半世紀にわたる夢を叶えた日🇮🇹〜私に夢を与えた【伊丹十三 『ヨーロッパ退屈日記』】
9歳の私はこう思ったのだった。
『いつか必ずヨーロッパで暮らす。そして伊丹十三さんの旅を追体験する』
実現可能な夢なのかどうか、あの時代には想像もつかなかった。田舎暮らし、外国嫌いの親、両親と同じ職業に就くように、と既にその頃から決められていた。
どこにもヨーロッパの要素はない。
家の裏の小高い丘の上に、一本の大きな栗の木があった。木は土手から弧を描くように立ち上がっていたので、太い枝が二股に分かれるところまでは簡単に登れた。本とおやつをバスケットに入れてよじ登り、その二股のところに座って、よくこの本を読んでいたものだ。
夕焼けを眺めながら、心に誓ったことを思い出す。
『ヨーロッパで暮らし、そして車で縦断し、通い慣れた店にいつものお気に入りの品を買いに行く、ただその為だけにヴェネツィアに行くのだ。伊丹さんのように!』
伊丹十三氏とはなんて粋なのだろう。いつか私はそんな生き方をする、と決めたのだった。
あれから半世紀近い年月が流れた。
それを親に向かって口にしたことはない。怒られるに決まっていることは最初から言わない。末っ子の知恵だ。
そんな知恵はともかく、夢を叶える為に、すぐにその実現に向けて努力しようとはしなかった。努力したところで、親の元にいる限り、無理であることはわかっていたのだから。
厳格で、子育ての方針ががっちり固まって揺らがない親の元で穏当に暮らすには、従うことが一番平和だ。家族の中で平穏な空気を求めるのならば、一歩引いていなければならない、和を乱してはならない。
9歳にしてある種の諦めを感じつつも、頭の中は既にヨーロッパに向かっている。手元には伊丹十三氏の本があり、それが支えだった。
そして、何の根拠もないにも関わらず、私はそれが叶えられるはず、と思っていた。
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伊丹十三著『ヨーロッパ退屈日記』は初版1970年である。つまり伊丹氏がヨーロッパに滞在した日々は、その前、1960年代のことであり、驚くことに伊丹氏はこのエッセイを20代の終わりに書いたのだ。
その文章の巧みさと世の中を眺める目、その年齢で書いたとはとても思えない深い理想的や思索は、洗練され、円熟味すら感じられた。
伊丹十三氏は、私にとってはエッセイストであるのだが、その後の活躍により、映画監督としての氏のイメージが強い方も多くいらっしゃることだろう。
エッセイに描かれたその前の時代、氏は俳優としてオーディションを受ける為にイギリスに渡ったのだった。
本書はその国際俳優時代のヨーロッパが描かれる。

表紙カバー装画に描かれているのは、伊丹氏のお気に入りの品々。それぞれのエピソードは本文に綴られる。
『ブリッグの蝙蝠傘、ハリーのくれたスフィンクス、ダンヒルのオイル・ライター、マジョルカで買ったピストル、ドッグ・シューズ、運転用手袋、ペタンクの球』
イラストは伊丹氏ご本人による。
この本との出会いはピアノの稽古の帰りだった。ピアノ教室は、母が何故そこを選んだのかわからないが、三つ先の駅まで通っていた。田舎の三つ先の駅であるので、20キロくらい先になる。
土曜の午後、電車賃をもらって一人で電車に乗る。9歳の私には結構な冒険だった。そして一人でその街を歩くことは、楽しい自由な時間だった。
駅とピアノ教室のある楽器店までの丁度中間地点に、その本屋はあった。毎週ピアノの帰りにそこに寄り、文庫本を一冊選ぶ。余分にもらっていた電車賃とお小遣いを充てていた。
自分で自分の為にだけ選ぶ本、初めてのことだ。この当時買った本は宝物で、今でも全て残してある。その書店のカバー付きだ。
その中でも、『ヨーロッパ退屈日記』はごく早い時期に見つけて買い、夢中で読んだ。
日本の家には初版本と平成17年発行のものを残してきた。今手元にあるのは平成30年発行の19版だ。
平成17年に再発行されて話題になった時、『ああやはり』と思った。優れた本はこうして年月を経ても価値があり、人に必要とされ、読み継がれるのだ、と。
