言葉の中には、「人」がいる。人間だけが、「言葉の力」を使うことができる。
昔、「バベルの塔」という話を聞きました。
世界各地から人が集められ、
天まで届くような高い塔を建てようとした。
もっと高く。
もっと天に近く。
やがて、人間は神にさえ近づけるのではないか。
そんな人間の傲慢さに、神は怒った。
子どもの頃に聞いた時には、何となく不思議な昔話だと思っていた。
でも、大人になって考えてみると、
この物語には、人間の性のようなものが見えてくる。
知恵を持つ。
技術を持つ。
できなかったことが、できるようになる。
すると人間は、
「自分たちには、何でもできるのではないか」
と思い始める。
しかし、
人間は、神にはなれない。
バベルの塔とは、そんな人間の傲慢さを戒めた物語なのかもしれない。
そして、もう一つ。
私には、ずっと引っ掛かることがあります。
神は、塔を壊すだけでは終わらなかった。
人間から、「言葉」を奪った。
なぜだろう。
なぜ神は、人間から「言葉を奪った」のだろう。
「はじめに言葉あり」
そんなことを考えていたら、
聖書にある有名な一節を思い出した。
「はじめに言葉あり」
なぜ、
「はじめに人あり」ではないのだろう。
なぜ、
「はじめに知恵あり」でも、
「はじめに力あり」でもないのだろう。
バベルの塔では、言葉を奪ったのである。
そして聖書には、
「はじめに言葉あり」とある。
この二つを並べて考えてみると、
急に「言葉」というものに興味が湧いてきた。
言葉とは、
人に何かを伝えるためだけにあるのだろうか。
どうも、それだけではないような気がする。
人は、自分自身とも言葉を交わしている。
私たちは、誰かと話していない時にも、
頭の中で自分自身と話している。
「あれでよかったのだろうか」
「どうして、あんなことを言ってしまったのだろう」
「なぜ、あの人の一言が気になるのだろう」
「自分は、本当はどうしたいのだろう」
言葉にしながら考え、
言葉にしながら、
自分の感情に気づいていく。
でも、
いつも答えが出るわけではない。
「何だろう、この気持ちは」
自分の気持ちなのに、
自分でも分からない。
それどころか、
何が分からないのかさえ、分からないことがある。
でも、
「自分には、まだ分かっていない何かがある」
ということには気づける。
そこに人間らしさを感じる。
分からないから考える。
考えても分からないから、
また考える。
そして時には、
考えることをやめてみる。
散歩をする。
電車の窓から景色を見る。
人と話す。
昔の写真を眺める。
何もしないで、ぼんやりする。
すると何日か経って、
まったく別の出来事とつながることがある。
「ああ、そういうことだったのか」
と、突然気づく。
人間の思考は、
一直線に答えへ向かっているわけではないのかもしれない。
無駄や寄り道や余白の中で生まれ、
その余白の中で、ゆっくり育っていくようなきがする。
AIは、「正解」を出す。
今の私たちの目の前には、
とても便利なものが現れた。
AIである。
分からないことを聞けば、
すぐに答えてくれる。
文章を書いて欲しいと言えば、数秒で書いてくれる。
タイトルを10個と言えば、10個出してくれる。
「もっと感動的に」
「もう少し短く」
「分かりやすく」
そんな注文にも正確に、敏速に応えてくれる。
AIは、「正解」を出す。
正確に言えば、
正解らしきものを、
驚くほどの速さで差し出してくれる。
私自身も、AIを使って文章を書いている。
使えば使うほど、
「これはすごい道具だ」と思う。
だから、AIを否定する気持ちはまったくない。
むしろ、これからの時代、
AIを武器にすることは大切である。
でも、だからこそ気をつけたい。
AIに答えを求める事と、
AIに考えることまで、預けてしまうことは違う。
AIがすぐに正解を出してくれるからといって、
人間まで、
すぐに正解を出そうとしなくてもいい。
人からもらったプロンプトでは、
自分の思いまでは伝わらない。
最近、
「このプロンプトを使えば、いい文章が書けます」
というものをよく見かける。
もちろん便利である。
文章の型も整う。
それらしい答えも出てくる。
でも、
人からもらったプロンプトの中に、
自分の思考までは入っていない。
なぜ、自分はこの出来事が気になったのか。
なぜ、この言葉だけが心に残ったのか。
なぜ、ほかの人は通り過ぎたのに、
自分だけが立ち止まったのか。
その「なぜ」は、自分の中にしかない。
プロンプトは借りられる。
文章の型も借りられる。
知識も借りられる。
AIの力だって、
大いに借りればいい。
でも、
自分の心が動いた理由だけは、
人から借りることができない。
そこには、
考える時間がいる。
ぼんやりする時間がいる。
言葉にならない時間がいる。
私は、それを「余白」だと思っている。
80歳の男性の人生を聞いて、
その意味が少し分かった。
先日、傘寿を迎えたある経営者の人生を、一冊の本にまとめた。
18歳で信州の雪深い故郷を離れ、
名古屋へ出て、我武者羅に働いた。
やがて小さな工場を持ち、
会社をつくり、
社員を雇い、
家族を守り、
