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その「飲み会」、本当に「必要」ですか?

最近よく考えているのだけど、僕はいま「飲み会」文化に苦しめられている人たちのためにできることを探して、具体的に動き出したいと思っている。

残念なことだけれど、この国にはいまだに職場や、同じ業界のあつまりなどで上下関係に基づいた「飲み会」文化がしつこく生き残っている。「飲み会」は仕事じゃない。しかし「飲み会」に参加しないと、職場の人間関係がうまくいかなくなるのではないか、最悪の場合はイジメられてしまうのではないかという不安から、イヤイヤ「飲み会」に参加してしまう人は少なくない。せっかくの仕事が終わったあとの時間と、自分が一生懸命稼いだお金を他のことに使いたいと思っても、それを半強制的に奪われてしまうのだ。

この「半強制的に」というのがポイントだ。

多くの「飲み会」は表面的には「来たくないなら来なくてよい」とされている。しかし多くの場合、参加しないと共同体の中でも「浮いて」しまうのが分かっているから、怖くて断れないのだ。

こうして本当は行きたくないのに、我慢して「飲み会」に顔を出してしまうケースが後をたたなくなる。ここには確実に陰湿な「空気の支配」がある。共同体の中心人物や多数派の意思を「忖度」して行動することが暗に要求されるのだ。

ここには確実に「構造の暴力」がある。この国でも、ようやく「飲み会」のこうした暴力性が認識されるようになり、職場の上下関係を利用した飲み会の開催には慎重になる人が増えている。しかし古い体質の抜けない昭和的な業界などでは、またまだこの「飲み会」への半強制参加でつらい思いをしている人はたくさんいる。

※ちなみにここで僕が批判的に取り上げているのは、職場などの上下関係などが作用して「断ると不利になる」と人間に思わせてしまうタイプの「昭和的飲みニケーション」であり、すべての「飲み会」一般ではない。これは誤解しないように。

特に僕が醜悪だと思うのは、その場(共同体)のボスの機嫌を取るためにその取り巻きたちが率先してボスの嫌いな人間を中傷して、盛り上がるタイプの「欠席裁判飲み会」だ。近年ではその模様を動画配信して、視聴者と「いじめ」の快楽をシェアするケースまである。

僕自身、このタイプの飲み会では「いじめ」に近いことを長期に渡って反復され、自殺すら考えたことがある。

僕はだから声を大にして言いたい。行きたくない飲み会には、行かなくてよい。そしてこの日本社会の悪習について、そろそろハッキリとNOをつきつけるべきだと思うのだ。

10年前はまだ言えなかった。しかしいまなら言えるはずだ。このタイプの「飲み会」で楽しいのは、ボスとその腰巾着など、その「共同体」で高いカーストにいる人だけだ。低いカーストにいる人間にとってはそうじゃない。そしてカーストの上下のあまりハッキリしない一見フラットな共同体は、その外部に「敵」を設定することで結束しがちだ。そして僕がここで問題にしているタイプの「飲み会」は、メンバーシップの確認のために行われるもので、そのためにカーストの再確認(忖度してボスの嫌いな人の悪口を言う)とか、敵の排除(いじめ)に陥りがちなのだ。

こう書くと、昭和的な感性の人ーー特に年長の男性ーーにはかならず「とは言え、仕事をよく回すには〈飲み会〉が必要だ」という人が出てくる。

たしかにそうだろう。共同体の結束が強くなったほうが、業務の「効率」は上がるケースもあるだろう。しかしそんなことのために、その共同体の弱い立場の人が、イヤな飲み会に我慢して出なければいけないのだろうか?

「効率」を理由にすれば、なんでも正当化できるんだろうか?

だったら有給も育休も全部廃止して、労働時間を爆上げした方が、業種によっては「効率」は上がるだろうが、そんなことは許されるのだろうか。

こう言うと、お前は職場の現実がわかっていない、「飲み会」を反復して職場を「共同体」として強くしていかないと仕事は「回らない」、と言う人は多い。だいたい、職場の責任者、つまり管理職やオーナーが、「オレは現実分かっているぜ」とウットリと語り、そんな「強い父」的なナルシシズムに憧れる人がその言説を支持する。

しかし、僕は思う。そんなのはお前たちの思い込みだ。「飲み会」なんかなくても「回っている」職場なんてまったく珍しくない。世界のすべてが昭和的なおじさん文化で回っているとでも、本気で思っているのだろうか?

