命を繋いだ羊羹|エッセイ
「もう、だめかもしれない」
朦朧とした頭で、力が入らなくなっていく足を引きずるようにベンチまで歩いた。倒れ込むようにベンチに座り込み、血の気が引いていく手を必死に伸ばした。
握られた手には、あの日店員に言われるがまま買った “ようかん” があった。
あの出来事の1ヶ月前のことだ。
社会人2年目のある日、私は最近人気だというマンガを読んでいた。「弱虫ペダル」というタイトルの作品で、オタクで運動音痴な主人公が、自転車競技に出会って成長していく物語だった。
私は学生時代、サッカーや柔道、陸上競技などそこそこスポーツに触れてきたが、社会人になってめっきり運動する機会がなくなっていた。
走るはちょっとめんどくさいが、自転車だったら少し興味があった。しかも、普通のママチャリではなく、競技用のロードバイクなら猶更だ。
スマホで近所に取り扱っているお店がないか検索してみると、車で30分くらいの場所に専門店があった。私は早速行ってみることにした。
お店につくと、外観は黒を基調にしたシックな見た目で、街の自転車屋さんというより、お洒落なカフェに来たようだった。店内に入ると、コーヒーの香りがした。自転車の販売だけでなく、お店の中にコーヒー豆の販売や、カフェスペースもあった。
ポップな洋楽が流れる店の奥で、作業していた店員がこちらに気づいて「いらっしゃいませ」と挨拶した。私は軽く会釈して、ぐるっと店内を見て回った。
店内には、ずらりと「弱虫ペダル」を読んで憧れた、ロードバイクが並んでいた。特徴的なドロップハンドル(持ち手が真っ直ぐではなく、曲がっているハンドル)が、とにかくかっこいい。
「何かお探しですか?」
作業の手を止めて、黒い作業着の店員が私に声を掛けた。
「ロードバイクが気になってて。初心者なんですけど」
私は運動不足解消に自転車を買おうか迷っていると、来店の理由を説明した。
それなら、と店員が店内を案内しながら、ロードバイクの種類の説明をしてくれた。初心者用から、100万円を超えるプロ用のものまで様々だった。
これなんてどうです?と、おすすめされた1台に、私は目を奪われた。真っ白なフレームに、黒字でメーカーロゴが入ったシンプルなデザインだが、美しい形をした自転車だった。
「これ、フレームがカーボン素材で、軽くていいですよ。ためしに片手で持ち上げてみてください」
店員に言われるまま、私は半信半疑で太いフレームに手を掛けた。学生時代もずっと自転車に乗っていたが、いくら大人の腕力があっても、片手で軽々持ち上がる重量ではない。
ふわっと、羽が生えたような軽さだった。
私の驚いた顔を見て、店員は少しにやりと笑った気がした。
そのあと、詳しいスペックや、ロードバイクに乗るために必要になる装備、補給食について教えて貰った。
その日のうちに、とんとんと話がまとまり、私は軽い気持ちで訪れた自転車屋で、これから長い付き合いとなる運命の1台に出会った。
新しい愛車が納車されて2週間ほど経った6月中旬。空は広く晴れ渡り、日差しも強い日だった。
私は当時住んでいた鹿児島市内にある会社の寮から、大型客船が寄港する港の公園まで走ってみることにした。距離は片道15kmほどだ。
ロードバイクのフレームには、水分補給用のボトルを取り付けられるホルダーがあり、私はスポーツドリンクを入れたボトルをセットした。
ヘルメットとグローブ、そして上にはサイクルジャージと呼ばれる、背中にポケットのついた専用のウェアを着こんだ。背中には店員におすすめされた“補給食”を入れた。
準備に手間取って、結局11時過ぎに出発した。順調にいけば40分ほどで目的地につけるはずだ。
走り出した愛車は快調だった。交通量の多い大通りを避けながら、車道を原付と変わらない速度で走る。自分の足で、時速30km近いスピードが出るのが信じられなかった。
あっという間に公園に到着し、広場のベンチで休憩した。
青々とした海の向こうに、元気に噴煙をあげる桜島や、雲の向こうに薄っすらと大隅半島も見えた。
帰りも同じルートで帰った。少し体が重たく感じたが、疲れたのかなと余り気に留めなかった。しかし、あと3kmほどで寮に着くというところで、突然頭痛がしたかと思うと、視界が真っ白になった。
私は慌てて自転車を停めたが、只事ではないと思った。ちょうど近くに小さな公園があったので、なんとか屋根のあるベンチまで歩いた。自転車を柱に立てかけ、ベンチに座り込んだ。
頭痛は酷くなり、吐き気がする。さっきまで自転車を漕いで熱くなっていた体は一気に冷えて、汗びっしょりのサイクルジャージが張り付いて気持ち悪い。寒気までしてきた。
回らない頭でなんとかしようと考えた。ロードバイクを買ったとき、何か店員に言われなかったか。
背中のポケットに手を入れると、補給食として持ってきた『塩ようかん』があった。私は包装フィルムを乱暴に開けると、一気に食べた。普通のようかんと違って、甘味の中にしっかりと塩味を感じた。
ロードバイクに積んであったボトルを取り、スポーツドリンクをごくごく飲んだ。市販のスポーツドリンクのはずだが、いつもと味が違う気がした。
しばらくベンチで安静にしていると、だんだんと頭痛も治まり、身体の体温が戻ってくるのを感じた。
あの日、私は店員に夏場に向かうこれからの季節に、自転車に乗るときの注意事項を聞いていた。『水分補給』と『ミネラル補給』だ。
いわゆる熱中症や脱水症状を防ぐために、運動中に気を付ける定番の話だった。あの時、店員が真剣に説明していた意味を、私はようやく理解した。
頭痛はまだ残っていたが、立ち上がっても問題なさそうだ。私はロードバイクに跨ると、ゆっくりと漕ぎだした。汗で重くなったジャージが、身体が失った水分の多さを物語っていた。
会社の寮に着いて、自転車をスタンドに乗せて、シャワーを浴びて着替えたあと、そのままベッドに横になった。
見上げた木の天井は古びていて、所々に節があった。頭はすっかり落ち着いていたが、心臓の鼓動だけが、やけに大きく脈打っていた。
