居心地の悪さを放置しない。大人になって見直した「自分を大切にする距離感」
「なんでもいいよ。」
その言葉が続き、私は友人と距離を置いた。
彼女とは中学時代からの付き合いだ。
高校も一緒だったが、大学からは別々の道へ進み、お互い全然違う職種に就いた。看護師時代は不規則勤務ということもあり、週末休みの彼女となかなか都合が合わず、貴重な休みの合う日を探し出して会っていた。
私は交友関係が狭く、友人も少ない。
だからではないが、どこか遊びに行きたいと思ってまず誘おうかなと思うのが彼女だった。彼女の車の助手席に乗り、運転してもらいながら休日を過ごす。最初から行く場所は決めず、気の向くままにあちこち移動していた。
だが、徐々に彼女といる時間に居心地の悪さを感じ始めた。
「行きたいとこある?」
と私が言うと、
「どこでもいいよー。」が彼女の決まり文句。
それならと知恵を絞り、私からここはどう?あそこはどう?と提案し、ショッピングをしたり、食事をしたりして過ごした。
車内でも、彼女から私の近況を聞くでもなく、沈黙が流れることが多かった。
しびれを切らした私がようやく口を開く、というのが大体の流れ。話題を考え、話を盛り上げようと努めた。
「最近私これ好きなんだー。」
と私が言うと、
「私好きじゃなーい。」と彼女は大抵はっきりとそう言った。
「いいね」とか共感を押し付けたいわけじゃない、でも真っ向から否定されるのは正直辛かった。その後何を言えばいいかもわからず、気持ちが沈んだこともある。自分が好きだと思う人や物を否定されるのはつらいものだ。
行きたい場所のリクエストがなく、私が「ここ行かない?」と言うと、
「いいよー。」と言ってはくれるが、明らかに楽しそうではない表情の彼女。なんか、自分が行きたくもない場所に連れ回しているような罪悪感すら感じてしまった。
『決断疲れ』という言葉があるが、『何かを決める』と言う行為はかなり脳のエネルギーを使う。それが例え重大なことではなくても。
彼女と会った後に感じる疲労感や居心地の悪さは、決断疲れもあるのかもしれない。
そしてよく、人との関係を見直すときに『その人といる時の自分が好きかどうか』を考えると良い、という話を聞いたことがある。
その場しのぎの楽しさを演出できても、普段の自分ではない姿をし続けなければいけないのならば、その関係は長続きしないんだと思う。
話を盛り上げようと無理に明るく振る舞ったり、否定されて傷ついた心を「平気な顔」で隠したり。そうやって演じている時の自分を、私はあまり好きになれなかった。
「誰かと会った帰り道、なぜかドッと疲れている」
もしそんな経験があるなら、それは相手のことが嫌いなのではなく、知らず知らずのうちに違う自分を演じて、心がSOSを出しているからかもしれない。
もっと若い頃は、自分のエネルギーをすり減らしてでも、友達の輪を維持することに一生懸命だった。けれど、限られた大人の時間の中では、お互いが自然体でいられることの方がずっと価値がある。年齢を重ねるにつれ、そうやって人間関係の「量」よりも「心地よさ」について深く考えるようになった。
色々書いてきたが、私は決して彼女を嫌いになった、ということでもなく、友達をやめたということでもない。ただ、会うのを控えようと思っただけである。だから、また会いたくなったら会うかもしれない。
ここまで来るのに相当悩んだ、長い付き合いなのに自分は薄情なんじゃないか、と自分を責めることもあった。だが今は自分を疲弊させない選択をしたい、居心地の悪さを放置しないようにしよう、と決めたのだ。
自分を大切にするためにも。
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