国体を守り抜いた大楠公と『建武中興』に学ぶ「和の政治観」~「大楠公」と称された楠木正成は悪人か?忠臣か?~ー『和の国のかたち』32ー
こんばんは。高杉です。
日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。
小学校の教員としても働かせていただいております。
ついに夏休みに突入しました!
教員は、
ふだんはなかなか年次休暇をとることができないので
ここぞとばかりに長期休業中にとります。
毎日、執筆や教材研究をしております。
家族と過ごす時間も長くとることができ、
やりたいことを毎日できています。
この束の間の余暇を大切にして、
我が国を立て直すために
邁進してまいります。
引き続き、
『和だちプロジェクト』を
よろしくお願いいたします!
前回までは、
政治の混乱を自ら招き、自らが皇室に入ろうとする暴挙にも出て、国内が混乱に混乱を重ねた政治面では最悪な「室町」という時代についてお話をしてきました。
今回は、
その政敵である足利と最期の最期まで戦い抜いた楠木正成公について
お話を進めていきます。

1)後醍醐天皇の祈りに共鳴した楠木正成公

1332(元弘2)年。
鎌倉幕府は、すでに財政が破綻状態に至っていました。
「幕府」が財政破綻に陥ると、
公共事業が全面的に止まってしまいます。
現代でいうと、
日本政府を中心とする行政機関が機能しなくなり、
上下水道のメンテナンスが行われなくなり、
下水道がヘドロでふさがり、下水処理が行われなくなります。
さらに、
道路は補修されず、デコボコ道となり、道路の白線も擦り切れて消えたまま放置された状態になります。公的サービスがすべて停止し、年金や恩給が行われず、公共工事も全面止まり、警察機能も停止します。災害時の消防活動も停止し、被災地への食料支援や、災害の復興工事も全面的に停止します。
このような財政危機に瀕した鎌倉幕府は、
何度も「徳政令」を強行し、御家人たちの借金を帳消しにしました。
しかし、
御家人たちは社会的信用を失い、
生活が困窮してしまいます。
そこにきて、
大地震が起こってしまうのです。
震災しても、
幕府にも御家人にも被災地を支援する余力は残っていませんでした。
その結果、庶民の間に飢饉が起こり、
多くの尊い命が失われてしまいます。
ところが、
遺体を埋葬する行政機能は停止しており、
ウジ虫が湧いてしまい、
結果的には伝染病が流行ってますます多くの方が亡くなってしまったのです。
本来であれば、
被災地の人々が植えることがないように、
お米を分け与えるのが幕府の役割ですが、
そのよう行政機能自体がすでに麻痺していたのです。

このような事態を受け、
一人立ち上がられたのが、
第96代・後醍醐天皇でした。
「後醍醐天皇」のお名前は、
『後の醍醐』たらんと自ら称されたのものでした。
平安時代の初期に讃えられた醍醐天皇の治世を再現しようとされたのです。
聖徳太子が『十七条憲法』に描いた国家の理想を、
天智天皇が『大化の改新』で具現化し、
さらに、
天武天皇・持統天皇の代に完成させたのですが、
「公民国家」の体制が整い、
結実したのが平安時代初期の醍醐天皇の御代でした。
その後、
平安時代も末期になると、公民国家の形が崩れていきました。
源頼朝が創設し、
北条氏が確立した幕府政治も末期には、
本来国家組織の中で治安を担当するべき武士が権力を専横して賄賂政治を行い、さらには御家人同士の内紛で合戦まで起こすという乱れようでした。
我が国の末期症状を治すには、
醍醐天皇の時代の公民国家体制に戻さなければならない。
このような思いが
後醍醐天皇にはあったのです。

このような後醍醐天皇祈りに深く共鳴し、
最期まで忠節を尽くした人物こそが楠木正成公だったのです。
楠木正成公がどのような国家理想をもっていたのかは、
治めていた領国である
摂津・河内(現在の大阪府)の経営
を見ると
窺い知ることができます。
楠木正成公は、
摂津・河内の両国でさまざまなところにため池を掘らせて多くの新田を開発しました。
籾を100分の1だけの利息で貸し与え、
翌年には米の30分の1だけ税として納めるようにさせたのです。
このような善政から、
諸国から農民が流入して、領国の人口は急増しました。
このような領国経営に領民たちは深く感謝し、
楠木正成公を敬慕(けいぼ)していました。
2)楠木正成公は「悪人」か?

