成長曲線って、ほんまに“曲線”かい?
成長曲線という言葉がある。
ビジネスでも、学習でも、自己成長でも、当たり前のように使われている言葉だ。
でも最近、この言葉に少し違和感を覚えるようになった。
本当に、成長って「曲線」なのだろうか。
私の実感に近いのは、曲線というより階段だ。
ある一定の期間、ほとんど変わっていないような状態が続く。
できることも、見える景色も、言葉も、昨日と今日で大差はない。
それが、あるタイミングで突然ガクンと視界が開ける。
理解がつながり、行動が変わり、言葉の精度が一段上がる。
そしてまた、しばらくは同じ水準で過ごす。
その繰り返しだ。
ただ、この「同じ水準で過ごす時間」がやっかいだ。
人はどうしても、
「少しずつでも成長している実感」を欲しがる。
だから、停滞しているように感じる期間が続くと、
こんな問いが頭をもたげてくる。
自分にはセンスがないのではないか
努力の方向が間違っているのではないか
そもそも、向いていないのではないか
思い返すと、この迷いを生み出している原因の一つが、
「成長は曲線である」という言葉なのかもしれない、と思った。
曲線であれば、少しずつでも上向いていなければおかしい。
上がっていない自分は、どこか間違っているように見えてしまう。
だから最近は、こう言い換えた方がいいのではないかと思っている。
成長は、曲線ではなく階段だ。
階段であれば、今は踊り場にいるだけ、と捉えられる。
動いていないように見えても、次の段に上がる準備期間だと理解できる。
「今はその時じゃない」
「でも、いつか必ず一段上がる」
そういう共通理解が、もう少しあってもいい。
もう一つ、大事だと思っていることがある。
一気に伸びる瞬間は、偶然ではないということだ。
私はそれを、
「マテリアルが揃った瞬間」だと捉えている。
知識、経験、失敗、違和感、他者の言葉、沈黙の時間。
場合によっては、身体の感覚や、無意識の気づきも含まれる。
それらのマテリアルは、単体では意味をなさない。
でも、複数が揃い、ある配置を取ったとき、
突然、すべてがつながる。
その瞬間に、階段を一段、上がる。
だからこそ思う。
この成長を信じ切るためには、
ステップごとに必要なマテリアルを言語化することが大切なのかもしれない。
今はどんな材料を集めている段階なのか。
足りていないのは量なのか、質なのか、それとも身体感覚なのか。
言語化できれば、
「まだ伸びていない自分」を否定せずに済む。
成長は、毎日実感できるものじゃない。
でも、何も起きていない時間にこそ、
次の段に上がるための準備が進んでいる。
そんなふうに、自分に言い聞かせるようになった。
こんなふうに、
「成長は本当に曲線なのか?」
「階段と考えた方が、救われるのではないか?」
そんな変な問いが、ふと起動した読者の方はいませんか。
もしそうなら、
今は踊り場にいるだけかもしれません。
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