この再発行がされた頃、ファッション誌などにも、【今こそ伊丹十三! 】といった記事が特集されていた。カッコいいとはこういうことだ、といった内容。
こだわり抜いた衣服、持ち物、暮らし方など、改めて伊丹十三氏の生き方を通して[良いものを見る目とは? 個性とは? お洒落とは?]考えさせられるものであった。
初版本が出された頃、この本に衝撃を受けた人は多いことと思う。私はまだ幼かったけれど、伊丹氏と同世代、またそれより上の世代の人たちは、これをどう捉えたのだろう。
『海外のことを語るキザな人』、と感じた人もいたに違いない。しかし、その体験や知識を押し付けてくる感覚はない。教えてくれているのだ。伊丹氏は、この時代には他に類を見ない感覚の人であったと思う。
伊丹氏は美意識が極めて高く、言葉に繊細で、漢字の選び方からして違う。その緻密さを感じながらも、文章の軽やかさ、視点の鋭さに、フッと笑わせられながら、あっという間に引き込まれていく。彼の描くヨーロッパへ。
当時の日本人がまだ知らなかったヨーロッパ、文化、暮らし、生き方、衣服、慣習、食、あらゆるものが伊丹氏の目を通して、分析され、賞賛され、また理不尽なものは追求される。
グラフィックデザイナーを経験した伊丹氏は、表紙カバーを含めた、本文中のイラストも全て手掛けている。彼は自分の語りたいことを最も理解し、描ける人に描かせたのだ。他の人には描けない面白さがある。
銅版画のような雰囲気があり、味わい深く個性的な画風だ。




伊丹氏が見た様々なヨーロッパ的なるもの。イラストもまたその空気を伝える。
彼が好むものは一流である。
エルメス、シャルル・ジュールダン、グッチ、ダンヒル、デュポン、車やレストランやその他、書ききれない‥‥このこだわりはまた来月、別記事で詳しく書いてみたい。
当時、外国に行くというのは、まだまだ限られた人だけであった時代。その中、伊丹氏は仕事を得る為にイギリスに行き、得た仕事の報酬で車を買うことに決めていた。それはイギリスの《ロータス・エラン》。まだ仕事が決まるかどうかわからないにも関わらず。
映画の役を得る為にオーディションにのぞむ伊丹氏。そこには血みどろになるまで努力した姿や、焦る気持ちは描かれない。飄々としたものだ。
その報酬で車を買うことは決めている。運命を切り開く為には、『既に選ばれることは決まっている』ということにして、あっけらかんと進めばいいのだ、と私は教えてもらった気がした。
また、この役で必要なのは当然英語力であり、役者としての存在感と技量である。この場面でわかることは、氏は既に受かる為の英語力を身につけていたということだ。その為にどんな勉強をしたかということは描かれていない。それがカッコ良すぎる。
であるから、9歳の私は、しっかりと英語を勉強するように、と誰からも言われたわけではないのに、英語はできて当たり前なのだ、と思い込んでいた。
その頃、父がテキストとカセットテープの教材を与えてくれたのは、全く偶然であるのだけれど、『ああ、やはり英語を勉強するようになっているのだ』と思った。そして一人で繰り返し勉強した。いつか来るその日の為に。
オーディションのカメラテストの場面が描かれる。その結果は待てど暮らせど、なかなか来ない。2週間ほど音沙汰が無い。伊丹氏は宙ぶらりんの辛い思いをして過ごすことになった。
そして、それに続く文章は、
が、まあ、それも過ぎたことさ。何しろ、わたくしは、今『ロード・ジム』のロケで、カンボジアの暑さにうだりながらこれを書いているんだから。
カメラテストに受かったのだ!! そしてその後、
霧のような雨のそぼ降る中を、わたくしがロータス・エランを注文しに出かけていったことは、付け加えるまでもない。
と、この章は締めくくられている。
受かったその時の狂喜乱舞する姿は描かれない。カッコ良すぎるではないか。
伊丹氏のエッセイには無駄がない。語るべきことはじっくり語りつつも、敢えて書かないことで、より内容に深みと面白さを与えている。
また全体的に、『氏に対して共感を持つ読み手に対して書かれている」と感じる。同じような道徳心、同じような倫理観、同じような美意識、お互い愉しみを分け合って、静かににんまりと笑い合える「同志」に向けられて書かれているように思えた。
