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足場の誘惑〜ある女Vの克己〜

『今日こそ上がってしまうかも‥‥』
これが強迫観念というものだろうか。ある女Vの心は揺れる。怖がりなのに上りたい。一日の中で数度、欲望に胸をたぎらせる。


 4週間ほど前のことになる。ガチャンガチャンと外で耳慣れない金属音がした。Vはさほど気にせずソファにで本を読んでいた。
 すると突然、愛犬が「最大の危険到来⚠️」レベルで吠え始めた。バルコニーのある窓に向かって吠えている。

 見るとそこには男性が立っていた。正確に言うとベランダの向こう側だ。ここは2階。向こう側?!

 Vは驚き、思わず立ち上がる。しかし、叫び声を上げる前に、しばらく前に見た玄関の掲示スペースの貼り紙を思い出した。
《外壁の補修を致します》

 バルコニーから40センチほど離れた位置に板が渡されて足場が組まれた。
 Vが入居した時には、ここはほぼ新築であったから、これが初めての補修なのだろう。

 ガチャンガチャンという音からほんの数分で、2階まで足場が組まれていた。作業のおじさんと目が合うのも気まずいので、日除けを下ろす。天井までの高い窓にはカーテンが付けられないので、リビングの目隠しは外側の日除けを下ろすのみ。

 それにしても足場ってどうやって組むわけ? と思って覗くと、長い板、ジョイント部分の短い板などが次々と組み合わされ、あっという間に3階部分の作業に入っている。



 音がしても、我が家のバルコニー部分に姿が見えない限り、犬は吠えない。ということで、しばらくは安心。
 3階の板が少し揺れるのが見え、隙間から見上げると、すぐに4階の足場の作業に入った。
 『早い。すごく早いんですけど』と、ワクワクしながら、こっそり覗いていた。
 
 足場が組み終わると、おじさん達は去って行った。『え? 今日はこれで終わり?』
 終わりだった。
 それから1週間以上、誰も来なかった。

 足場が組まれた状態なので、夜間、いくらでもバルコニー側から侵入できそうで不用心だ。
 その為、殆ど閉めたことのない日除けを、毎晩閉めるという手間が増えた。
 早く作業を終わらせて、足場を片付けてもらわないことには、心穏やかに過ごせない。

 問題は、夜間の安全面だけではなくて、Vの心理的な願望にある。

 足場は、バルコニーの手すりから40センチほどの離れているものの、縦のパイプがあるので、椅子に乗って、そのパイプを掴みながら手すりを乗り越えれば、スムーズに足場の板に移れるはずである。

『乗ってみたい!』
Vは、毎日バルコニーに出る度に、目の前の足場をじっと眺める。バルコニーの床からは130センチくらいの高さだ。地上からだと5mくらいだろうか。

 乗るなら昼間の方が明るいから安全だよね、とか、夜なら誰にも見られないよね、とか、様々考えるが、常識的な大人は、足場に移ったりしないのだ、とその度自分に言い聞かせる。

 誰かに釘を刺されないと実行してしまいそうなので、Oに話してみる。
「うん、危ないからね」
まともに取り合ってくれない。
 
 日本の娘に相談してみる。
「ママの実家の栗の木に登るのとは訳が違うからね〜(^◇^;)  
そこは、お仕事の人しか上っちゃ駄目なの🙅‍♀️」
子どもに言い聞かせるように、一応釘は刺された。


 毎日、
『万が一失敗して、この40センチの隙間に落ちたら痛いよね?』
とVは自分に言い聞かせる。

 この[やってはいけないことをやってみたい]というのは強迫観念に違いない、と思い検索してみると、それを抱きやすいタイプは潔癖、几帳面、くどい、こだわる‥‥と書かれており、まぁ当たっている気がする。

 いやいや、高いところには上ってみたい。単にそれだけだと思う。登山と同じだ。
 だって足場がそこにあるから。


 Vは冷静さを失わず、足場の誘惑に負けず、未だ手すりを乗り越えたりはしていない。
 しかしVがリビングからバルコニーを見る時、必ず足場を眺めていることも自分で知っている。
 