そして僕が許せないと感じるのは、こうしている今も、職場などで上下関係からイヤな「飲み会」に付き合わされて、つらい思いをしている人がたくさんいることを、このような「飲み会擁護」をする人たちは都合よく忘れていることだ。

そりゃあ、社会的な地位のある人にとっては、自分が中心にいられる「飲み会」はさぞかし気持ちがいいだろう。逆に自分が気持ちよくなれる場所を失いたくなくて、「飲み会は必要だ」と叫びたくなるだろう。

そもそも今の日本には、自分が強い立場でいられる場を手放したくない人(主に中高年男性)が「飲み会」に、もっと言えば不必要なレベルでの「出勤」にしがみついて、そして弱い立場の人をしいたげている。実質的なサービス残業感情労働の「飲み会」や、満員電車の苦痛のなかで尊厳を奪われる不必要なレベルの「出勤」に苦しめられることになる。

しかしこの国の強い立場にいる男性たちは、その「父」になりたいという欲望(自分より弱い存在を庇護し、導き、尊敬されたいという欲望)を満たすために「仕事」という口実を用いて部下や後輩に囲まれる場を維持しようとしているのだ。

もちろん、世界には僕がいま書いたようなことを完全に理解した上で、最大限に気を遣って自己の欲望も抑制した上で「飲み会」的なコミュニケーションをときに「手段」として行っているリーダーがいることは僕もちゃんと分かっている。

「飲み会」の暴力性を理解し、全力でそれが発揮されないために努力している人は、僕のこの「飲み会」批判を自分の努力を否定するように感じるかもしれない。しかしそれは誤解だ。僕はあなたたちの努力を尊敬する。

しかしその上で、僕は言いたい。少なくとも一般論として「とは言え〈飲み会〉がないと仕事が回らない」とか言って、飲み会一般を擁護するべきではない。

それはまずあなたの経験談でしかなく一般化できない考えだ。そして世界にはあなたのように飲み会の暴力性を理解しているリーダーはかなり少数派だ。

そして何より、繰り返すが、こうしている今もイヤな飲み会に仕方なく参加して、つらく、苦しい思いをしている人がたくさんいる。あなたはそんな「理解あるリーダー」に巡り合うまで、祈りながら待てとでも言うつもりだろうか。

そしてこれを指摘するのは酷かもしれないけれど、あなたはどれだけ「良い父」として「気を使っている」つもりで「自由参加」を呼びかけていても、やっぱり「本当は行きたくないけれど、共同体から浮きたくないから飲み会に行く」という人はどこかでててきてしまうと思うのだ。これはあなたに悪気はなくても、「飲み会」というシステムがそうさせてしまう。

だからあなたの「とは言え〈飲み会〉がないと仕事が回らない」という言葉は、半強制飲み会を主催して気持ちよくなりたい人をエンパワーメントし、本当は行きたくない飲み会に苦しんでいる人を間違いなく追い詰めるのだ。

弱い人のことを、共同体の隅や下位で苦しんでいる人のことを、少しでも考えて欲しい。それが僕の願いだ。

そしてもし、同じように考えている人がいたら僕に連絡が欲しい。時間はかかるかもしれないけど、僕は少しずつでも、こうした飲みニケーションから逃げたい人の手助けができたらいいと思っている。

具体的にはそのための団体のようなものを作って、相談に乗ったり、社会的なアクションのサポートができたら良いというのが考えだ。

「飲み会」なんかなくても、仕事はできる。やっとそのことに、この国の人たちも気づきはじめた。

そして少し大きな話につなげると、これは戦後日本の成熟と言った問題にもかかわっている。つまり今の日本で「飲み会」の存在が大きいのはルールではなく「空気」、法治ではなく人治で社会が動いているからだ。

そのため、この国では安定政権が長期化すると公文書すら改竄されてしまうし、「憲法」すらも内閣の「解釈」によりその運用レベルで実質的に改変されてしまう。

僕はある意味「飲み会」「飲みニケーション」からの卒業は、この国に「法治」や「立憲主義」を根付かせるための第一歩だと考えている。

その上で、世界中の地位のあるおじさんたちに、特に僕の同世代の男性に問いたい。

その「飲み会」、本当に誰かを虐げていませんか?

そろそろ「飲み会」やめませんか?


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宇野常寛 僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。