「共同体」「関係性」を「なんとなくいいもの」と思考停止すると「地獄」が待っている
今日は「場所」について考えてみたい。昨年、僕の主催する研究会「庭プロジェクト」で、JR東海道線新駅の開設に伴う藤沢市と鎌倉市にまたがる村岡・深沢地区の再開発についてのリサーチを行ない、意見書を発表・提出した。誰でも閲覧できるように、PDFファイルを公開しているので、興味がある人はぜひ目を通して欲しい。
このリサーチの過程で僕が「実感」したのは、まず「市民」とは誰かということをちゃんと考えないといけないということだ。とりあえず「市民に開かれたまちづくり」みたいな枕言葉はあらゆる土地で、最低限のアリバイ的に濫用されているわけなのだが、そういうケースで「手本」として引用されがちな「成功例」の実態は、悪い意味で「意識が高い人たち」の集まりに閉じてしまっているケースが案外多い。経済的に豊かで、文化資本が高く、Facebookでソーシャルグッドなイベントへの参加を「報告」するのに余念がない人たちをエコやケア(もちろんそれら自体はウルトラ重要なことだが)などの人気の錦の御旗で集めるーーみたいなことをしても、彼らのセルフブランディングに寄与するだけで意味がないと僕たちは考えたのだ。
たとえば、鎌倉市はかなり住民構成が経済的にも文化的にも多様で、「意識の高い」市民自治の文化もあるのだけと、残念ながら当の深沢地区に多い相対的なロウアークラスに浸透しているかというと、かなり厳しい。だから僕たちは、意識の高い市民に向けた文化的なイベントとかスタートアップ支援とか、そういうこと「だけじゃなくて」普通に暮らしている人が便利に通勤して、通学して、通院して、買い物していく「ついで」に土地の自然や歴史に触れられる回路をどう作るかに腐心した。意識高い施設やイベントを設けて、土地の内外から意識高い人を集めても、絶対にそこは「いい街」にならないと思ったのだ。
あともう一つ。やはり「共同体(コミュニティ)」中心にならないということが重要だ。僕は一部のケア論壇でささやかれる「共助」の理想化に懐疑的だ。彼ら彼女らの言っていることは結局豊かな人間関係に恵まれて、豊かな関係性を築くのがよいという話で、はっきり言って社会思想として意味がない。それは完全に強者の論理だ。世界には豊かな人間関係に恵まれない人は、確率的に発生する。その土地の余所者、親ガチャに外れた人、障害をもつ人、民族的・性的なマイノリティなどは「よい共同体」「よい関係性」にたどりつくハードルが相対的に高くなる。共同体は中心やカースト上位の人には居心地が良いだろう。しかし下位や周辺に置かれた人には「地獄」だ。
「私たちのコミュニティはフラットで優しいです」と言う人もいるだろう。まあ、スターリンはソ連を「労働者の天国」だと言い張っていたわけだし、それにカースト上位に行きやすい陽キャや金持ちや権威のある人にとって、大抵の共同体は居心地が良いだろう。あと、そんな「優しいコミュニティ」が陰キャやマイノリティを「包摂」したときに、たいてい「手を差し伸べるべき可哀想な人」の役をカースト上位の「いい人」に与えられるわけなのだが、端的に言って僕は傲慢さしか感じない。そもそもの問題として、いまは「いい人」がその共同体のリーダーなので問題がなかったとしても代替わりして陰険な飲み会パワハラ系おじさんが権力を握るケースや、明確なリーダーがいないことで逆に相互監視&足の引っ張り合いが増えるケース(このパターンはものすごく多い)に陥らないと誰が保証できるのだろうか。
僕の主張はそもそも「共同体」が答えだとダメ(社会思想として脆弱)だというものだ。セルフブランディングに余念のない偽善者はウットリと「いつかあなたの居場所が見つかります」という。しかし自分が尊重されるよい共同体や、よい関係性を見つけなさいというのはあまりに思想として弱い。それって左翼のみなさんがバカの一つ覚え的に目の敵にする「新自由主義」と何が違うのかと思う。左翼が目の敵にする「新自由主義」がメリトクラシーに基づいた経済的な「新自由主義」なら、彼ら彼女らの主張はコミュ力に基づいた人間関係的「新自由主義」だ。僕には「よい共同体」「よき関係性」を得づらい状況に置かれた人は、人生を諦めろと言っているようにしか聞こえない。
ではどうすべきか。
僕の回答はシンプル。「公助」あるのみだ。
『庭の話』に書いたように、バカな「共同体主義者」は「醤油がなくなれば醤油を借りられる社会が正しい」と言う。冗談じゃない。隣近所と良好な関係を保ち、ムラでよい位置にいないと醤油も手に入らない社会は弱者には「地獄」だ。大学や大企業のようなビニールハウスの中でヌクヌクしている人や、中小企業のオーナーとかで小金持っている系の人、つまり権威やカネを持ち大抵のコミュニティで悪い扱いを受けないタイプの人には弱い人の気持ちが分からない人が多いが、こういった人たちの無自覚な「強者」目線の共同体(コミュニティ)を「答え」にする言説に僕は軽蔑しか感じない。(いや、こういう問題に自覚的で、「コミュニティいい話」に甘えないようにしっかりコツコツやってる人もたくさんいるので、そこは誤解しないで欲しいが……そうじゃない人も同じくらい多い。)
では僕の答えは何か。それは「100円持っていけば、コンビニで100円の醤油が買えること」だ。そして「その100円は国家の再分配で保証されること」だ。つまり「資本主義+再分配」(社会民主主義)だ。
上級国民のセルフブランディングを目的に美化された「共同体内の贈与」は、人間関係依存になり結局弱者に不利なゲームを生む。「自助」が経済強者が有利なゲームを生む経済的新自由主義の思想なら、「共助」はコミュ力や文化資本の強い人間が有利なゲームを生む社会的新自由主義の思想だ。しかしそんなものはセーフティネットとして意味がない。その人が「何者か」を問わないものしか、セーフティネットとしては意味がない。だから「公助」一択なのだ。
この話をするとハートフルな共同体(コミュニティ)や共助の物語が好きな人には「嫌な顔」をされることが多い。このとき僕は思う。「ああ、この人は本当は困っている人や、弱い人のことはどうでも良いのだな」と。
この人たちは誰か(自分たち)が他の人を助ける「施し」の物語が欲しいだけで、別に実際に困っている人や弱い人の人生が回復することには興味がないのだと思う。だから「公助」だとイヤなのだ。自分たちが主役になって「施す」ことができないからだ。
「共同体」に依存している限り、セーフティネットは機能しない。そのときはしていても、持続可能性が低い。だから「公助」一択なのだ。この基本を忘れて共同体を礼賛するのは本当に危険だ。
「良い関係性」を礼賛する人も同じだ。人間関係は「めぐりあい」の問題で、結局圧倒的に社会資本や文化資本を持つ人の有利なゲームで、セーフティネットにまったくならない。それはコミュ強だけが有利な世界を弱者に受け入れろと述べる新自由主義的な主張なのだ。
必要なのは、「自分もよい位置に置いてくれる共同体が見つかること」じゃない。それではその共同体の下位や周辺に置かれる人間は救われない。そうじゃなくて、必要なのはその人がどこの誰かを問わない、どのような家族をもつとか、どのような共同体のメンバーシップを持つとかを「問わない」ことだ。ルールさえ守れば、どこの誰でも尊重される。この「何者か」を問わない思想だけが、セーフティネットの、社会の原理になるのだ。
しかし、僕のこの主張は「いまは」大きな反発を生むだろう。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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