そもそも
楠木正成公とはどのような人物なのでしょうか?
楠木氏の起源は、
第30代・敏達天皇の子孫である橘諸兄(たちばなのもろえ)であるされています。
楠木一族が
歴史の表舞台に姿を現すのは、
1295(永仁3)年。
河内楠木入道という人物が、
東大寺の所領を横領して訴えられたという記述がありました。
この河内楠木入道という方が、
楠木正成公のお父さんがおじいさんにあたる人物ではないかとされています。
それから30年以上経った
1331(元弘元)年に、
楠木正成公が初めて歴史の表舞台に姿を現します。
後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒のために挙兵して笠置山(かさぎやま)に入って籠城戦を展開します。この笠置山に入った後醍醐天皇は、ある夢を見ました。
菩薩が「南」と「木」という文字を後醍醐天皇に示しました。
その夢を見た後醍醐天皇が、
『これが私を救う何かのお告げである』
ということで、近くの豪族である楠木正成公に白羽の矢が立つことになります。
そして、
楠木正成公は後醍醐天皇を助けたという逸話が南北朝時代を描いた軍記物である『太平記』に描かれています。
これは、
創作とも言われていますが、
どちらにせよ楠木正成公は、後醍醐天皇を助けていくことになるのです。
正確には、
後醍醐天皇の側近である道祐という僧侶が楠木正成公を仲介して後醍醐天皇と結びつけたのではないかと考えられています。

ところで、
楠木正成公は、
『悪党』と称されることがあります。
楠木正成公が『悪党』と言われる所以は、
同じく『太平記』の中で、
楠木正成公の戦い方が投石やゲリラ戦を行ったことから「戦い方が悪党っぽい」という武士らしい正々堂々とした戦い方をしていなかったことが当時、悪党と呼ばれていた人たちと同じような戦い方だったことからこのように呼ばれることがあります。

この他にも
楠木正成公が本拠地として置いていた千早赤阪村(大阪府)には、
金剛山という山があり、採掘権を握り、交通や水運の要衝を抑えて、
京都や奈良を中心の商売をしていました。
このように『悪党』は
「お金」にかかわる仕事に就いていたことが多かったことからも
この名前がついていたのかもしれません。
さらに、
同時代の一次資料である
『臨川寺寺領目録』によると
1332(元弘2)年に書かれた臨川寺の訴えによると、臨川寺がもっている土地を『悪党楠兵衛尉(くすのきひょうえのじょう)』という人物が不当に占領しているという記述があります。
このようなことから
楠木正成公は、『悪党』と呼ばれているのです。
しかし、
本当に楠木正成公は、「悪人」だったのでしょうか?
これらの資料は、
信ぴょう性に乏しく、事実かどうかは確定できません。
3)我が国の秩序を守るために殉じた「忠臣」楠木正成公

楠木正成公が
『悪党』という印象は正成公と対立した政敵が仕組んだことかもしれませんが、後醍醐天皇のために最期まで尽くしたことは確かです。
鎌倉幕府打倒の兵を挙げた後醍醐天皇のもとに馳せ参じ、
河内に戻った正成公は、すぐに赤坂に城を築き、兵を挙げます。
これに驚いた鎌倉幕府は、
大軍をもって攻めてきましたが、
正成公の優れた作戦にさんざんに痛めつけられました。
赤坂城は、急ごしらえで作った小さな城であったため、
やがて落城し、敵を油断させるように山奥に身を隠しました。
1332(元弘2)年、
金剛山の千早城に再び『菊水の旗』が翻ります。
攻めてきた鎌倉幕府軍は、
またまた正成公の奇襲作戦に苦戦し、
いくら大軍を注ぎ込んでも、
どうしても攻め落とすことができませんでした。
そして、
この合戦の様子が天下に知れ渡ることになり、
諸国の天皇を守ろうとする志のある武士が次々に立ち上がり、
鎌倉幕府を打ち倒す動きが大きく広がっていきました。