私は、人を惹きつける文章とはこういうものだ、と書くことの醍醐味を知り、国語の作文では書き方をこれに傚った。軽妙洒脱と思える文章を心がけた。そしてそれにより、担任から「生意気な書き方をする」との評価を受けることになったのだった(^◇^;)
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さて、ヨーロッパに憧れて行きたいのなら、それなりの手段が必要であろうし、生き方をその方向にもっていかなければ、叶うはずもない。
旅行ならお金を払って、予定を決めれば済む話だ。しかし私が伊丹氏の旅を辿るには、『住む』『車を持つ』『ヴェネツィアにお気に入りの店がある』、少なくともこの条件が必要になる。
中学生の時、「留学したい」と親に話したことがある。呆れられ、相手にされなかった。高校の時には「大学では語学を学びたい」と話した。これも親の考える方向性ではなく、相手にされなかった。
姉の進路を決める時の様子を知っていたので、それに従うしかないのも知っていた。
結論は、望むことがあれば、大人になって、自分の自由を得られるようになってから、何とかするしかない、ということだけだった。
『私がもっと小知恵のある、違うタイプの女性であったならば、大学時代にそれなりに人付き合いを駆使して、海外で仕事をするような男性と、無理矢理お近づきになって結婚して、在留妻になる、という手があったのかもしれない」、と姉と話したことがある。
「まあ、無理だよね」と返事が返ってきた。
我々はそういう生き方ができなかった。親の言う通りの進路を選び、「男性と付き合うと不良になる」と言われ続けていたので、静かに暮らしていた。不良にならないまでも、母が恐ろしすぎて、お付き合いなどとても考えられなかったのだ。
しかしその後、姉は大学時代に出会った相手と結婚した(親からは勿論不良扱いされていた 笑)。
義兄は大きな企業に勤めていた。終身雇用が当たり前の時代であり、親戚一同は当然定年退職するまで務めるものと思っていた。
しかし義兄は、鮮やかに外資系の会社に転職を果たし、海外を飛び回る生活となった。移住はしなかったので、姉は駐在妻にはならなかったものの、海外は身近になった。義兄のおかげでマイルが溜まり続けて、幾らでも海外旅行ができるようになったのだった。
姉は元々海外にも語学にも興味はなく、「外国人は怖い😨」と思うタイプなので、海外旅行にはさほど価値を感じてはいなかったけれども(^◇^;)。
九州の有田焼の窯元に行きたい、とか、出雲大社にまた行きたいとか、毎年楽しみにしていて、完全に日本の文化・歴史の方に興味がある人だ。
それでも気分転換の機会は沢山できたのだった。
私も夫と結婚した時点で、旅行好きな人であるので、ヨーロッパ旅行は何度かできるかな、くらいに感じていた。ところが思いもよらず、その後海外での仕事に恵まれることとなった。
私自身も転職した後、海外に出る機会が増えていた。その流れで、早期退職して、自分一人でしばらく海外で暮らす算段もした。とうとう自分の力で海外に出るところまで行き着いたのだった。
ところが、丁度その頃に娘たちの結婚が決まったことで時期がずれ、またその後のコロナ禍を経て、海外に出られるタイミングが夫の赴任と重なり、ドイツに住むことになったのだった。
こんな未来が待っていたとは、9歳の私は知る由もなく。
この時、一人で出発する予定がずれて拍子抜けした私は、犬を飼うことにした。それも退職後の楽しみにしていたことなので、まだしばらく日本にいるなら、と決めたのだった。
結果的に、ドイツにはそのまま犬を連れてきた為に、「車がないと、旅行に行く時に困るよね」と、車を買うこととなった。
『車を持つ』という条件まで揃った!!!!(犬のおかげ)
姉も私も、その方向を目指したわけではなかったのに、呑気に親の言う通りに生きてきただけであったのに、結果、予想外の機会が訪れたのであった。
親の言うことは、真っ当で筋の通ったことばかりであったから、厳しくても従わざるを得なかったけれど、親が貫いた、
『真理を追求する人であれ、人を助ける人であれ』
という生き方は、我々に染み付いている。
