あそぶオトナになるための「教養」あるいはぜんぜん違うお話 -Play&Learn 2025(#3)プロローグ-
おつかれさまです。W2ナニカソンです。
今日でなければならない記事を、どうにかこうにか公開しました。読んで、そして横浜みなとみらいへ!
オープン社内報として、取り組み・思いを社内外に発信!
はじめに
この記事は、Play&Learn 2025(#3)で行うプレゼンの序章のようなものです。
前回2024(#2)のプレゼンは名乗り
前回はこんな発表をしていました。

ほとんど自己紹介というか…「やあやあ我こそは…」みたいな内容でした。
さて、今回はどうしよう
出展申し込み時に予定テーマをお伝えしなくてはなりません。そこでひねり出したのがこのタイトル。

あそぶオトナになるための「教養」あるいはぜんぜん違うお話
伝えたい輪郭はありつつ、確固たる絞り込みには至っていない段階。ココロに漠然と浮かんだものを「とりあえず」コトバにしました。
そもそも私たちは
私たちは、
「あそび」と「まなび」の垣根をぶっ壊したい
と、ときどき言葉にしながらジタバタしてきました。

しかし最初から、それと意識して始めたわけではありません。
🎃「ボードゲームとかありですか!」
🤡「なんか面白そうだからやろう!」
ほぼこんなかんじ。
今思えば…しかし過ぎたこと
「なんか面白そうだから」の根っこで、なにか原点になる「垣根をぶっ壊したい」思いがくゆっていたのも事実です。が、そこを後付けであまり詳しく言葉にしても、もはや過ぎたこと。

ざっくり、
「なんか面白そうだから」ではじまった
「垣根をぶっ壊したい」思いも最初からあり、動力源の一つだった
けど、キレイに自己分析をして、自覚的に始めたわけではなかった
とご理解いただけば、大体あってます。
あそぶオトナになるための「教養」
あそぶオトナになるための「教養」
これは、
「あそび」と「まなび」の垣根をぶっ壊したい
から派生した、掘り下げた一つの方向性のテーマです。
「あそび」と「まなび」の垣根とは
そもそも「あそび」と「まなび」の垣根とはなんでしょう。
勉強が終わっ「たら」あそんでもいい(???)
とか。
子ども「らしく」あそぶ(???)
とか。

もう〇〇は卒業する/した(???)
だとか。
大前提として、「あそび」と「まなび」はわかれた世界の住人みたいに語られます。子どものころから、それこそ子どもゴコロに不思議でした。正しくないと断じたいわけでもなく、ただ「なんか変だな」と思ってきました。
オトナも子どもも門番だった
全員ではありませんでしたが、ある程度の比率のオトナと、そのオトナを見習って一生懸命生きている同輩の子どもたちさえ、両者を「わかたれたそれぞれの牢獄に入れて、絶対に混ぜるな」と立ちふさがる門番のようでした。

それでも(「あそび」は別の世界にいるとしても)「シゴト」と「まなび」はむしろ同じ世界にいるのだろうと、子どもゴコロに思っていました。その二つは地続きで、むしろ近いものだと。
しかしこれも違った。いざオトナになって見回すと、なぜか「シゴト」と「まなび」の間にも、門番が立っていました。「混ぜるな危険」と誰だかわからないけど「みんな」が言いました。
「シゴト」と「あそび」に至っては「お互いに一度も顔も見たことないんじゃないか?」と思うほど、遠く隔てられているようでした。
息苦しくて、血のめぐりが悪い世界
そう、私なりにひとかどのオトナというものになってみて。ある程度はがむしゃらにがんばる修行的な時期もあって、なにかとぶつかったり乗り越えたりして、シゴトの意味を自分なりにとらえなおし、また迷ったりして…。
そして、ふとぐるりと周囲を見渡してみると。
対話がうまくできなかったり、自分の本来のチカラを生かせなかったり。苦しいことがなぜかくりかえっていて、常におぼれている人がいるように見えました。がんばりすぎた人々は、ココロも身体も病んでしまったり。

