2026年を迎えて、いま考えていること
はじめに
正直に言って、この年末年始は、かなりジタバタした年越しになりました。その理由をまとまりのよい言葉で語ることは、いまの私(たち)にはとても難しい状況です。
ただ、これまで3年余り続けてきた「新規事業」と名のつく模索にとって、2026年という新たな一年が、
崖っぷちの転機
になることだけは間違いないと考えています。
昨年までも、「新規事業」の取り組みは壮大な模索ではありました。
仮説を立て
挑戦の内容や比重を調整し
検証する
というくり返しを、粘り強く続けてきました。
しかし2026年は、それとは少し次元の違う覚悟で、
挑戦の質そのものを切り替える
必要に迫られています。
具体的にどのように切り替わるかについては、現時点では可能性の部分も含みますので、言及しきることはできません。
そのように切り替わらなければならない(可能性が高く浮上した)背景についても、ここでは割愛いたします。
(ですから、この先の内容には、わかりにくい部分もあると思います)
本当は、個人としてさまざまな感情も動きます。ですが、感情を動かしている暇さえ、もはやありません。
2026年について
ただ一つ言えることは。
2026年に、今の予測通りに挑戦の質が変わるとしたら、それはとても大きな挑戦になるということです。
自分(たち)ががむしゃらに、
いわゆる「血のにじむような努力」で
エンジンをふかし続ければ
それだけで達成できる性質のものではありません。
むしろ、
私(たち)の外側の方との、ご縁や関わりが駆動輪となって
そこに力が伝わることで、初めて形になるかどうか
という挑戦です。
だからこそ、
これまでの私(たち)の挑戦に何かを感じてくださっている方
あるいはこれから出会い、何かを感じてくださる方
がいるならば、このメッセージを受け止めていただきたいのです。
私(たち)が提供できる価値と引き換えに、これまで以上に踏み込んで、胸をお借りしたいことがいくつもあります。
依存や甘えにならないよう自戒を持ちつつ、勇気を出してお伝えしなくてはなりません。
ここからは、お願いです
これは、
「一緒にエンジンをふかしてほしい」
という話ではありません。
ただ、
有限で、過ぎてしまえば二度と戻らないであろう、2026年
という時間の中での、ささやかともいえるし、ずうずうしいかもしれないお願いです。
ほんの少しで構いません。
私(たち)への注目や関心の度合いを、引き上げていただきたいのです。
たとえば、たまたまのご縁の重なりで、
「一緒にこんなことができそうだな」
と思う瞬間が訪れたとき、
「まあ次でいいか」
「こっちでもいいか」
となるかもしれない場面で、
「次はないのかもしれない」
と、ふと思い出していただき、私(たち)に機会をつなぐ声を、具体的にかけていただけないでしょうか。
そこから先、必要な努力やパフォーマンスができるかどうかは、私(たち)が頑張らなくてはならない、やるしかない領域です。
ただ、もしも、私(たち)に向けて、
架けられるかもしれない橋
の姿が浮かんだなら。
そしてそれが、
あなたにとっても、心躍るもの
であったなら。
2026年の間、私(たち)の顔を少しでも強く思い出し、声をかけていただけたら本当に助かります。
分岐点に立っている自覚
もちろん、これまでにも既に、多くの方から身に余るほどのよいご縁をいただき、今があります。
また大前提として、これは本質的には私(たち)の課題です。
傍から見れば「知ったことではない」ことでもあります。
それでも。
きっかけが生まれたときに、実現までこぎつける可能性を、2026年にどこまで高められるのか
いざ差し伸べられたなら、その手を正しく取り、それ以上のものを打ち返せるか
あるいは、少し見方を変えて、
思わず手を差し伸べたくなるほどの、価値や可能性を
私(たち)の方から強く示せるか
それらの累積による決定的な分岐点は、いや応なく、今年訪れます。
分岐の先で、この3年余りの取り組みが、
「そういえば、あんなことをやっていた人(たち)がいたね」
と語られるだけの、過去の儚い記憶に変わるのか。