親とは違い、ボーッと生きてきた姉妹であり、親の期待通りとはいかないまでも、取り敢えずは親が望んだように生きてきた。
これまで大したことはできなかったけれど、ほんの少しだけ、良い子にしていたご褒美を、天から与えられたような気がする。
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さて、伊丹氏は映画俳優仲間と様々な交流をしている。チャールトン・ヘストン、ピーター・オトゥールとは随分親しかったようだ、
また「世界のミフネ」三船敏郎氏が登場するのは、ヴェネツィアでのエピソードだ。ヴェネツィア本島からヴァポレットで渡った先の細長いリド島でのこと。この島は、映画『ベニスに死す』の舞台だ。
ホテル、エクセルシオーネ、ここはヴェネツィア国際映画祭の会場になる格式ある有名ホテル。
ここに宿泊中、三船敏郎氏がジョニー・ウォーカーと共に、タタミイワシを持って現れる。その一室でティッシュを捻って火をつけ、タタミイワシを炙って食べるというエピソードがある。
これもやってみたい、とちょっと思ったが、これはさすがに無理な話だ。怒られる。
エクセルシオーネではお茶を飲むに留めた☕️
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伊丹氏は薄いスウェードで作った、ごく軽い運動靴風の靴が好きで、こればかり好んで履いており、英国人の友人は、これを「ドッグ・シューズ」と名付けていたという。
その靴はヴェネツィアの「ポッリ」という店でしか売っていない為、毎年6足ずつ取り寄せていたのだが、全てへこたれて、みんなから「ラッド・シューズ」と呼ぶようになってしまった。
そこで氏は靴を買いに行くことにする。ロンドンから車でヴェネツィアまで、ただ靴を買いに行く為だけに行くのだ。これほど贅沢でキザなことはあるだろうか?
この靴がなければ、伊丹氏の服飾プランが解決しないのだから、当然彼は行くのである。

伊丹氏は英国人のお洒落に憧れるも、英国人的な体格ではないので、完璧には近づけないと考え、寧ろフランス風、或いはイタリア風のお洒落ならば、抵抗がなく取り入れやすいと言う。
格式あるブランドの品々を好んではいたが、それらを混ぜこぜにして同時に使ってしまうのはイギリスでは邪道になってしまう、とも語っている。イギリスで言うところのミドル・クラス、或いはフランスのプチブル(小市民)的であることを、彼の美意識は許せなかったようだ。
「ポッリ」は1980年代に閉店したと後にネットで検索して判明した。残念だった。私が初めてヴェネツィアに行った時、どうしても店を見たくて聞き回ったけれど、その頃には既に閉店、見つからなかったわけだ。
さて、今から20年前、私の二度目のヴェネツィア旅行では、買いたいものがあった。
その少し前に、姉一家が行っており、その時私にお土産をくれた。
姉はそれ以前に、私がフランスに行って、可愛いビスクドールを探したけれど見つからなかった、と残念がっていたことを覚えており、たまたまヴェネツィアで行った店でそれはそれは可愛いビスクドールを見つけ、お土産にくれたのだった。
ビスクドールと言っても、ジュモーのようなアンティークではなく、現代風の顔の可愛らしい人形で、その店の工房で作っているとのことだった。
「素敵だから行ってごらん」と姉は場所を教えてくれた。ヴェネツィアは迷路のような細い小路が多いが、その店の場所は、電話で説明ができるくらいわかりやすいところであった。
それから2ヶ月後の次の旅で、早速訪ねたところ、店はすぐ見つかり、素晴らしい人形の数々に圧倒された。
数が多いだけではない、顔はどれも可愛らしく、ドレスや帽子も全て手作りで、甲乙つけ難い見事さだ。こんなに見事な人形は、その後も見たことがない。
夫は人形に興味がない上、私が幾つ選ぶかわからないと恐れたようで、最も気に入った一つを買ったところで、急かされて店を出たのだった。
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それから20年が経った。一昨年8月、再びヴェネツィアに行くことになった。とうとう車で行くことが叶うのだ!!
