「個人商店」はなぜ「共同体」とデカップリングされるべきか?
さて、8.1にいよいよ「宇野書店」のオープンが控えていることもあり、最近はよく街の、それも小売店について考える。
この種の議論の難しさは、単純に東京資本、または外資のチェーン店を攻撃し個人商店の存在を応援すればいい、という話で「済まない」ところにある。
前提として、僕はこれから書店をプロデュースするのだし、かねてから「小商い」のようなものが個人の自己実現の回路としても、都市の文化的な豊かさの上でも必須だと主張しているので、「基本的には」個人商店の側に(強いて言うなら)立っている。
しかしたとえば象牙の塔や大手マスコミというビニールハウスから無責任な言説を垂れ流してセルフブランディングしている研究者や文化人の類が、チェーン店は商品やサービスの画一化だけではなく、本来存在している客の階級差まで隠蔽するために社会にとって害悪である……なんて言説をウットリと語っているのを目にすると、その安直さと傲慢さに違和感を覚えざるを得ない。
前者の批判(商品やサービスの画一化)にはもちろん僕は条件付きで同意する。しかし後者の批判(階級の隠蔽)はどうだろうか。
これは要するに、低階級の人間が高階級の人間と同じもの(マクドナルドやスターバックス)を消費すると、階級差が隠蔽されるのでけしからん、という論理なのだが、端的に言ってこれは貧しい人は貧しい人の食べそうなものだけを食べるべきだと言っているのと同じだ。
マイノリティや被害者には24時間365日マイノリティや被害者の「顔」をしてもらわないと困るのは、彼ら彼女らへの「同情」的な言説をセルフブランディングに利用している人間だけで、はっきり言ってあなたがたの自己実現のために、どうして人間がそれを消費している間だけは自分の属する階級から自由になれる回路を否定されなければいけないのかと、怒りすら湧いてくる。
僕は繰り返し述べるように基本的に再分配主義者であり、階級差の是正を肯定する立場に立つ。しかしそのことを動機付けるために、ファーストフード的な「何者か」を問われない場所の正の側面を評価しないのはあまりにもアンフェアというか、安易な理解以外の何物でもないと強く思う。
つまり僕はファーストフード的なものに両義的な評価を与えている。ファーストフード的なチェーン店「だけ」ではダメだけれど、ファーストフード的なチェーン店「も」必要なのだ。
そしてここからが本題だ。ではこの視点から、これからの公共空間(庭)を考えるとどうなるのだろうか?
僕の考えはシンプルだ。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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