目取真俊『希望』━失落する焼死体の系譜【詩人として「読む」小説】
闇の中で燃え上がり、歩き、倒れた火に、走ってきた中学生のグループが歓声を上げ、煙を噴いている黒い塊を交互に蹴った。
死とは何だろうか。撲殺ほど瞬間的でなく、
たとえば衰弱の末「亡くなった」と言うとき、
その死はいったい、何時、如何様にして起こり、
また同時に、その「人」が、その死により失ったものは何なのか
はじめに
「希望」は、「街」をテーマにした物語のアンソロジー『街物語』に収められた、沖縄の左翼的作家 目取真 俊(めどるま しゅん)による、沖縄のコザ(沖縄市の合併前の名称で、米軍基地のある沖縄市中心部を指す名称でもある)を舞台にした3篇のうちのひとつでわずか3頁ほどの掌編である。
あらすじは、米軍基地とアメリカ人、また彼らに媚びへつらうようにしているコザの人々を疎んじる語り手が、米兵による少女暴行事件に対する反撃として、見ず知らずのアメリカ人の子供を攫って絞殺するというもの。
その内容は過激である。しかしあえて過激に書いていると見るべきかもしれない。このような「過激な」作品は、表面的な需要にとどまりやすいという欠点がある。もちろんその「表面」も重要なのだが、今回は作品の中へと分け入って細かく分析することで、新たな読みを模索してみたい。
冷淡な文体
六時のニュースのトップは、コザの市街地からさほど離れていない森の中で、行方不明になっていた米兵の幼児が死体で発見されたというものだった。
掌編は上記引用のように始まる。最後の一文をのぞいて、物語全体は主人公の一人称視点から語られていく。この滔々と綴られていく文章に、読者の感情移入の余地はほとんどない。独白というほどには感情をともなわず、ただただ思念を列記していく、極めて閉鎖的で冷淡な文章だ。
今オキナワに必要なのは、数千人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ。
本文でも太字で強調されたこの文章は、主人公のマニュフェストだ。この言葉の通りに主人公は米軍兵士の幼児を殺害し、その幼児の毛髪を入れた封筒を警察署宛に投函したうえで、「宣野湾市の海浜公園」(米軍兵士による少女レイプ事件のデモの中心地らしい)での焼身自殺を決行する。
最後の一文の謎を紐解く
子供の毛髪を投函し終えた語り手は、みずから出向いた公園でガソリンを頭から被って火を纏い、焼身自殺を遂げる。その最後の一文は、それまでのような独白とは異なり、その世界の誰でもないものが語るような、いわゆる神の視点から情景を描写する言葉が紡がれる。
闇の中で燃え上がり、歩き、倒れた火に、走ってきた中学生のグループが歓声を上げ、煙を噴いている黒い塊を交互に蹴った。
この文は一見すると単純だが、よくよく観察してみれば、実際には多くのねじれと対比的な構造を内包していることに気づくだろう。まずこの一文は、動詞に対する主語と目的語の関係について、以下のように分けることができる。
① 闇の中で燃え上がり、歩き、倒れた
② 火に、走ってきた中学生のグループが歓声を上げ、
③ 煙を噴いている黒い塊を交互に蹴った。
①において三つの動詞の主語となっているのは(特に「歩き」から想定されるように)生きている「人(主人公)」である。しかし、①と②の間では「倒れた」が「火」に掛かることで、「人」は「火」に変化する。しかもこの「火」は、②の動詞「歓声を上げ」において、新たな主語「中学生のグループ」に行為される間接目的語となり、③では「黒い塊」に転身した上で「交互に蹴」られる直接目的語になる。
「歩き」という平行的な横方向への運動が「倒れ」ることによって中断される。それと同時に、「燃え上がり」「倒れ」「煙を吹く」という燃焼と瓦解の上下の交差した垂直的な運動が語り手を情景のなかへと飲み込み、その主語としての位置を、そこいらの「中学生」たちが代わりに占領していく。
主語から直接目的語、間接目的語へ。また「人」から「火」、「黒い塊」へ。平行的な運動から、垂直的な中断へと至る。その構成を冷徹な文体で提示するこの短い一文は、絵画的ながら動的であり、かつあまりに美しい。
