《灯021》 ここでは、私は記者でも、部下でも、若い女の子でもなくて、ただのお客さん。
『日替わりランチ』 ( こえをきく人 B ➁ )
編集部を出て、少し歩いたところに、喫茶『瓦斯灯』がある。
派手な看板はない、昔からそこにあるという感じの店。
昼どきになると、近所の会社員や、年配の常連さんで、ほどよく埋まる。
私の唯一の楽しみは、ここでランチを食べること。
特に、ここの日替わりランチは1000円だけど、価値があると思う。
毎日、今日のメニューを聞いて、注文して、席に座って、しばらく何も考えない。
それだけの時間なのに、それだけのことが、編集部ではなかなかできない。
カウンターの向こうで働いている恵さんは、私にとって、少し特別な人。 上京してきた私にとって、恵さんは、お母さんみたいな存在だった。
特別なことを言ってくれるわけじゃない。
「大変だね」とか、「無理しすぎたらダメよ」とか…。
でも、それで十分。
編集部であったことを、全部話すわけじゃない。
半分くらいを、笑い話みたいにして話す。
恵さんは、それを否定しない。
「それ、ひかるちゃんが悪いわけじゃないよ」
それだけで、胸の奥に溜まっていたものが、少しだけほどける。
料理が運ばれてきて、恵さんとお話をしながら食べる。
湯気の立つ味噌汁と、少し濃いめの味付け。
この時間だけは、私は、まだ大丈夫だと思える。
ここでは、私は記者でも、部下でも、若い女の子でもなくて、
ただのお客さん。
食べ終えて、「ごちそうさまでした」と言う。
恵さんが、「またおいで」と返してくれる。
その言葉を背中に受けて、私はまた、編集部に戻る。
編集部のドアを開けた瞬間、空気が変わる。
編集長が、机の前に立って待っている。
いらいらしているのが、見るだけで分かる。
「おい」
名前があるのに、そう言われる。
「いいネタが入った」
「いつも正しそうな顔してるやつだ」
「こういうのが、一番危ない」
私の返事を待たずに、編集長は続ける。
「お前、行ってこい」
どこに行くのか、何を聞きに行くのか、その時点では、
まだ全部は分からない。
さっきまでの匂いも、味も、声も、遠ざかる。
私は鞄を持って、立ち上がる。
「行ってこい」…と言われたし。
