長編小説|Another Horizon #02
#02 高級風俗嬢の彼女
その女性に出逢ったのは、気温がじわじわと上昇を始め、夏の気配が色濃く忍び寄ろうとしていた時期だった。
食堂の引き戸を開けた航太は、すぐさま後悔する。満席だ。やはり18時ともなれば夕食のピークだ。コンビニに行くべきだったと悔やんだところで、後の祭りである。
いらっしゃい、と両手に御盆を抱えたおかみさんに声をかけられて、出直すわけにもいかなくなった。かろうじて空いていたカウンター席の椅子を引く。
隣に座っていた女性の後ろ姿が、視界に入った。外出着とは呼べないような紺色のジャージ。洗濯を重ねて柔らかさを増して、部屋着としては一軍になりそうな服だった。足元はこれまたベランダに置いてありそうな、つっかけサンダル。
床に無造作に投げおかれたトートバッグは、誰もが知るハイブランドのものだ。うん十万はするであろう革のバッグには、化粧ポーチやら何やら乱雑に放り込まれている。
意外だったのは、だらしない印象を与える服装と裏腹に、ひとつに束ねられた長い髪が豊かで美しかったことだ。
どんな女だよ、と思いながら、座席に腰かけて驚いた。味噌ラーメンの大盛りと唐揚げ定食。脂質と糖質のオンパレードだ。
「それ、全部食うんですか?」
思わず、話しかけていた。言葉を発してしまってから、慌てふためいた。
赤の他人にしかも女性に、全部食うのか、は失礼にも程がある。誰が何をどれほど食べようと個人の自由だ。大変失礼をいたしました、と慌てていたせいで仕事で謝罪する際の口調が出てしまった。
「…… ん?」
女性の顔を正面から見て、また驚いた。綺麗な女だった。
リスが頬袋に食べ物を溜めるように、口いっぱいに唐揚げを頬張っている。そのせいで喋ることができないらしい。もぐもぐと一心不乱に咀嚼してから、傍らにあった生ビールのジョッキを豪快にあおる。そして、ぷはーと満足そうに息をついた。
親父か、と航太は感想を抱くが、今度はそれを言葉にする愚は犯さない。
「大変失礼しました……って、何が?」
特に気にとめた様子もなく、彼女は逆に尋ねてくる。いきなり見知らぬ男から話しかけられたことに対する警戒心も持ちあわせていないようだった。
「いや、だから、その……。女の人に向かって、全部食うのかは……さすがにないだろうと思って。だから何て言うか……、すみませんでした」
若干しどろもどろになりながら、謝罪した。そして、気を取り直して店主に注文を伝える。その注文内容に彼女は、あははと大口を開けて爆笑する。
「あんたこそ、十割蕎麦に野菜の天麩羅って、ダイエットでもしてんの?そんな必要なさそうに見えるけど……」
「暑いときに蕎麦頼んで、何が悪いんですか?」
微かに不快を表に出して、彼女に視線を投げる。ビールの白い泡が口髭のように鼻の下についていて、笑ってしまいそうになった。それを航太が指摘すると、苦笑して舌で舐める。その仕草が思いのほか艶かしくて、ドキリとした。
蕎麦が運ばれてきた。航太が麺つゆにワサビを入れて箸で溶かしている最中に、横からひょいと手が伸びてきて天麩羅が奪われた。
嘘だろ、と航太は愕然とする。人の食べているものを、初対面で横取りする女なんているか。しかも、奪われたのは好物の大葉だ。
んー、おいしい……と彼女は航太の気も知らず天麩羅を堪能すると、同じもの下さい、と店主に告げていた。まだ食うのか、と航太は呆れる。
「ツムちゃん、相変わらずよく食べるねえ。作ってる側からすると気持ちがいいよ」
店主が朗らかに笑う。ツムちゃん……と、確かに聞こえた。変わった名だ。渾名だろうか。
名前で呼ばれているからには、常連客に違いない。顔を合わせたことがないのは、利用する時間がずれているせいだろう。今日は仕事のトラブルが原因で帰宅時間が遅れたのだ。
「何よ。ちゃんと同じもの返すわよ。そんな恨めしそうな目で見なくたっていいじゃない。それに遠慮して一番小さいのにしてあげたでしょう?ほら、まだ茄子とか舞茸とか南瓜とか、大物が残ってるじゃない」