20年、その間も何度かイタリアには行っていた。フィレンツェやローマ、ナポリ、アマルフィなどには行ったていたものの、夫のイタリア赴任中、ヴェネツィアには何度も行っていた為、夫が「違うところにしよう」と言い張った為、ずいぶん久しぶりの旅となった。
この旅の目的、あの時買ったビスクドールは経年劣化で、足の付け根の動きを制御するゴムが緩んでしまっていた。あの店は工房であるから、修理を依頼してみよう、そしてもし可愛い子がいたら(絶対いる)、別の子も買おうと思っていた。
車でヴェネツィアに行って、お気に入りの店に行く日がとうとう来たのだ(^O^)
伊丹氏のようにヴェネツィアの靴屋の常連というわけではないし、諸々だいぶ差はあれど、とにかくヨーロッパで暮らし、車でヴェネツィアに行き、知っている店に行き、目的を果たすのだ。これは9歳の頃の夢の一つがほぼほぼ叶う、ということではないか、と定義付け、心が弾んだ。
ヴェネツィアのサンタ・ルチア駅より、一駅手前の街に車を置き、電車で向かう。海を突っ切るように走る電車、両側に見る海の光景は、他では味わえない。やがてヴェネツィアの街が見えてくる頃には、嬉しくて懐かしくて泣きそうになっている。
サンタ・ルチア駅から運河カナル・グランデをヴァポレット(乗合船)に乗り、ホテルへ。荷物を置いてすぐ店へと出かける。
サン・マルコ広場からは、サン・ザッカリアの船着場まで歩いてもすぐ近くだ。
しかし、そこで目印のサン・ザッカリア教会の名前を出したところ、夫がその教会は少し先だと言い張る。私の記憶とは違うので、抵抗したものの、周辺の通りをしばらくウロウロすることになった。暑かったので、それだけでも体力が消耗した。
結局、私の記憶通りで、海を背に入っていった道の先に、教会はあった。
そこを過ぎて、突き当たった道を左に曲がった三軒目辺りが店だ。ホッとする。
しかしそこにあった筈の店がない。両隣の店も閉じられている。かつて華やかだったその一角が寂しい状態になっていた。
コロナ禍はこれだけの観光地ヴェネツィアにまで影響したのだ、と思い、何とも言えない思いになった。
夫はこれで済んだとばかりに、「仕方ないね、ジェラートでも食べに行こうよ」と言う。暑さには強い夫も、ヴェネツィアの8月の日差しの元、探し回って歩いたのが応えたらしい。
通りをしばらく歩いて、人気のあるジェラート店へ。食べている最中も、私は納得いかない。確かに店はコロナ禍の影響は受けたかもしれない。しかし、20年前の記憶では、ビスクドール以外に、カーニバルの衣裳や仮面を取り扱っていたが、他の同じような品物を扱う店の中でも、その店は群を抜いていたのだ。
歴史ある店というだけではなく、店の格が違う、という印象だった。他の店が残っているというのに、あの店がなくなる筈がない、と溶けてくるジェラートと格闘しながら考え続けた。
食べ終わる頃、「私、もう一度あの周辺に聞き込みをしてくる。あの店が潰れる筈ないから」と夫に告げた。
夫はうんざりした顔で、「その店の人形は諦めて、違う店で買えばいいじゃない」と。
そこで私に火がついた。
「あの人形は、あの店で作られて、あの店でしか販売されてないって、何度も話したよね!!」
夫の顔が諦めに変わった。
夫には、犬と一緒に近くの涼しい場所にいるか、カフェに入っててちょうだい!と言い捨て、私は一人現場に戻る。
あの店は歴史ある有名店だった筈。近くの店の、年配の人なら知っている筈! 絶対!