楠木正成公の千早城での勇気ある戦いに力を得て、
関東では、新田義貞
中国では、赤松則村
九州では、菊池武時が
それぞれ鎌倉幕府討伐の兵を挙げました。
鎌倉幕府により、
隠岐の島へ移されておられた後醍醐天皇は、
伯耆の国(島根県)の名和長年がお助けして、
後醍醐天皇を無事に船上山へお迎えしました。
後醍醐天皇は、
鎌倉幕府を倒し、『建武の中興(建武の新政)』を実施しました。
しかし、
この政治に不満を持つ足利高氏は、
自らが将軍となり再び武家の政権を復活させようと反旗を翻したのです。
正成公は、逆賊の足利の大軍を大軍を打ち破るための献策をしましたが、
浅はかな公卿に阻まれ、取り上げられることはありませんでした。
楠木正成公は、
後醍醐天皇に従い、決死の覚悟で兵庫へ出陣しました。
軍を進めて兵庫へ向かう途中に、
桜井の駅(大阪府島本町)で、嫡男の小楠公(正行公)を呼び寄せ、
『自分は死ぬが、その後は、父に代わって天皇様を助け最期まで守り尽くすように』
と、よくよく分かるように悟り、正行公を故郷の河内へ帰しました。
これは、
『桜井の別れ』として
今の時代にも語り継がれています。

そして、
1336(延元元)年5月25日。
足利高氏、直義の兄弟の率いる大軍が海陸両方から攻めあがって来ました。
会下山(えげやま)に菊水の旗をひるがえして陣を張った楠木軍は、
わずか700騎あまりの手勢でもって奮戦し、
一時は敵将足利直義を討ち取るかに見えたときもありましたが、
多勢に無勢。
兵力の差はあまりにも大きく、
楠木軍は次第に追い詰められていきました。
湊川での激しい戦いは、朝から夕方まで続き、
さすがの楠木軍もわずか70余騎までとなってしまいます。
『もはやこれまで』
と楠木正成公は、湊川の北方(現在の湊川神社)まで落ち延び、
弟の楠木正季公と
『七度人間に生れて朝敵を滅ぼそう(七生報国)』
と互いに誓いあい、
兄弟刺しちがえて、その偉大な生涯を閉じられたのでした。

楠木正成公の活躍は、
正成公を慕った領民たちに支えられていました。
有名な千早城に1000人ほどの兵で立てこもり、
鎌倉幕府軍数万を3か月以上も引きつけていました。
千早城は、数人も並べれば横いっぱいになるほどの狭い山道を40階ほどの高層ビルに匹敵する高さまで登っていかなければ着きませんでした。そのような山道を通って鎌倉幕府軍数万が押し寄せてくるのを、大石や巨木を落として防ぎます。
その剛毅な戦いぶりの陰で正成軍を支えた
領民たちの心意気を忘れてはいけません。
一人一日3合の米を食べるとして、1000人で3か月では、400合の米俵で700俵近くにもなります。それだけの米俵を領民たちが準備し、軍兵とともに険しい道を登って送り届けたのでしょう。
このように家臣や領民たちを大切にしていた正成公にとって、
天下の秩序を私利私欲で満たそうとする足利の所業や、
その先に見える幕府の失策によって苦しむ領民たちの姿を見過ごすことができなかったのでしょう。
湊川の戦いでの正成公の最期を知った領民たちは、
まるで家族が亡くなったかのように嘆き悲しんだ、と伝えられています。
楠木正成公は、
我が国を守るために、後醍醐天皇の祈りに殉じたのでした。
ここまでは、
「大楠公」とも称される、領民の幸せを願い、領民一人一人を大切にしてまるで家族のように慕った楠木正成公の一生についてお話をしてきました。
次回は、
後醍醐天皇の『建武中興』に学ぶ「和の政治観」
について学んでいきましょう。
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「和」とは、
周りに流されることのない主体性と信念を持ちながらも、周りの人々や自然と調和することを実践する道であり、我が国が建国されてからも2000年以上、受け継がれてきた価値観である。
日本が疲弊している。
日本人が疲弊している。
でも、日本を諦めたらいけません。
僕は諦めません。
日本人はまだまだやれる。
なぜなら、
僕たちが歩む道の後ろには先人たちが繋いでくれた
「我が国を遺したいという思い」がたしかにあったからです。
私たちが今できることは、
何よりもまず自分の国の神話、歴史、文化、そして精神性を学ぶこと。自分と先祖の歴史と生き方を学ぶことだと思うのです。
令和時代に、
「和の精神」を発揮して日本国を再び
よろこびあふれる感動する国へと取り戻す。
そのために、
皆様とともに学んで参りたいと存じます。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