「……俺、天麩羅のなかで、大葉が一番好きなんです。おまけ扱いされがちで、大葉だけの天麩羅っていうメニューがないのが納得いかないくらいです」
切実な航太の訴えに、彼女と店主が同時に吹きだした。おまけと称して、航太の皿の上に大葉の天麩羅が3枚も乗せられた。
災い転じて福となす、だ。
♦︎♦︎♦︎
雨宮紬、と彼女は名乗った。
だからツムちゃんか、と航太は納得する。綺麗な名前だと率直に思った。
「それで大葉くんは?下の名前は、何て言うの?」
くすくすと笑いながら、紬はブランコを揺らす。場所は、食堂から少し離れた公園だ。結局あれから意気投合した彼女に、飲みなおそう!と誘われて深夜の公園にいる。飲みなおしたくとも、この住宅街に居酒屋はない。横浜駅まで歩くのも面倒だという意見が一致した結果の、公園だ。
「だからその、大葉くんて呼ぶの、やめて下さい。……皆月航太です」
眉を寄せる航太を眺めて、紬はけらけらと笑う。その手には、コンビニで調達してきた缶ビールが握られている。発泡酒ではない、高級な銘柄のビール。
彼女らしい、と思った。自分の欲望に嘘をつかない。食べたいものを食べて、飲みたいものを飲む。太るから、値段が高いから、と自分の願望を押し殺すことをしない。
「ふーん。で、航太くんは何歳?」
年齢を聞かれたので、27歳だと正直に答えた。紬が、自分の年齢を教えてくれる気配はなかった。当たり前か、と航太は落胆する。
想像でしかないが、かなり歳上だろうと思えた。透きとおるような肌も、引き締まった肢体も充分に若さを主張しているが、肝心の彼女の態度が歳上であることを露呈してしまっている。
「紬さんはいくつですか、って聞かないの?知りたくて仕方ないって顔してるくせに」
「……教えてくれるんですか?」
教えてあげなーい、と彼女はビールをあおるように飲んで笑う。そして、足元に置いたコンビニの袋から、するめを取りだして口に咥えた。そして航太の視線に気づいて、まじまじとこちらを見つめてきた。
「女がさ……、遠慮なしにいっぱい物食べてるのを見るのが好き、って男、意外と多いよね。航太くんも、その手のクチ?」
バレていたのか、と航太は密かに慌てる。
「好き、かもしれません。……っていうより、我慢したり取り繕ったり、演じている姿を見させられるのが嫌いなんです」
「男の前で、途端に少食になる女は多いねー。こんなに食べられなーい、って可愛い子ぶったって、いずれ自分の首を締めるだけなのにね」
なかなか手厳しいことを、紬は言う。そしてさらに厳しい真実を告げた。
「いっぱい物を食べる女が好きな男もさ、太ってる女は好きじゃないんだよね。彼女の笑顔が見たいってほざいて、ケーキやらスイーツやらプレゼントして太ったら、はいさようならって男も何人か見てきたけど……」
航太は俯いて笑う。職場で、よく聞く話だ。
「それじゃあ、紬さんは何かしてるんですか?唐揚げにラーメンに……、かなり召し上がってましたけど……。よくあれだけ食べて太らないなって感心してました」
するめを咥えたまま、紬が意味ありげに妖しく笑った。
「セックス」
いきなりその単語をだされて、どう反応していいのか、わからない。恋人との情事に励む、という意味ではないだろう。案の定、肉体労働者だからねー、と彼女は涼しい表情でするめをむしゃむしゃと噛んでいる。
薄々気づいていた。彼女の持つハイブランドのバッグは、今の時代若い女性の所得でとうてい所有できるものではない。その高価なバッグを、公園の地面にじかに置くなんて真似を平気でする。同じようなバッグをいくつも所有している証拠だ。
「食堂で出逢った綺麗なお姉さんに、航太くんが浮かれているようだったから、先に教えておこうと思って……。興味があるなら、買ってくれていいわよ」
