【短編小説】旅する理由
海も空も、嘘みたいに青い。
どこか優しい潮の匂いがする。
大岳(うふだき)の展望台からは、石垣島、西表島、竹富島。八重山の島々が見渡せる。
どこを向いても陸が見えるせいか、ここが西の果ての小さな離島だなんて、つい忘れてしまいそうになる。
現実の世界から切り離された、遠い場所。そんな感じだ。
「お墓参りに行くから、準備しといてね」
春休みがはじまる少し前に、母が言った。
当然、父の実家がある千葉に行くつもりで、軽く荷物をまとめた。
来月から中学生になるし、祖父母へのそういった挨拶を兼ねてなのだろう、と。
居なくなって十年近く経つのに、今さら初めての墓参りなんて、どこか落ち着かなかった。
父の墓がある九十九里までは、車で二、三時間だ。
ところが、どういうわけか成田から飛行機を乗り継ぎ、小さな船に揺られ、連れて来られたのがこの小浜島(こはまじま)だった。
気まぐれな雨が、葉の上に水滴を作り、キラキラと光っていた。
カーラジオが午後三時を知らせた。
フロントワイパーを一度だけ動かし、母は車を走らせた。
あっという間に、先ほどの大岳(うふだき)を見上げる道に出た。この山もそうだが、島自体がこのレンタカーで二時間もあれば一周できるほどに小さい。
「ちっとも変わらない。あの時はまだ、太陽が生まれる前だったのにね」
母が言った。
「それって新婚旅行?」
「まぁ、そうかな」
この島が父の墓参りとどう関係があるのかは、なんとなく聞けなかった。
「太陽」、随分久しぶりに自分の名を呼ばれた気がした。
集落を抜け、車はサトウキビ畑の間の一本道を行く。
「ここがシュガーロード? ガイドの写真と違くない?」
僕は言った。
「残念、収穫の後だからね」
サトウキビは一様に、地面すれすれの所で刈り取られている。
それでも、根元からはすでに新しい芽が育ち、若い緑色の葉をサラサラと揺らしていた。
「すごいよね、たった一年。それだけで、みんな元に戻っちゃうんだから」
母が言い、後ろの席でうなずいた。
やがて海岸沿いの道に出た。
波乗りには向かなそうな、穏やかな海だ。
おそらく、海が視界に入った時からだろう。無意識にきつく握りしめていた手を、ふっと解いた。
僕は、波が苦手だ。
サーファーの父はある日突然、波にさらわれて、そのまま帰ってこなかった。僕がまだ小さい頃だ。
行方不明のまま、半年後には葬式が行われ、父の実家近くの霊園に墓が建てられた。
母はこれまで、父が死んだとは一言も言わなかった。
「ハワイあたりに漂着して、現地の女とよろしくやってるんじゃない?」
それが母の口癖だった。
マングローブ林、マンタの巨大なオブジェ、トビウオの群れ。いちいち車を停めては、時間をかけて眺めた。
そうしているうちに日が傾きはじめ、僕らは島の西端の細崎(くばざき)海岸に降りた。
水が信じられないくらい透き通っていて、砂が白く、とても静かなビーチだった。
波は少しも怖くない、むしろ優しい。
「天国みたい」
思わず僕は口にした。
「お父さんと同じこと言うね」
母が笑った。
「二人で来た時ね、『もしも俺が死んだらここに帰ってくる』なんて言ってたからさ、こうして会いに来てやったってわけ」
確かに、海の上に半透明な父が立っていても、それほどおかしくない。そういう雰囲気がここにはある。
「それ、本気で言ってた?」
「さぁ……。でも、まさか遺言になるとは思わなかったんじゃないかな」
母はおもむろにしゃがみ込み、砂浜に白い何かを突き立てた。
父のサーフボードだ。先端だけが小さく、三角形に切り取られている。
貝殻や、辺りに生えている花を飾り付けてみると、なかなか画になった。辛気臭い墓石(はかいし)より、断然こっちがいい。
母と並んで、手を合わせて目を閉じた。
母の顔を覗いてみた。泣いていたらどうしようと思ったからだ。
「いち、に、さん。はい、もう終わり」
母は微笑んでいた。
「ねぇ、太陽。明日は何したい? 船でジンベエザメを見るツアー、参加するでしょ? 楽しまなきゃね。旅行、旅行だから」
これでひと区切り、おしまい。なんてことはない。
母はきっと今も、父の死を受け止めるのを恐れている。
納得なんて出来なくても、ただただ、やり過ごすしかない。
ジンベエザメがいったい何なのか、僕は知らないけれど、せっかく来たからには。いや、むしろ今は見たくて仕方がないとさえ思いはじめている。そんな風に、目先の小さなことにどうしようもなく期待して、でもその積み重ねで、どうにかここまで来た。
「ねえ、父さんが本当に生きてたら……どうする?」
僕は聞いてみた。
「とっ捕まえてやる。よし、今度はハワイまで追いかけよっか」
母は笑った。
「いいね、ハワイ」
「簡単じゃないけどね」
「行けるよ」
――だって、生きてるから。
どんなに刈り取られても、生きている限り、否応なく新しい芽が育つ。それには本人の意思なんてまるで関係ない。
思いもよらないところから顔を出した芽を、僕は見落とさないようにしよう。
それが、次に旅に出るための理由になるかもしれないから。
(了)
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