ジョージ・オーウェル『1984年』と主観の敗北

主人公ウィンストンの最期、という内容のファンタジー小説ながら、著者の現代社会考察の意図が大いに反映されている本。政治・社会への批判や憂いに留まらず、社会問題を感覚的に捉えることを可能にする稀有な本だと思う。

完成度の高い世界観と臨場感のある描写で有名だけども物語としても面白い。キャラクターを追うだけでストーリーがわかるような単純さがここではスキャンダル的な単純さでしかなく、主人公の話が世界観を補完するような物語としての収まりの良さもネガティブなクライマックスを引き立たせているだけだというように、わかりやすさがディストピア的価値観を加速させるという見方も惹きつけられる。

この本の考察としてよく全体主義国家のディストピアというテーマ設定がなされることが多いけども、小説が出版された当時と80年程経った今ではまた違ったテーマにて読めると思う。
個人的に重ねて読みたいテーマは「消費社会での主体性の敗北」だ。

小説の初めの方、主人公ウィンストンが必死でノートに暴言を書きつけるシーンがある。支離滅裂さにびっくりしてしまうけど、ウィンストンにとっては辛うじて残された誰にも干渉されない感情であり、ストーリーが展開する要でもあった。
エンディングでウィンストンは最終的に党員の言葉を完全に受け入れそこで物語も終わってしまうが、そこでは主人公が抵抗しつつも主観を失ってしまうまでの間と物語の展開の有無が常にリンクしていて、主人公の主観が持続しない限りストーリーは展開し得ないという物語の限界も同時に読み取れる。

主人公の主観が失われてしまうことで物語が展開を終えてしまうようなストーリーは他にもいくつかある。
サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』もそうだし、他はエヴァンゲリオンシリーズも主観の敗北が示唆されている。
どれもとてもセンセーショナルな作品だけど、書物の主観を強めるという前提を根底から覆すテーマが示唆されていることと無関係でないように思う。

『1984年』の著者オーウェルは”the Last Man”という採択されなかったもう一つのタイトル案を推していた話は有名だ。
そのタイトルでは世界観ではなく主人公の葛藤が主軸になること、また採択されたタイトルはセンセーショナルさを用いた商業目的においてのタイトルだと解釈されていることから、主観の敗北は物語や作者の意図ではなく世界観の結末であることが読み取れるし、またそのような解釈が一般的に採用されている。

若年層の主体性が失われていると言われているが、主体性の喪失は主観の敗北の一歩手前、もっと緩やかな作用に過ぎないと思う。
この作品でもう一つのタイトルが知られていることは安全弁になっているため、センセーショナルになりがちな主観の敗北というテーマを比較的安全に楽しめる。
キャパシティを超える心理的安全性への介入を受け入れることはできないのは主人公ウィンストンの最期からも読み取れるが、ウィンストンが自身の主観をはっきり認識できていなかったことが敗北の前提として置かれていたことは忘れないでおきたい。

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