完全にバレている。浮かれていたのは、事実だ。こんなに綺麗な女性に、飲もうと誘われて期待しない男はいない。
袋から酒を取りだして、飲んだ。甘い柑橘系のカクテル。これをコンビニの冷蔵庫から取りだした時に、思いっきり彼女に笑われた。
どこにあったっけ?と、紬はバッグから名刺を探しだして、航太に手渡してくる。
『西麻布エスコートサービス』と流麗な文字で記載されていた。零子という名は源氏名だろう。その電話番号を、航太は目に入れないようにする。
「そんなつもりはありません。……その必要は、ないです」
差し出された名刺を、やんわりと押し戻す。ふふ、と困ったように笑う彼女を見て、傷つけてしまっただろうか、と心配になった。
「……高級風俗嬢ってヤツですか?」
手元の缶に視線を落としながら、航太は尋ねる。
「そうだねー。今の時代、そもそも低級がいないからねー。高級ってことになるのかな」
低級がいない。つまりは性産業そのものが、仮想空間に移行しているのだ。
セックスもオンラインで済ませる時代になったと聞けば、昔の人は悪い冗談かと眉をひそめるにちがいない。そして、そんな時代に生まれなくてよかったと胸を撫で下ろすのだろう。
触覚再現デバイスと呼ばれる指先に装着するセンサーのおかげで、実際の行為となんら遜色ないと豪語する人間は多い。
悪いことではないのだ、と航太は認めざるを得ない。
女性が性被害にあう心配がない。もちろん性的に侮辱されるなどの言葉の暴力は、仮想空間でも存在する。それでも、望まない妊娠をする可能性は皆無であり、乱暴されそうになった場合はログアウトしてしまえばいい。女性の安全を確保するという意味での、利点は大きい。
その時代においての、高級風俗嬢……。
突然、背中をバシッと叩かれた。航太は思いきりむせそうになって、咳き込む。
「そんな悲愴感溢れる顔しないでよ。私が可哀想な女みたいじゃない。男と寝ることが、必ずしも性的に搾取されているとは限らないでしょう?本人が納得して楽しんでやってるんだから、いいじゃない?」
「…… 楽しいんですか?」
「こんな美貌に生まれついてしまったからには、利用しなきゃもったいないでしょ?男と寝るのも好きだし、贅沢するのも大好き。食べたいものを食べて、寝たい男と寝て、買いたいものを買いたいだけ買うの」
「客って、選べるもんなんですか?」
紬は、一瞬だけ沈黙した。そして、ある程度はね……と首肯する。
「それで?航太くんは?セックスはオンライン派?今の子って、オンラインで済ませてから付き合うのが主流なんでしょう?」
やっぱり聞いてきた。この話題から逃げたい。
「…… 黙秘します。プライバシーの侵害です」
実際のところ、経験はある。最初は現実に付き合っていた彼女だったから、控えめに言っても最高だった。その次は……最悪だった。そしてその次はさらに輪をかけて最悪だった。
ふふ、と紬は笑って、質問を変えてくる。
「じゃあ、職業訊いてもいい?それも、プライバシーの侵害?」
いいですよ、と航太は自分の荷物から名刺を取りだそうとする。それを紬が制止する。
「待って。当ててみてもいい?……接客業でしょう?高級レストランのウェイターとか?」
当たらずとも遠からず、だ。
「接客業は、正解です。どうしてそう思ったんですか?」
「普通の男の子……って感じで、すごい女慣れしてるっていう感じでもないのに、妙に所作がスマートだから」
例えば、と紬は例をあげる。
「食堂で椅子から立ったときに椅子を元の位置に直してくれる。引き戸を開けて、暖簾が顔に触れないように指で持ちあげてくれる。自分の方が出口に近い位置にいるのに、私を先に通そうとしてくれる。コンビニのレジ袋を、当たり前のように持ってくれる。……それって普段から行っていないと、なかなかできないことだもの」
すごい観察眼だ、と航太は感銘を受ける。無意識で行っていたから、まったく記憶に残っていない。そして、紬に正解を告げた。
「ホテルのフロントクラークです」
