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ボンドガールだったあの頃、ブラック缶コーヒーを飲む先輩が眩しかった

ボンドガールと言っても、私のそれは舞台の大道具で使うボンドを扱うボンドガールだ。そう、手につくとべとべとになるあの白くて乾くと透明になるボンドだ。色気なんて、まるでない。地味な仕事を少しでも華やかに誤魔化すためのボンドガールという呼び名にきゃっきゃっと浮かれて喜んでいた若いころの話。

キャストには衣装がある。裏方のスタッフには衣装がないからお揃いのつなぎを作った。つなぎを着て私たちはそれぞれの持ち場で仕事をしていた。色は赤・生成り・黒の3色があったと記憶している。私は赤を選んだ。単純な理由だ。生成りは太って見えるから却下。黒はなんとなく地味だから赤にした。

つなぎの背中には、講演の演目のタイトルとイラスト、それから主人公の印象的なセリフが書かれていた。

I feel like a tiger in a cage.

理由なき反抗より


大道具には「野人」と呼ばれる先輩がいた。背が高くて、もしゃもしゃ頭のロン毛。夏でも冬でも雪駄を履いていた。先輩のつなぎは黒でいつも袖は通さず腰のあたりに巻き付けて結んでいた。上半身はタンクトップで腕や胸のムキムキの筋肉がまぶしかった。黒のつなぎ姿はそんな野人先輩のどんなファッションよりも素敵に見えた。

大道具と言っても私たちはただの学生の集まりで素人でしかなかった。けれどもなぜか先輩は、そういったバイト経験でもあったのか何を作ってもプロ級の腕前だった。そして、何かを作っているときの先輩がたまらなくかっこよかった。いつだって私はきっと目で追っていたに違いない。セットのメンバーが集まっているところに行くとまず先輩の姿を探していたから。


公演が間近に迫ったある日、私たちは徹夜で舞台のセットを作ることになった。夜遅くまで作業をしていると肌寒さと空腹でみんなのやる気と作業能率は明らかに低下してきていた。

「よし!飯を買いに行くぞっ!」
野人先輩がみんなに声をかけた。

作業の途中で手が止められない私たち。
何人かの名前が呼ばれる。

(私は呼ばれるだろうか…)

「美和も行くぞ!」

(!!!!)

(呼ばれたっ!)

「はいっ」
(声が上ずった)

学校の正門前にあるハンバーガーショップまで5,6人で行くことになった。正門はもう閉まっていて、私たちは外に出られないことが分かって動揺していた。

野人先輩は楽しそうに言い放った。

「よし!登れ!」

(うそ⁉ 本気なの?先輩) 

まるで脱獄囚であるかのように、私たちはつぎつぎに正門の黒い門扉をよじ登りそして飛び降りた。


飛び降りるとき、女子には野人先輩が下から手を貸してくれた。

でも、私は自分には手を貸してくれないのではないかと心配だった。

あの頃の私は、今よりもかなり太っていて控え目に言っておデブちゃんだった。だから、大道具で何か重い物を運んでいるとき、他の女子は男子が率先して手伝ってくれるのに、私が運んでいるのを見ても誰も手伝おうともしなかった。それどころか、運んでいるのが私だとわかると

「あ。美和か。じゃぁいいか。大丈夫だな。」

そんなふうに言われる始末だった。ヒドイ…。

だから、手を貸してもらえなくても平気な顔で飛び降りなきゃ。そんなふうに、変な覚悟をしていた。そういうところでいちいち落ち込んでちゃいけないってわかっていた。

けど、野人先輩はやさしかった。
誰に対しても、やさしかった。
私にもその手は差し伸べられた。

大きくて、あったかい手だった。
ちょっと乾燥していてカサカサした手だった。

嬉しくて、恥ずかしくて、どうしたらいいのかわからなくて、着地と同時にすぐに先輩の手を離した。


そのあとのことはよく覚えていない。
ドキドキが止まらなかった。

外は真っ暗だったのに、自販機のブラック缶コーヒーを飲む先輩の姿は、街灯に照らされて輝いて見えた。
まぶしかった——あの夜の街灯よりも、ずっと。



#なんのはなしですか
#なんのはなしです珈


♢追記 2025.11.7♢
朗読しました(ライブ音源です)




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