あるいは、語られることすらなく、静かに閉じていくのか。
そうした無慈悲な可能性も含め、今年は否応なく、現実に向き合う年になるでしょう。
そのため、
この模索を、少しでも高い可能性をもって続けられる道はどこにあるのか
そこにたどり着くには、何が足りないのか
この模索を通じて、苦しんででも届け続けたい未来は、そもそもどのようなものなのか
を、やや気持ちが悪くなるほど、探っています。
手を差し出してもらえるなら
繰り返しますが、最後は自分(たち)で立ち向かわなくてはなりません。
それを同じ目線で背負う義務は、どなたにもありません。
それでも、もしこの文章に目を止めたあなたが、
ここまで読もうと思うほどには、関心を持ってくださったなら
あるいは、既に私(たち)のこれまでを知ってくださっているなら
そのご縁の中で、自然に動く何かがあれば。
どうか無理のない範囲で、その手を差し出してください。
甘えだと思われても、誤解されても(あるいは誤解ではないのかもしれませんが)、それも覚悟の上です。
伏して、あるいは胸を開いて、率直にお願いすることで、もし少しでも開く未来があるなら。私(たち)はそれを、泥にまみれてでもつかみ、その先の景色を見たいと切実に考えています。
少し具体的な話
直近でいただけると嬉しい機会は、
私(たち)のゲームを含めた体験会
さらに一段、体験設計したワークショップ
を開ける場です。
それに限らず、
「こんなことをやってみませんか」
と声をかけていただけるのも、心から大歓迎です。
補足として
まず、ここまでの模索や試行は、
現在の環境や立場があってこそ続けられてきたもの
でもあります。
このような取り組みを許容し、支えてくださっている社内の皆さまがいることにも、この場を借りてあらためて感謝を伝えたいと思います。
他方で、これまでの私(たち)の活動について、社外の方からは、
個人の熱量だけで進めている課外的な取り組み
という姿は想像できず、
会社として一定の力を入れて進めている活動のアウトプット
に見えていた、との言葉をいただいたこともありました。
これは一定の名誉を感じるフィードバックではありますが、同時にギャップとして悩ましい側面もあります。
実際には、
担当者一人ひとりが、本業への従事と価値提供を100%行うことを前提とした中で
多くの(とくに「時間」や「場所」の)制約を抱えつつ
ある種の、属人的な熱量駆動で進めてきた
ものでもあります。
正直なところ、
外から見えているよりも、かなりカツカツな中で
創意工夫によって結果を積み上げてきた現実
があるということです。
そのため、ここまでお願いした結果、せっかく声をかけていただいても、タイミング等の理由で、それにお応えできないケースもおそらくあります。
それにより、
積み上げてきた信頼を、かえって損ねてしまうリスク
があることも承知の上で、それでも声を振り絞っているのは、
もう後がない
からです。
なお、この文章で意識的に「私(たち)」という表現を使っています。詳細は明記しませんが、体制面でも若干の変化が起きています。
それもあって、いざ差し伸べていただくご縁や手に、十分に、あるいは期待される形で報いることができるかどうかは、より未知数になっています。
期待に応えられないかもしれない未来は、率直に恐ろしいです。
それでも、2026年に
それでもなお、2026年、広い意味での仲間を必要としています。
広い意味での仲間とは、必ずしも直接、何かをしていただくことだけではありません。
「自分もこういう挑戦をしている」
「あなたにも闘い続けてほしい」
そう声をかけ続けていただけるだけでも、
極限の局面で食いしばれるか
新たな選択肢をこじ開けられるか
が変わってきます。
2026年。
思い出していただいた瞬間に、できれば惜しみなく振り向いて、笑顔で手を振って声をかけてください。
伏して、お願い申し上げます。
ずいぶん重たい年始の挨拶となってしまいました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
