国体を守り抜いた大楠公と『建武中興』に学ぶ「和の政治観」~後醍醐天皇の『建武中興』に学ぶ「和の政治観」とは?~ー『和の国のかたち』33ー
こんばんは。高杉です。
日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。
小学校の教員としても働かせていただいております。
夏休み真っ最中ですが、
私はバリバリ楽しみながら働いております!
先日は、
ある企業さんと授業の準備と事前打ち合わせをさせていただきました。
やっぱり、
地域に根ざし、地域の良さをブランディングする企業さんの
経営努力には頭が下がります。
本当にすごいです。
尊敬です。
そのような方々の努力によって
わたしたちの生活は支えられているのだなと思うと
なんだか日本の力の源はここにあるなと感じました。
私が勝手に思っていることですが、
それぞれの地域の小学校が
それぞれの地域の企業さんとつながり、学ぶことによって
各地域の特色を生かした教育活動を行うことができ、
将来その企業さんに子供たちが夢と希望をもって働き、
『地方創生』を実現することができるのではないか?
と思うのです。
確かな手ごたえを感じています。
そのような実践を積み重ね、
皆様にお伝えできるようにさらに学んでいきたいと思います。
さて
前回は、
『大楠公』とも称される、領民の幸せを願い、領民一人一人を大切にしてまるで家族のように慕った楠木正成公の一生
についてお話をしてきました。
今回は、本主題最終章!
後醍醐天皇の『建武中興』に学ぶ「和の政治観」
について学んでいきましょう。

1)『建武中興』か『建武の新政』か?

楠木正成公が
自らの命を賭しても尽くし抜いた第96代・後醍醐天皇は、
鎌倉幕府を倒して、『建武の中興』を始めます。
しかし、
わずか2年半で、
足利高氏の謀叛で失脚。
その後、
吉野(奈良県)で南朝を開いて対抗しますが、この地で崩御されました。
ところで、
『建武の中興』という言葉は現在の歴史教科書では、あまり使われていません。
『建武の新政』が主になっています。
『中興』と『新政』にはどのような違いがあるのでしょうか。
後醍醐天皇は、
初代・神武天皇から受け継いだ「大御宝」を大切にした天皇を中心の我が国古来の政治の在り方を取り戻すために鎌倉幕府を打倒しました。
そこで、
明治時代に『王政復古の大号令』を通して、武士の時代を終わらせ、天皇を中心とする政治体制に戻した。そのちょうど「中」間で「興」したということから『建武の中興』と呼ばれていたのです。
ところが、
現在の歴史教育では、
後醍醐天皇が鎌倉政権を打倒して全く異なる「新」しい「政」治をしようとしたということから、教科書では、『建武の新政』とされているのです。
後醍醐天皇という自分中心の天皇が現れて、
政治をしようとしたが、
失敗に終わった。
そして、
南北朝時代に発展し、
室町幕府がこれを治めたという建付けになっているわけです。
とにかく、
できるだけ過去の天皇の功績を悪く言いたいのでしょう。

後醍醐天皇が目指された『天皇親政』とは、
記録所の設置からも分かるように『天皇独裁』ではありません。
しかし、
後醍醐天皇の『建武中興』は失敗してしまいます。
なぜ、
『建武中興』が失敗してしまったのでしょうか。
それは、
我が国の「政治観」が大きく関係していると私は考えています。
つまりは、
我が国の『国体』です。
2)我が国古来の伝統的な政治である『君民共治』とは?

『国体』とは、
我が国全体を覆っているものです。
私たちが教科書で習った民主政治の鉄則は、『三権分立』です。
つまり、
行政、立法、司法の3つの権力が互いにけん制することによって、
それぞれの権力の横暴、行き過ぎを抑えるという考え方です。
一見、理想的な権力形態のように見えますが、
ここに見られる考えの根底には、
「権力は互いに対するものである」という思想があります。
人間は放任すれば互いに対立し、
闘争するものである。
人間に権力を持たせる以上は、
勝手な振る舞いができないように縛っておく必要があるという考え方です。
これは、
西洋的な政治思想が色濃く残っているものであり、
神でない人間は、
神に背いた原罪ゆえに絶えず神の意に背かないようにチェックしなけばならないという「人間性悪説」がもとになる考え方です。

しかし、
我が国の政治形態は、
『三権分立』のような権力間で互いにけん制させることにより、
政治を行うという方式ではありません。
「権力」と「権威」の『二権分立』
こそが我が国古来の伝統的な政治形態なのです。
我が国における「権力」とは、
単に行政、立法、司法のいわゆる三権のみならず、
財界、マスメディア、知識人など国民生活を規定したり、
国民の行動に何らかの形で影響を及ぼすものすべてを含みます。
これに対して、
「権威」とは、天皇陛下であり、
それを支える国民を指します。

