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読者を「育てる」フィードバックループについて(または「コブラ読書会」への試論)

今日は「読者を育てる読書会」とはどういうものかについて考えてみたい。

実は批評の世界は僕がデビューした頃から、読者の「質」があまりよくないと言われ続けている業界だ。まあ、実際に書いている側の人間の「本音」からしてみれば、とにかく読んでもらわないとはじまらないので、読者の質を云々というのはものすごく贅沢な悩みに聞こえてしまうのだけれど、こういう問題を口にする人の言わんとしていることもわからなくもない。

要するに能力の割にプライドが高く、実際にまとまったものを書いたり、媒体を作ったりするよりもSNSや飲み会で「それっぽい」ギョーカイの話をすることで、自分と周囲に必死に「自分はバカじゃない(賢い!)」と言い聞かせているタイプ(経験上、男性に多いように思う)が集まりやすいのだ。当然このタイプの人に、本当に頭がいいなと思わされることはまずなく、稀にそういうタイプの人が意を決して書き上げた長文がnoteや同人誌に発表されたたとしても、中身はたいてい一昔前か二昔前に流行ったカリスマ論客の使ったキーワードを自分の関心事に当てはめてなんとかかたちにする……といった修辞の凝りすぎた大学生のレポートのようなもので、端的に言えばその人がそのカリスマ論客に依存して自分の頭では考えられないbot化していることしか証明しているだけのものだ。

そして今日においてはSNSがあるために「◯◯さんの敵を下げてあなたを持ち上げたんで、好意的リツイートをよろしくお願いします!」といったメタメッセージの全面化したどうしようもない「社交」が、そういった卑しさに伴うことも珍しくない。以前も指摘した、本を読む能力が足りず人間関係しか読めない人がこれにあたるのだけど、まあ、能力の不足を社交で埋め合わせようとする人は、どの分野にもいると思う。

僕が10年ほど前から、『庭の話』で取り上げたケアや民藝、都市開発や自然環境、あるいはテックなどについて自分の媒体で取材しながら考えたのは、もちろんこれらの世界に、自分が設定した問題を考える上での大事な手がかりがあると感じたからだが、実はもっときちんとものを考える能力のある人を相手にしないとダメだと考えたからだ。古い読者からは、宇野はいきなり変なことをはじめて何をやっているのかと随分と言われたものだが、申し訳ないけれど僕のほうはこの頃から狭い批評ムラの、それも自意識と人間関係の噂で頭がいっぱいの彼らに興味が持てなくなっていたのだ。

残念ながらこういう能力がない(ことに自分で気づけていない)だけでなく、基本的な人間観や社会観が幼稚な読者が目立つと、その分野自体がダメなものだと評価され、きちんと考えたい人から離れていく……そういった現象は否定できないと思う(実際に僕も離れたわけだし)。しかし反面、若者なんてそんなもんだから大目に見てやれよと思わなくもない。まあ、このタイプには30代、40代のおじさん読者も多いと言われたら、反論に困るのだけと……本題はそこにはない。

で、最初になんでこの話をしたかというと僕が今日考えたいのは、「読者を育てる場」とはどういうものかという問題だからだ。先に結論を述べれば、前述のちょっと困ったタイプの読者は、(最近はXの影響でとくに)負のフィードバックループにハマっている。だからこの構造を分析して、正のフィードバックループが考えられないかという仮説を考えたいのだ。

たとえば昨日触れた「宇野書店(仮)」で、僕はいわゆる「感想をシェアする」タイプの読書会を考えていない。

誤解しないで欲しいが、僕個人はこのタイプの読書会が嫌いではなく、主催することも多い。しかし一度このタイプではない読書会を試してみたいと考えているのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。