80歳になった。
その人の人生を何時間もかけてインタビューした。
面白いことに、
人生を振り返って出てくるのは、
大きな成功談ばかりではなかった。
中学校の校歌。
会社の食堂で、
今は亡き友人と食べたラーメン。
初任給で母親を明治村へ連れて行き、
一緒に食べたすき焼き。
30年来の付き合いになる板金屋の大将。
初めて社員旅行で行った北海道。
会社を辞めたことを、
妻に事後報告した夜。
M&Aを決め、
一人で飲み明かした夜。
一つ聞くと、
また、一つ思い出す。
写真を一枚見せると、
写真には写っていない思い出が蘇ってくる。
そして、時々、黙る。
「沈黙」が、言葉になる時がある。
私はインタビューをしていて、
この沈黙を大切にしている。
質問をしたあと、
すぐに答えが返ってこないことがある。
10秒。
20秒。
もっと長い時もある。
若い頃のことを思い出しているのだろうか。
頭の中で、
誰かの顔を探しているのだろうか。
何と言えばいいのか、
言葉を選んでいるのだろうか。
こちらが気を利かせて、
次の質問をすれば、
沈黙を埋めることはできる。
でも、
あえて待ってみる。
すると、
ぽつりと一言が出てくる。
その一言が、
用意していた質問への答えより、
ずっと深いことがある。
考えてみれば、
沈黙とは、何もない時間ではない。
言葉になる前の感情が、
そこにある。
忘れていた記憶を探している時間がある。
自分でも知らなかった気持ちに、
触れようとしている時間がある。
だから、
人の話を聞く時には、
言葉だけを聞いていてはいけないのかもしれない。
時には、「沈黙」が言葉になる。
80歳の男性にも、
そんな時間があった。
話す。
思い出す。
また話す。
そして、黙る。
私は、答えを急がなかった。
その沈黙もまた、
その人が生きてきた80年の一部だと思ったからである。
会社をつくる前。
名古屋へ出る前。
18歳で故郷を離れる前。
もっと、もっと遡っていく。
最後にいたのは、
雪深い故郷に暮らす、
何者でもない一人の少年だった。
その少年のそばには、
母がいた。
しばらく沈黙があった。
そして、80歳の男性がぽつりと言った。
「お母ちゃん、ありがとう」
なぜ、「母」ではなく「お母ちゃん」だったのだろうか。
私は、その言葉が妙に心に残った。
「母に感謝しています」ではなかった。
「母親のおかげです」でもなかった。
「お母ちゃん」だった。
たった一言である。
でも、その一言を聞いた瞬間、
目の前にいる80歳の経営者が、
雪深い故郷にいた時の少年に戻ったような気がした。
もしAIに、
「80歳の男性が、亡き母への感謝を語る感動的な文章を書いてください」
と入力したら、
もっと美しい言葉をつくってくれるかもしれない。
AIだって、
「お母ちゃん」
という言葉を出すことはできる。
でも、
その「お母ちゃん」という一言に、
80年という時間を宿らせたのは、その人自身である。
雪の降る故郷がある。
18歳の別れがある。
名古屋で働いた日々がある。
初任給がある。
明治村のすき焼きがある。
会社をつくった年月がある。
妻がいる。
子どもがいる。
別れた人たちがいる。
確かに、80年間生きてきた、
その人にしかない時間がある。
だから、
同じ「お母ちゃん」という言葉でも、
重さが違う。
AIの時代だからこそ、人間まで効率化しなくていい。
AIは、
これからもっと賢くなる。
文章も、
企画も、
翻訳も、
今よりずっと上手になるだろう。
だったら、
人間がAIと競争する必要はない。
AIが得意なことは、
AIに任せればいい。
その代わり、
自分にしか感じられないことを、もっと大切にしたい。
分からなければ、
少し考えてみる。
答えが出なければ、
そのまま置いてみる。
心が動いたら、
なぜ動いたのかを考えてみる。
うまく言葉にならなければ、
無理に言葉にしなくてもいい。
沈黙してもいい。
その余白の中から、
自分でも知らなかった自分が、
ひょっこり顔を出すことがある。
そして、
そこまで考えてからAIに渡せばいい。
AIは、
広げてくれる。
磨いてくれる。
違う角度から問いかけてくれる。
時には、
自分では見つけられなかった言葉を、
一緒に探してくれる。
AIを使うほど、自分で考えなくなるのではなく、
AIを使うほど、自分という人間を深く知っていく。
私は、
そんな使い方をしていきたい。
バベルの塔で、
なぜ神は「言葉」を奪ったのだろう。
本当の答えは、
私には分からない。
でも、分からないから、
考えてみる。
「はじめに言葉あり」とは、
どういうことなのだろう。
それも、
まだ分からない。
分からないことを、
分からないまま、
自分の中に置いておく。
その余白もまた、
人間が考えるということなのかもしれない。
80歳の男性が、
長い沈黙のあとに口にした、
「お母ちゃん」。
その一言を聞いた時、
なんとなく、
言葉というものが、
以前より少しだけ面白くなった。
言葉の中には、「人」がいる。
そんな話でした。
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