私にはそれは息苦しくて、血のめぐりが悪い世界に見えました。
めぐらない世界、そこに垣根があるから
いろいろな困りごとの原因になっているものはたった一つではないかもしれません。たくさんの課題が複雑に積み重なっているのかも。
だけど、このめぐりの悪さに着目したとき、私には子どものころから感じてきたあの門番たちが、自分で自分を苦しめるような悪さをしているからなのではないか、と思えて来ました。
だけど。コマッタ。
私はこの直感の根拠を、第三者が理解してくれるような客観的な言葉で伝えるすべがありません。だって直感なんですもの。
じつは、この、まだまだフワッとした、
「めぐりの悪さ」
というフレーズにたどり着くのさえ、それなりに時間がかかったほどでして…。さらに前段階の直感の姿、もっと荒々しかったのです。
「と・に・か・く窮屈だ!」
「息苦しい!」
「よくわからんけど動きが悪い!」
という違和感。
これを、がんばって少しだけ解きほぐして出てきたものが、「めぐりの悪さ」なのです。まだ、伝わらないですよねぇ。

気づきをわかるように伝える…橋を架けるには、まだ足りない…。
ひょんなことから
いろいろな意味で、ひょんなことから私はボードゲームの開発…を通じて、某有名すぎるコピーのように、「おとなも こどもも おねーさんも。」ボードゲームに関わる世界にいきなりディープに出会いました。
「あそんでハマる」をすっとばして、いきなり開発という入り口から入るのはやや珍しいパターンかもしれません。おかげさまで、いろいろな出会いが超特急で一気にやってきました。最初に出展したイベントで「研修ゲームラボ」の関係者の方に声をかけていただいたのもその一つです。
別の経路のコミュニティ経由でも知り合いの方が既に参加されていたり、焼そばトーストさんも参加されていたり、懐かしい。
これらの出会いを通じて、気づけたことがありました。
それは、
これまで誰かに伝え難かった垣根の存在と、それを「越える」ことの意味
を考える上で、
ボードゲームはとてもよい機会、よい素材、そして武器になるものである
…ということ。
なんなら、課題そのものを伝えなくてもよい。別の切り口で、うまくその場にボードゲームを取り入れるだけで、結果的に参加する人々がなにかを「越える」ことを助けてくれるかもしれません。
通じる言葉をもとめて、原点をたどれば
さらにつきつめて、活動を深めていくうちに、そもそも「越える」をやりたい原動力の部分に深く関わりそうなきづきのかけらがたまってゆきます。
たとえば、本当にまなぶのが好きなんだな…って敬服するオトナは、オトナになってから「さあやるぞ」と習慣化してまなんでるというより、子どものころから「ある意味だらしなく」「(「あそび」と「まなび」の)けじめなんかつけずに」まなんできたのではないか、とかそういうことです。
「まなび」は、そもそも最初から「あそび」でもあった…
だとしたら、それは外からつくることができない
そして、今時点で敬服されるには遠く及ばないとしても、私のなかにもそのように会得してきたものがあって、それは子ども時代にもいくつかの出会いに恵まれたからだなと気づきなおしたりもしました。
その出会いは「教養」と呼ばれるもの
フランスの社会学者、ピエール・ブルデューによる「身体的文化資本」という概念があります。
ちなみに私自身は「22世紀を見る君たちへ」こそ読みましたが、「ディスタンクシオン」は未読です! 読みかじりな紹介で失礼します!
それは日常では「教養」と呼ばれたりもします。
越えたい、越えたいと思う私は、相対的に「あそぶようにまなび」「苦しいこともげらげら笑う種類のまなびやあそびをよく好み」「あそぶようにシゴトし」「シゴトが片付けばよいというより、とにかくまなんでいたい、むしろ渇望している」どちらかといえば変わり者のオトナのようです。
正直、気づいたらこうなっていたのですが、それはものすごく雑に、あえて抽象的にまとめるとたくさんの「教養」との出会いに恵まれたからだと今は思っています。
そして、その「教養」というのは、単に「物知り」になるというような狭義のことではなくて、例えば五感…身体感覚、対面する他者など、一つに寄らないあらゆる媒体で、出会ったことのないものに出会ってショックを受ける体験と内省の積み重なりなのだと。
身体的文化資本の格差がどうのこうの
身体的文化資本の話題は格差というテーマで語られることも多いものです。読みかじりなりの理解の範囲でも、むしろ、それをあぶりだすために名付けられた概念なのかもしれません。
他の2つの文化資本(客体的文化資本、制度的文化資本)よりも、とくに生まれた地域や家庭の影響を受けやすく、子どもの時の体験が占めるウェイトが大きいとされていることから「とりかえしがつきにくい」「見えにくい」ものとして警鐘が鳴らされたり。
教育の格差は、学校に来てくれさえすれば発見はされる。「この子は頭がいいのに家が貧乏で大学に行けないのは可哀想だ」と誰もが思うし、本当に優秀なら奨学金などで支援の道もある。しかし、「身体的文化資本」の格差は発見すらされない。親が美術館やコンサートに行く習慣がなければ、少なくとも小中学生の段階では子どもだけで、そこに行くということは起こらない。
もちろんそれ自体は社会課題として重要なことの一つです。ただ、もっと残酷な大前提として、もともと世界というのは不条理で無情で、人間のためにはできていない。
その中で、だからゼロイチでただ諦めるのではなく、たとえ理想と今はかけ離れていても「では、今私たちになにができるか」で少しずつ乗り越えてゆくことを、歴史も人も、くりかえしてきています。
私に「あそび」と「まなび」のつながりを確信させてくれたものが仮に「教養」たちであり身体的文化資本なのだとしたら、そこには、「あそび」と「まなび」を「越える」ヒントも隠されているように思います。
「教養」のコンパクトでインパクトな箱庭
研修とボードゲームをつなぐ取り組みを見聞きするたび、直感的な意味での納得感は最初からありつつも、他方でなぜこれほど多くの人がこの組み合わせに可能性を感じるものなのか、不思議な気持ちもありました。
界隈にただようあまりの情熱に、
「わかる! でもなんでだろう?」
がチカチカと明滅していました。
でも、その疑問の一部に私なりの説明がつき始めてきました。ボードゲームはこの見えづらい、会社であれば採用の場においてすら十分に意識されているかわからない身体的文化資本の今のありようをあぶりだし、お互いにふりかえり見つめ合わせ、再履修させるには極めてうってつけなのです。
だから、人々は熱中し、そこに道が開ける可能性を模索する。