 こうなったら、早く作業を終わりにしてもらうしかないのだ‥‥。


目の前の足場。このペンキ混じりのゴミが飛ばされた


 十日程が過ぎた。この日は曇り。トラックがやって来て、一階のところにペンキが並べられた。
 ああ、やっと雨が止んだから作業に入るのだ、と思ったが、ペンキを置いただけでトラックは立ち去った。
 折角珍しく雨が止んでいたその三日間、誰も姿を見せなかった。

 そしてまた一日中雨が降り続く日が続いていた頃、突然おじさんはやって来た。
 Vが気を抜いてソファに転がっていた時、また犬が吠え始めて、おじさんの到来を知る。

 日除けを下ろす。大雨の中、しばらくガサガサいう音がして、やがて静かになった。
 バルコニーに出てみると、手すりの外側がビニールで養生してあった。終わり。
 足場はあれだけ早く組んだのに、その後はまるで遅い。こんなペースで、一体いつ仕上がるのだろう。

 Vが犬を置いて留守をしなければならない時など、おじさんがいつやって来るかわからないので、日除けは下ろしていく。少しでも吠えないように気を配る。

 ただでさえ雨で暗いというのに、日除けをおろした薄暗がりの中、オレンジ色の照明がぼんやりとした陰影を描く。Vですら気が滅入るのだ、お留守番をする犬は更に滅入った表情を見せる。

 更に1週間ほど経って、おじさんはまた雨の中やって来た。どうせちょっとしか作業しないんでしょ?というVの予想通り、外壁の汚れをカリカリやって、すぐに去って行った。
 
 また1週間ほど経った雨の日、とうとうペンキを塗りに数名がやって来た。たまたま雨が上がった日も途中にはあったけれど、その日は誰も来ず、来るのはいつも雨の日だ。

 日程がそうなっているなら仕方ないにせよ、まとまって何時間か作業する姿を見た事がなかった。
 とうとう大きい作業がこれで終わるのかと思いきや、またおじさん達は短時間で去って行った。外壁の補修ってこういうもの?!

 バルコニーに出てみると、白い塊がテーブルクロスと人工芝に点々と落ちている。
 ペンキと外壁の凸凹を形造る素材の混ざった塊だ。触ってみると、まだ乾き切っていない。しばらく放置して、乾いてから掃除機で吸い取ろうと思った。

 まだ車が家に来ていなかった引越し当時、早くバルコニーを快適にしようと、Vが苦労して犬のバギーに積んで運んだ人工芝。
 Vだけで運ぼうと思えば運べる、家から数分の位置にホームセンターがあったのもいけなかった。

 芝はふさふさしたタイプを選んだので、重かった。ついでに花の鉢もいくつも買ったので、全体として更に重く、バギーのハンドルはそれ以来、重みで下がってしまった、あの時の、Vの努力の結晶の人工芝。そこにペンキの塊が!!

 ペンキが飛ぶかもしれないから、どかしておくようにって、何故一言言わない!!!
 そもそもあのビニールの簡単な養生は、手すりの上と外側だけだったから、まさか内側に飛んでくるような作業とは想像もしなかった。
 ドイツ人の作業を甘く見たVであった。

 まさかあんなに飛んでくるなんて、とVはぶつぶつ言いながら、掃除機を持ってバルコニーに出た。
 吸い込まない(T ^ T)
コロコロした塊は乾けば吸い取れるはず、と思っていたら、強力に芝に張り付いていた。

 テーブルクロスには3箇所飛び散っており、手で剥がせると思った塊は、こちらも強力に練り込まれたかのように張り付いていた。
 それはガーデンテーブル用のものなので、諦めて捨てることにしたが、それにつけても人工芝〜😭

 
 もう何でもいいから、早く補修を終わらせて、と願うV。

「早く足場を外してくれないと、手すりを乗り越えて、板の上に乗っちゃうからね!!!」
危険行為は、勿論自己責任。
『‥‥やめとけ』と心の声が聞こえる。


 そんな脅しの台詞を(心の中で)言いたくても、おじさんにペンキの文句を言いたくても(言ったとしても、ドイツ人は仕事のミスを絶対謝らない)、その作業の後、再び誰も来ない日々が続いているのだった。
 


               —了—



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