創作大賞応募作品| 寧々 《第12話》
《第12話》 寧々とチョコレート
寧々の自宅は、もぬけの殻だった。
「寧々、どこにいる ⁉︎ 」
透哉の叫び声は、誰も存在しない空間に虚しく吸い込まれていく。息が切れていた。かろうじて終電に飛び乗り、最寄駅からここまで疾走してきたのだ。
ふと思い立ち、玄関に戻り寧々の靴を探す。外出する機会が少ないから、寧々が所有する靴は限られている。その外出用とおぼしき靴が見当たらなかった。
出かけたのか?こんな深夜に?ひとりで?
迷うことなく外に出た。庭を突っ切って道路まで出たが、行先の心当たりがない。この近隣で、この時間まで営業している店などコンビニぐらいなものだろう。
雨が地面を打つ音に紛れて、靴音が聞こえた。
電灯の照らすアスファルトの地面。淡く頼りない光の先に、寧々がいた。傘を持っていない。髪も服も、びしょ濡れだった。
「コンビニ行ってたのか?こんな夜中に?」
アイス食べたくなっちゃって……、と寧々は弁明する。後ろめたいのか、眼差しが宙を泳いでいる。危ないだろ、と怒鳴りつけたい衝動を透哉は堪える。
黙って、傘を差し出す。
透哉の傘の下に入ってきた寧々を抱きしめたい衝動に駆られた。瘧のような震えを伴うその衝動を、渾身の思いで抑えつける。
「今日さ、母親に会ったんだ」
寧々の歩みが、一瞬止まった。透哉の母親との再会。それがもたらす意味を咀嚼しているのか。
「寧々が、無事でよかった」
無事でよかった。昔も今も。嘘偽りはない、透哉の心の底からの本音である。
あなたの弟は、あなたの身を心から案じていたのだと。あなたの身に起きたかもしれない出来事を、子供なりに想像しては眠れない夜を過ごしていたのだと。
見上げてきた寧々と、視線が合った。痛みを堪えるような表情をしていた。
それを告げたのは、透哉の自己陶酔に過ぎなかったのだろう。長い年月、嘘を貫いてきた寧々にとっては、拷問にも似た責苦だったに違いない。
♦︎♦︎♦︎
玄関から台所へと脚を踏み入れてから、先ほどは気づかなかった異変を悟る。壁際に乱雑に放り置かれたゴミ袋。そして、その中身……。
「風邪引くから、先に着替えてくれば?そのアイス、冷凍庫に入れとくから」
寧々は黙って、首を振る。コンビニのビニール袋を渡そうとしないのは、それが自らの恥部であると自覚しているからだ。だが隠そうとしても、ビニール袋の半透明の素材は、彼女の意に反してその目的を果たさない。
寧々は、透哉が2階の自室に上がるのを待っている。だがそうするつもりなど、毛頭なかった。
「アイス、食べたかったんだろ?食べなよ」
寧々にそう促して、透哉は冷蔵庫の脇にあるコーヒーメーカーのスイッチを入れる。ソファに腰掛けている寧々の姿を見てはいけないと自分に命じたが、振り向いてしまった。
寧々は静かに涙を流しながら、チョコレートアイスを口に含んでいた。美味しくて流す涙のわけがない。禁を破る、誘惑に負ける。醜い自分の姿を厭う涙だ。
たかがアイスで、どうしてそこまで……と思わざるを得ない。
「お母さんが病気で亡くなってから……、お父さんね、ものすごく私を甘やかしたの。欲しいって言えば、なんでも買ってくれた。食べたいものも全部食べさせてくれた。お母さんが生きてたときみたいに、間食して怒られるなんてこともなくなって……」
当然太ったの、と寧々は語る。
「まだ小学生だったのに、胸が大きくなっちゃって……。公園で友達と遊んでたときに、浮浪者みたいなおじさんに触られたの」
後ろから羽交い締めにされて胸を鷲掴みにされたのだと、寧々は言う。そして、そのとき浴びせられた台詞は今でも憶えていると。
「大きなおっぱい揺らして走ってるから、お仕置きなんだって。男の目を釘付けにする、いけないおっぱいには、痛い思いをさせなきゃダメなんだって」