ボードゲームは、人と人があるルールの中で、アナログとしての身体性も伴いワクワクと楽しめるように設計されているがゆえに、文化と対話の追体験のコンパクトでインパクトな箱庭です。仮にそのように意識されてつくられても、つくられなくても。
つまり、あそぶオトナになるための「教養」そのものでもあるのです。
そして全然違わないお話(プロローグのおわり)
私たちは、少なくとも私は、
「あそび」と「まなび」の垣根を越えたい
それはつまりシゴトとそれぞれとの間の垣根も超えたい
「あそび」と「まなび」は本来はつながり合っているのに、今は隔てられ「すぎ」てしまっていることで、その一部のチカラを失っている
それらは必要なときに一時的にわけてもいいけれど、交わることが近畿であるかのようにとらえられているとしたら大きな誤解である
例えば物事を「守・破・離」の順に体得するプロセスにおいて、「守」において便宜的に分けることをけじめとしてもよい
けど、「離」に至っては「そんなの関係ねぇ!」と打ち壊したい
(いや、それこそが「守・破・離」の「破」なのであるが)
ということを、考えてきました。
そこからボードゲームと研修を考えると
「越える」には「教養」が助けになる。
身体的文化資本としての「教養」の再履修にボードゲームはぴったり!
文化と対話の追体験のコンパクトでインパクトな箱庭
あそぶオトナになるための「教養」そのもの
ならば、ボードゲームと研修を組合わせるなら、ただそこに並んで手を撮り合うだけじゃなくて
それら自体の垣根も極限までグニャグニャに壊してゆきたい
当日は…
そのために今なにしてる、これからどうする。
そんな「今から未来の話」がしたいのです。
参加はこちらから。
日時: 2025年3月8日(土)10:00~18:00
会場: ビジョンセンター横浜みなとみらい701+702
(W2ナニカソン・ワクワク魔人S)