しばらく元の店舗の辺りを歩き、少し先のカフェのスタッフに目をつけた。年配の男性だ。その人に決めた。
その人の手が空いたタイミングで話しかけてみる。この日の為に勉強したイタリア語を駆使する。
店の名前は忘れていた。場所と店の内容を伝えて、
「閉店してしまったのでしょうか?」と尋ねると、ラッキーなことに、一人目にして当たりだった。
「ああ、あの店は移転しましたよ」と通りの向こうを指差した。先程、探し回って、何回か通った辺りだ。
「それに今、改装中ですよ。やってるかなぁ」と教えてくれた。ありがとう、おじさん(T ^ T)
お礼を言って、ついでに尋ねてみる。
「ポッリっていう靴屋さんの場所を知りませんか? 1980年代に閉店してるんですけど」
それは知らない、とのことだった。ポッリの件は80歳以上の人に聞くしかないな、と探偵の私は一旦諦める。
今日の目的は、私の人形の修理依頼だ、早足で店に向かう。
店に着く頃、夫も通りの向こうからやってきた。
「この改装中の店だって!」と報告する。
店のガラスに張り紙がしてある。矢印があり、隣が仮店舗だった。
店の名前はうろ覚えではあり、タグに描かれた仮面をつけたカーニバルの衣装の人の絵だけは覚えていた。場所は覚えており、店は当然あると思っていたので、まさかこんなに手間取るとは思ってもみなかった。
場所が変わり、全く知らない別の店名になっており、更に改装中の上、仮店舗営業中。おまけに扱う品物が全然変わっていた。店の前を通ってもわかる筈がない。「よくわかったよね‥‥」夫が呟いた。
店に入って、観光客相手に話していた店のスタッフらしい男性に事情を話してみた。この人は英語が話せたので、ここからは英語。
元の店主の親戚だと言う。もうその人形は扱っていないから、と簡単に返事をされて、すぐに観光客の接客に戻って行った。
がっかりして外に出たが、諦めきれない。夫はまだグズグズしている私に慰めの言葉をかけてくるが、とにかく諦めきれない。
見ると、奥からもう一人男性が出てきて、レジのところに立っている。
「もう一回行ってくる!」と私だけまた店内へ。
話してみると、その人は元の店主のお孫さんだった。持参した人形を見せると、懐かしそうに、
「祖母が作っていた人形です。日本から持ってきたのですか?」と嬉しそうだ。
「祖母はもう歳をとって、人形が作れないので引退しました。今は僕が店主です。もうこの種類は扱っていないので、修理は無理です」と。
そうか、無理なんだ。あの店にいた奥さん、引退しちゃったんだ、もうあれから20年も経ってるのだから‥と残念に思った。事情を知っただけでも良かった、と考えた。
するとその店主さんは、「ヴェネツィアには明日もいますか?」と聞いてきた。
思わず希望を感じ、「ええ! ✨」と答えると、
「祖母に連絡してみるので、返事を待っててくれますか? 今日中には連絡しますからアドレスを教えてください」と言う。
修理は無理でも、この親切な対応には感動した。
大喜びでアドレスを書いた。
ご機嫌で午後を過ごし、夜ホテルに戻ると、メールが来ていた。
そこには「やはり修理は無理だけれど、祖母のところには人形の在庫が幾つかあります。もしあなたが見たければ、店に持って行きますよ」とのことだった。
「勿論行きます。明日10時に行きますね。ありがとうございます」と返信した。送ってくれたビスクドールの写真を拡大する。可愛い💕、あの子たちだ(T ^ T)
もう泣きそう。
夫は「良かったね。親切な人だね」と言いつつ、『つまり買う気だな?』と恐れ始めている。気にしない。
翌日10時、店に行くと、店主さんは奥から大事そうに、ビスクドールを大切そうに一体ずつ運んで来る。良い人だ。全部で5体。
見せてもらうと、懐かしさで胸がいっぱいになる。どのドレスも美しい。お祖母さんが引退前に描いた顔のせいか、少し目の描き方が昔とは違っている。右目のまつ毛が少し気になった。
自分で化粧をする時に感じることだが、利き手の側ではない方は描きにくい。それと同様なのだろう。
散々眺めて、そのうち3点を買わせてもらうことにした。残った二体の子たちには申し訳ない気がしたけれど、やはり人形は顔も髪型も重要なポイントだ。そちらはお礼を言って断った。
夫は横でクラクラしている。3体も買う?! と顔に書いてある。20年前の倍の価格になっているせいもあると思うけれど、気にしない。
店主さんが言った。
「今朝、お祖母さんの家に寄って、人形を預かってきました。祖母はこの話をとても驚いていて、
『私の人形をそんなに気に入って、20年も経つのにまた来てくれたの? こんな面白くて楽しいことが起きるなんて! 嬉しいわね。不思議ね』
って何度も言ってました」
「ご親切に感謝します。お祖母さんにもお礼をお伝えください。『お人形を大事にします。お元気でいてください』って伝えてください」と伝えた。涙が滲む。
店主さんは営業も忘れなかった。
「今うちで売っている人形はあの子で、中国の映画に製作風景が使われたせいで、中国からの観光客がすごく増えました」と。ショーケースを指差す。
カーニバルの道化師の衣装のベビードールだ。
「可愛いですね。今度来た時にまた!」と伝えた。
私の好みは買ったお人形の方だけれど、その子もとても可愛い。次に行った時は、あの子も仲間にいれようかな?