これは正当な罰だと称して、浮浪者の中年は小学生だった寧々の胸を自分の思い通りにする。しかも、他の同級生の見ている前で。
性被害の典型的な例だ、と透哉は固く目を瞑る。
ミニスカートを履いていたから。ブラウスから胸が見えていたから。自らの欲望の暴走を、女性の扇情的な服装に責任転嫁する。あまつさえ、小学生女児にまで。
「ブラジャー買いなさいって、保健の先生に言われてたけど。どこに行って、どんなのを買えばいいのかもわからなくて……。今度はお母さんが欲しいって泣き喚いたの。そうしたら、お父さん本当に連れてきた」
お母さん……。つまり、透哉の実母である。「あの人は自分の娘に女親を与えたかっただけ」という母親の言葉も、あながち嘘ではなかったということだ。
寧々の父親は、経済力もあり容姿も悪くない。その気になれば再婚相手を探すことは、困難ではなかったのだろう。一方で透哉の置かれた家庭環境は、典型的な困窮する母子家庭だったように思う。
愛情ではなく、利害の一致による契約。
そしてその契約によって結びついた家庭のなかに置き去りにされた透哉は、疎外されることはなかった。なぜなら、寧々のことを一番に考える弟だったから。
養父は寧々を溺愛していた。だからこそ、寧々に愛情を注ぐ透哉の存在を疎んじることなく、大事にしてくれていた。そう思ってしまうのは、穿った考えだろうか。
寧々の手が、テーブルの上のアイスに伸びた。
これで何個目だ、と透哉は背筋が凍るような思いになる。食べ過ぎだろ、と気安く咎めることができれば、どんなにいいか。眺めているだけで吐き気が込み上げてきた。もはや、寧々自身の自傷行為だ。
「透哉も食べる……?」
思い出したように、寧々は尋ねてくる。いらない、と透哉は首を振る。
「甘いものは好きじゃないんだ。知ってるだろ」
「昔は、私が食べてるの横取りしたことあったでしょう?冷蔵庫に隠してあったの、勝手に食べたり。食べてる最中に腕掴まれて、食べかけのアイスも取られたことあったよ?」
それは……、と透哉は言い淀む。
「食べたくて横取りしたわけじゃない。寧々が、なんだか苦しそうに食べてたからだ」
今も苦しいよ……?と、寧々は小さく笑って、首を傾げる。助けてくれ。止めてくれ。これは、寧々のSOSなのか。
寄りかかっていたシンクの縁から、ゆっくりと身を離す。寧々の傍らに掌をつくと、ソファの生地が透哉の重みで沈んだ。寧々の腕を掴んで、チョコレートアイスを口に含む。
普通の姉弟は、こんなことはしない。子供が食べかけのアイスを横取りするのとは、まるで意味が違う。
これが誘惑ではなくて何なんだ、と胸の内で問う。ひどく間近に涙で濡れた寧々の眼差しがあって、とうとう抑制していた衝動が限界を迎えた。
寧々の頭を引き寄せて、貪るように口づける。絡ませた舌から溶けたチョコレートの味がした。
蟻地獄だ。甘い蜜に絡みとられて、どこまでも堕ちていく。罠かもしれないと思ってしまう自分は、心の底から寧々という女性を信用しきれていないのだ。
ソファの上で抱き合っているうちに、突然鈍器で殴られたかの如き衝撃で、透哉は冷静さを取り戻す。
『sexual consent form』
寧々、と腕のなかの彼女に呼びかける。同意書いる?と。心のなかでは、不要だと一蹴して欲しいと願っていた。
── 互いの自由意思のもとにおける、合意の上での性交ですか?
── 酒や薬による酩酊状態にありませんか?
── 健康状態や婚姻関係、互いの情報を余すことなく開示していますか?
それを無粋だと言ってのけてしまえるのは、男性であるが故か。庇護を必要としない強者の立場だからか。
ジーンズのポケットから取り出された透哉のスマホを、寧々は微かに眉を歪めて押し退ける。
鬱陶しい存在のようにテーブルに置いて、寧々が自分の首に腕を絡めてくるのを、透哉は恍惚とした思いで受けとめていた。