①における「歩き」は物語のなかにおいて特別な動詞である。『街物語』に収められた「希望」を含める目取馬俊のコザ四作品には、その短さにも関わらず多くの描写が「歩く」ないし移動の最中のものになっている。「街歩き」という言葉があるように、「街」をテーマにした作品の中で「歩き」、車などで移動しながら街を享受する様を描写するのは、ある意味で必然だ。しかしそのために、あまり「街」とは関係のないように見えるこの一文の「歩き」にも、「街」との関係を意識させる。「歩き」は単なる歩行に限られず、「街を享受する主体であること」すなわち「コザを生きる主体であること」を内包しているのである。
前景化されるもの、行為されるもの
情景の中へ組み込まれていく主人公の姿を「前景化」(それまで主題であったものが、別の主題を主張するための要素に使われ始めることで、それ自体が脇に置かれてしまうこと)という語でもって表すのならば、一つ面白い論考がある。
以下は、立命館大学のリポジトリから読むことがきる栗山雄佑「目取真俊「希望」論 : 動員される少女の犠牲について」のリンクである。
簡単にどんなテーマを扱っているかを述べれば、作中における主人公の米兵子供殺害や、また現実での宣野湾市公園のデモのきっかけとなった「米兵による少女レイプ事件」、それ自体が、作中主人公の復讐においても、実際のデモにおいても前景化される、つまり実際の事件について議論されるというよりかは、反基地と米軍の対立を強化する火種となって、その事件自体の存在が抹消されていく、その構造について述べられている。
「死」は、その死が前景化されることから(おそらく)逃れられない。有り体に言えば「死人に口無し」だが、死んだ人間、あるいは死という事件について、少しも逸れることなく語ることができるのは、やはり死んだ人間だけではないだろうか。ゆえにその死んだ人物の存在し得ないこの世界において、死は前景化を免れない。
この作品は、あくまで沖縄を舞台に、その基地問題を取り上げつつも、普遍的な「死」について書いたものでもあるのではないだろうか。主人公は「米軍」への復讐のためにアメリカ人の幼児の死を利用する。私たち人間は、死の瞬間から語ることも、加えて何らかの行為をすることも叶わない。死んだ私たちは見ず知らずの「中学生のグループ」から意味もなく、ほとんど好奇心から蹴られるに過ぎない。しかし同時に、生者である私たちは、「中学生のグループ」であることからも逃れられないのではないか
流れ星的失墜 ━ イカロスの系譜
先ほどの一文
語り手が、炎を巻きあげながら崩れ落ちていく姿は、圧縮され燃焼することで崩れながら空に尾を曳く彗星に似ていないだろうか。むしろ炎のなかで死にいたるその姿はイカロスの墜落のようであるかもしてない。
古代の人々は彗星を燃焼反応だと知っていたのだろうか。イカロスの寓話は、あるいは古代人たちが日中の彗星の墜落を古代神話の文脈で解釈して語ったものなのかもしれない。
私たちは主体性という権力の空を飛んでいる。
私たちはあたりまえのように、眼前のコップを「手に取り」、口元まで「運び」、なかに入った水を「飲み干す」。また誰かに後ろ指を刺されれば、そいつを「殴る」こともあるかもしれないし、そうなれば相手も「殴り」返してくるかもしれない。私たちは主体としての世界を生きている。
しかし死は、その主体として行為する立場を剥奪する。死者は、手に取れず、運べず、殴りも殴り返すもできない。それでいて生者は、自身の死者に対するそうした特権を顧みることがほとんどない。いずれは自らも死者となり「非主体」の大地へ墜落するのにもかかわらず。つまり、私たちはそうとは意識しないまま、いつでも「主体」になれる特権者の青空を、悠々と飛行しているのではないだろうか。
またそれでいて生者である私たちは、焼け爛れながら墜落する「流れ星」に願いを唱えるのである。それは今まさに死に向かおうとする焼けこげた「黒い塊」を複数人で蹴るような行為なのではないか。目取真の『希望』というタイトルは、そのような系譜にあるような気がしてならない。
おわりに
どうだったろうか。この一文を紹介したいと思い、勢いで書き出したために、すこし文が荒くなってしまったように思う。あとで修正していきたい。
気ままに楽しんでいただけたら幸いである。それでは。