晴々とした気持ちで外に出る。今度来る時は、お祖母さんにお土産を持って来よう。
夫が紙袋を眺めながら、「‥‥凄い執念だったよね」と呟く。
いつもなら、バテてしまう筈の熱中症になりそうな暑さの中、店を探し当てるまで、諦める気がなさそうだった私を、かなり引いた目で眺めていたのだ。

『夢が叶う』とは何だろう。
幼い頃は単純に本を読んで憧れ、伊丹氏が経験した生活を少しでも真似したい、それが夢だった。
本文に出てくる様々なエピソードをも真似した。
伊丹氏が機内でシャンパンとオレンジジュースを頼んで、割って作るカクテル『ミモザ』、初めて海外に行った時の機内で、真っ先に試した一つだ。
伊丹氏が作るアーティチョークのおつまみは、日本では我慢して、ドイツに来てからマルクトで買って作ってみた。
街の片隅で、人々が夕暮れ時にペタンクを楽しむのも眺めた。
夢を見てから半世紀近く経って、こうした様々の経験を振り返る。そして気づく。
そもそも私がこの本に出会ったのも、ピアノ教室を母があの楽器店でと選んだことがきっかけだった。語学に自然と興味を持てたのも、父が教材を与えてくれたからだった。
夢は、親から与えられたものから、そして親の生き方・考え方の中から芽が出ていたことに気づく。
それを実現させようとしてきた気質も、親から受け継いだ部分が大きかったのだ、ということを改めて思う。
『夢を叶える』とは何だろう。
ヨーロッパで暮らし、車でイタリアまで走り抜け、ヴェネツィアまで行く、目的の店に行き、目的の品物を手に入れる、それは叶えてみたら、ほんの小さな出来事に感じられた。
伊丹氏が過ごしたヨーロッパの日々とは、もちろん格段の差がある。
しかし、何だろう?、この感覚は?
一冊の本から始まって、ここに至るまでの全ての道程が、生きてきた全てが、私の叶えたい夢に通じるものであった、ということだろうか。
もう亡くなっている両親、もう亡くなっている伊丹十三氏、私に夢を与え、そして結果的に夢を支えてくれた人々に、感謝の気持ちでいっぱいになったのだった。
—完—
武智倫太郎様が、このエッセイに対して、解説をしてくださいました。
Z世代の皆様方に向けて、武智様が書いてくださったように、[戦後日本の知的精神の二極をなす存在——伊丹十三氏、大江健三郎氏]のことを知っていただける、素晴らしい機会を与えてくださったことは、嬉しい限りです。
心より感謝申し上げます。
【あとがきと予告】
ヴェネツィアでビスクドールを買った、
“Magie di Carnevale” 素晴らしいお店でした。このお店の名前は現在販売されているビスクドールのタグに残されています。
工房を営んでいたお祖母さんは引退されましたが、自宅で少しずつお人形の製作は続けているようです。
一昨年は、移転した先の隣り合った2軒のうち1軒が改装中でしたが、現在はそちらも新しい店舗に生まれ変わっているようです。
今月下旬にそれを楽しみに行って参ります。
下記のホームページは最近のものですが、このお店の歴史を物語る為のものであり、当時の工房があった店の様子や、ビスクドールを製作し続けてきたお祖母さんやお孫さんの写真が掲載されています。
『ヨーロッパ退屈日記』については、別の機会に、読書感想文として、内容を改めて8月に書きたいと思っております。
興味深いエピソードが満載のこの本を、是非皆様に詳しくご紹介したいと思っております。
また是非お読みください。
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