実は、
このことは『日本国憲法 第一条』に記されているのです。
『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。』
この短い文章の中に我が国の国体の真髄が凝縮されているのです。
もともと憲法とは、
『国体』をその時代の言葉で文章化したものです。
つまり、
『国体』は憲法の上に存在するのです。
通常は、
憲法の第一条には国のあり方の最重要事項、
すなわち『国体』の真髄が書かれています。
「建国の精神」です。
我が国の建国の理念は、
天皇のご存在であり(日本国の象徴)、
天皇のもとに国民が一致団結していること(日本国統合の象徴)であることです。
「主権の存する日本国民の総意に基く」ということは、
国会の法律によってこの地位を変更することはできないという意味です。
なぜなら、
「国民の総意」とは、多数決ではないからです。
現在日本国籍を有している国民だけを指すのでもありません。
過去と将来の日本国民も入ることになります。

この「国民の総意」は、
大日本帝国憲法の第三条にも記されています。
『天皇ハ神聖二シテ侵スへカラス』
この規定は、
高天原の大御心と一体となって国民一人一人の幸せを日々祈ってくださっている天皇を戴いて、我が国が一つにまとまっている状態を表現したものです。
また、
大日本帝国憲法第一条には、
『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス』
という文章から始まります。
よく知られているように、
「統治ス」の部分は、井上毅の原案では、
「治ス所ナリ」となっていたものを、
草庵最終責任者の伊藤博文が一般に分かりづらいとして、
「統治ス」に修正したものです。
この「治ス(しらす)」こそが、
天皇の役割や地位を正確に表現した言葉でした。

「治ス(しらす)」の意味を正確に理解するには、
『古事記』を読むと分かります。
天照大御神の孫である邇邇芸命がこの地上世界に下られるときに、
天照大御神は
『地上世界を知(治)らせ』
と命じました。
これを
『天壌無窮の神勅』
といいます。
『古事記』によると、
『この豊葦原瑞穂の国は、汝(いまし)知らさん国ぞ言依(ことよ)さし給う』
と記されており、
『日本書紀』によると、
『豊葦原の千五百(ちいほ)秋の瑞穂国は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるんべき地(くに)なり。宜しく爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまひつぎ)の隆(さか)へまさむこと、當(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きわ)まり無かるべし。』
と記されています。
要するに、
天照大御神は邇邇芸命に対して、
日本国を一つにまとめるように努めよと命じられたのです。
日本国を一つにまとめるためには、
国を平定し、
産業(この時代の農業)を興して国を安定させることが必要であるということです。
ここで重要なことは、
単に武力をもって国を平定するのではなく、産業を興して、
国を安定させて初めて国が一つにまとめることができると考えられていたということです。
つまり、
国を一つにまとめるために、
天皇がするべきことは、
まずは国民一人一人の生活を「知ること」だったのです。
そして、
「知ること」を通して、
国民一人一人の幸せを祈るという天皇の役割を歴代天皇は果たしてきました。

この
『天壌無窮の神勅』こそ、
我が国の政治の根本原理なのです。
天皇が国民統合の象徴であることを国民が信じているのは、
初代・神武天皇以来、
今日まで126代の天皇と国民が対立関係になったことがなく、
固い紐帯が存在しているという歴史的事実があるからなのです。
この「天皇と国民の固い紐帯」の根底として行ってきた
我が国古来の「政治観」を
『君民共治』
といいます。
我が国は、
神代の昔から現代にいたるまで、
君と民が互いに支え合って国の運営がなされてきたのです。
国民は、
天皇を敬愛する関係です。
天皇は、
国民を大御宝として慈しむ関係です。
天皇は、国民を一切搾取しません。
これは、
世界の常識とはかけ離れており、
我が国以外の国では想像できないことでした。
天皇は日本国を「知らす(治らす)」政治的権威であり、
これに対し、
政治権力は「うしはく」といいます。
知らすという「権威」の下で
権力者は「うしはく」という権力行為を行いますが、
政治体制として完成するためには、
「知らす」と「うしはく」の両方が必要なのです。
このように、
我が国では神代の昔から「権威」と「権力」が分立しているのです。
つまり、
古代から『天皇親政』ではなく、
天皇は実際の権力行使に当たる責任者を任命し、
権力行為の結果を承認するという役割を担っているのです。
3)後醍醐天皇の『建武中興』に学ぶ「和の政治観」とは?

