早く、朝目が覚めると変わらない毎日が始まる。
朝食を作り、弁当を作り、家族の健康観察をして見送る。洗濯をしてパートに行って買い物を済ませ帰宅すると、洗濯をたたみ夕飯の支度をしながら、子どもたちの宿題を見たり学校での話を聞いたりする。夕飯を食べたら片付けをして風呂を沸かし学校からのお便りに目を通す。
学校行事に参加し、役員に当たれば役をこなし、ママ友付き合いもある。子どもが病気になった時は、予定をリスケして看病もする。
思春期なると、心理的ケアや進学に向けてマネジメント家計のやりくりまでこなさなければならない。
母とは、経営・医療・マネジメント・保育・教育・心理・運営……家計も、看護も、相談も、育児も、メンタルケアもできる、『多能・万能の何でも屋』だ。
私は自分を多分野のスペシャリストだと誇りを持っていた。しんどく思うこともあったが、もともとが姉御肌で頼られることに喜びを感じる性格だった。それゆえ家族があってこそ私の多幸感は満たされるのだ。
でもその10年間が失われてしまった。子どもたちのその時々のキラキラした瞬間の記憶をいくつ失くしたのだろう。喪失感に駆られる。
達也が学校から帰ってきた。
「お母さん帰ってきた?」
「おお。今上に居てるわ」
キッチンで何やら作っている様子の夫と達也が話をしているのが聞こえてくる。涙を拭い階段を下りる。
「おかえり、たっくん」
「お母さん、たっくんはやめてって言ってるでしょ! ……どうしたん? 泣いてたの?」
「ううん。大丈夫。ちょっと感傷に浸ってただけ。……夕飯、作らなきゃね!」
「今日は俺がカレー作ってんで。お前は退院したばっかりなんやから、ちょっと休んどき」
「そうそう。お父さんと二人で一カ月やってきたんだから大丈夫。お母さんはゆっくりしてて」
本当なら夫と息子の気遣いに喜ぶべきところなのだろうけど、私の心はチクリと傷んだ。
「そうね……。じゃぁお願いしちゃおうかな……」
その日は夫が作ったカレーを三人で美味しく食べた。
何だか地に足がつかない感じがした。
***
日を追うごとに『55歳の自分』にも慣れ、パートにも復帰し、10年前とあまり変わらない日常がまた戻ってきた。
10年間の記憶はなくとも主婦のやることなんて決まっていて、支障もまるでなかった。急に年老いたことに不安はあったが、気持ちは45歳でも実際には55歳の日常は確かにあったわけで、体に負担があるわけでもなく、子ども達が自立し、達也と夫だけの生活となった『今』は以前よりも仕事量が半減し、むしろ楽に感じた。
今日は2025年12月17日第3水曜日。やはり変身はなかった。
あの5回の変身が夢だったなんて、いまだに信じられないぐらいリアルに感覚が残っている。でも家族にも由美子にも事細かに話したが、みんな苦笑したり私をなだめたりしただけだった。
「毎月第3水曜日になると変身するって?
なんだそりゃ! 松島菜々緒に変身した?
それは会うてみたかったわ!」
『まぁ……そうなるよね。そんなわけないよね』
意識がなくなっている時に、実際に子どもたちや由美子に起こったことが少し面白い物語になって表れたのね。子どもたちの進路も、由美子と雅人君の再会も実際にその通りだった。
みんな幸せな道を歩んでいるならそれでいい。
朝の家事が終わりぼんやりとしていると、悠紀と表示されたスマホが鳴った。
「お母さん? 体調はどう? 変わりはない?」
「うん、大丈夫よ。そっちはどう?」
「うん、私も変わりないよ! 来週からしばらく実家に帰れることになったから。年末年始は久々にみんなが揃うんでしょう?」
「うん。由美子も帰国するからみんなでクリスマスパーティーをしようか」
「いいね! 智也は?」
「智也も専門学校は休みに入るって。仕事はパソコン一つでどこででもできるらしくて、年明けまで実家に居るって」
***
12月23日㈫
クリスマスパーティーを前に悠紀と智也が帰ってきた。
「お母さん!」
悠紀が抱きついてきた。動画電話はよくしていたものの目を覚まして以来の再会だった。
「悠紀……心配かけてごめんね」
「ホントだよ! あのまま目を覚まさなかったらどうしようかと思った。本当に良かった……」
「うん……あれ? 悠紀? そのお腹?!」
「うん……そうなの。2月20日が予定日だよ」
悠紀のお腹には新しい命を宿していた。
ひとまずダイニングに移動し、お茶をいれて一息ついてから話の続きをした。
「事故の前には伝えていたんだけど記憶喪失になっちゃったから、落ち着くまで赤ちゃんのことは黙っておこう……ってことになったの」
「2月20日ってもうすぐじゃない。相手の人は……?」
「シンガポールに住んでいる日本人だよ」
「そうなの……。みんなは知っているの?」
「うん知ってる。本当に覚えてないんだね……」
ズキンと胸が痛む。
「去年の年末にみんなに紹介したんだよ。結婚式はしてないけどウェディングフォトは撮ったよ。今は二人でシンガポールと東京の二拠点生活をしてる。でも年明けには東京の家は引き払って、産前産後は実家に居ようと思うのだけど……ダメかな?」
「もちろんいいけど……。じゃぁ産後落ち着いたらシンガポールで家族で暮らすの?」
「うん、その予定だよ」
頭が追い付かないが、そうだと言うのならそういうことなのだろう。
『ええい!ままよ!
感傷に耽っている場合ではない!
新しい命が生まれるのだ!』
自分の頬をパチンと叩く。
「わかった! お母さんに任せときなさい! これから忙しくなるわね!」
この一件で何かが吹っ切れた。
『過去に気をとられている場合ではない!
大事な娘が出産し母になるのだ。
私がこの子たちをサポートしなきゃ!』
智也をそっちのけで話していたことに気付く。
「智也~! おかえり~。大人になったわね~!」
嫌がるのをわかっていてわざと抱きついてやる。
「ちょっ……おかん! 俺もう24。おかん俺のこと覚えてんのんか?」
「覚えてるわよ! 私の中では中学生のままだけど。見た目は一丁前に大人になってるじゃない?」
「中身も大人になっとるわ!」
家族で大笑いしながら思い出話に花が咲く。
覚えていないことばかりだったけれど、
そんな雑談も楽しめるほどに
私は普通に『55歳の私』だった。
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