話が長くなりましたが、
本題に戻ります。
なぜ、
『建武中興』が失敗してしまったのか。
それは、
後醍醐天皇が一点誤ったことをしてしまったからなのです。
天皇は、直接政治権力を振るわないというのが
国のかたち、
『国体』
です。
しかし、
後醍醐天皇は、『天皇親政』でした。
つまり、天皇自ら政治を行おうとしました。
そのようにするしかなかった情勢だったのかもしれません。
本来であれば、
息子である皇太子殿下を天皇に即位させて、
自らは上皇になることで、
上皇として政治を行うことがよかったのかもしれません。
結果として、
後醍醐天皇は「天皇」の名前で鎌倉政権を否定し、
すべてを天皇のものとに一元化しようとされました。
そのようにすると、
天皇の側近である貴族の中から、
「天皇陛下が担うべきではない」と反発を招くことになります。
天皇が直接政治に介入することは、
「上下関係」や「支配関係」につながってしまいます。
「天皇によって領土を支配されている」
という国柄になります。
このようにしてしまうと、
いくら国民が困窮しているとはいえ、
他の国と同じような統治体制になってしまいます。
我が国は、
天皇を「最高権威」として、
「政治権力」とは切り離そうというのが我が国の国柄なのです。
そして、
結果として朝廷内が分かれてしまい、
北朝、南朝という南北朝時代につながりました。
しかし、
そうは言いながらも天皇という存在を中心において国をまとめていこうという『国体』を守るために楠木正成公ら大和魂をもつ志士が集まり、大軍相手でもひるむことなく逆賊と戦ったのです。
そして、
現在皇居には、
文官としては「和気清麻呂」。
武官としては「楠木正成公」が銅像となって今も我が国の未来を見守ってくださっています。

我が国の政治において、
国民が支える国民統合の象徴である天皇は、
実は権力行為を最終的に承認する権限をもっています(『日本国憲法』第6条・7条)。
例えば、
総理大臣と最高裁判所長官は、
天皇陛下の任命によらなければ職務に就くことはできないのです(『日本国憲法』第6条)。
閣僚も天皇の認証がなければ、閣僚に就くことはできませんし、
法律も天皇陛下が公布して初めて効力が生じるのです(『日本国憲法』第7条)。
このように、
行政、立法、司法のいわゆる三権は、
すべて憲法に定められた天皇の行為がなければ、機能しない仕組みになっています。
もちろん、
これらの天皇の国事行為は、天皇陛下の自由意思によって行われるものではなく、国会や内閣の指名や内閣の助言と承認により行われるものです。
天皇の行為は形式的ですが、
たとえ形式的であろうとも天皇の行為がないと日本国家は機能しないという仕組みになっているのです。
この仕組みこそ、
我が国の政治の根本原理を示していると言えるのです。
古代においても実際の政治権力は、
摂政と関白が行使していましたが、
「権力」と「権威」が明確に分離していたからこそ、
最高権力を行使する征夷大将軍は天皇陛下が任命しました。
たとえ権力を謳歌していたものにとって面倒なことであったとしても、
この仕組みを廃止しようとは誰も思わなかったのです。
だからこそ、
我が国においては独裁者は現れませんでした。
そしてこの仕組みは、
私たちが生きる現代にまで受け継がれています。
「権威」の保持者は天皇陛下のみです。
誰も天皇の「権威」を奪うことはできません。
男系の血筋を受け継がない者は天皇になることは決してできません。
我が国において、
新たな「権威」を樹立することは不可能なのです。
私たちの生まれた国には、
このような非常に優れた「政治観」があるのです。
祖先から受け継いだ日本人らしい誇り高き生き方に向き合い、
一緒に「和の国」をかたちづくっていきましょう。
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「和」とは、
周りに流されることのない主体性と信念を持ちながらも、周りの人々や自然と調和することを実践する道であり、我が国が建国されてからも2000年以上、受け継がれてきた価値観である。
日本が疲弊している。
日本人が疲弊している。
でも、日本を諦めたらいけません。
僕は諦めません。
日本人はまだまだやれる。
なぜなら、
僕たちが歩む道の後ろには先人たちが繋いでくれた
「我が国を遺したいという思い」がたしかにあったからです。
私たちが今できることは、
何よりもまず自分の国の神話、歴史、文化、そして精神性を学ぶこと。自分と先祖の歴史と生き方を学ぶことだと思うのです。
令和時代に、
「和の精神」を発揮して日本国を再び
よろこびあふれる感動する国へと取り戻す。
そのために、
皆様とともに学んで参りたいと存じます。
最後までお読みいただき、
ありがとうございました。
