見出し画像

プダペストの衝撃👑ドナウ川のほとり、Vはエリザベート像を前に立ちすくむ

 年末にハンガリーへ旅した。正確に言うと、目的地はチェコ、ハンガリー、オーストリアで、各国二泊ずつである。相変わらず忙しい旅だ。

 ある日、夫のOが、
「冬の旅行はブダペストにしようと思って」
と言うのを聞いた時、Vは思わず『よしっ! 』と拳を小さく挙げた。

 Vがオーストリア皇妃エリザベートオタクであることはOもよく知っているものの、Oは皇妃に関してまるで興味がない。
 であるから、ハンガリーに決めたのも『久しぶりにブダペストを観光しようかな』と思ったから決めただけであり、エリザベートゆかりの地であることは知らない。何たってOが眺めている『地球の歩き方』の中欧編、ハンガリーのページにはエリザベートのエの字も書いてない。
 ガイドブックは、旅人に対して、一般的で大事な情報を載せなければいけないので、オタクが欲しがるような情報はあったりなかったりするわけだ。それは仕方がない。

 であるので、《目的地ハンガリー》の発表に対して、Vは喜びを爆発させることもなく、平常心を保つ。何なら無表情で「へぇ」と言う。

 しかし、ジワジワとエリザベート関連情報をOに洗脳する。
「オーストリアがハンガリーを統治してた時代がある」とか、「どれだけシシィちゃんがハンガリーを愛していたことか」とか、「マジャール語がペラペラだったんだって」とか。

 Vは行きたいところはあるものの、はっきりと希望を申し出るわけではない。申し出たところで、二日間では限界がある。どうせいつものように忙しい旅行をするのだ。
 伝えた情報から、いかにOがプランを練るのか様子見をする。
 Vが行きたい場所が旅先として挙がると、ご褒美として、少し機嫌良く会話をする。
「わぁ、そこ行きたかったの♪」などと、Oを喜ばせるようなことは言わない。ツンデレである。

 ネットを眺めていたOが、
「メインはマーチャーシュ教会と王宮に行けばいいんでしょ?」とほぼ正解に近い答えを出すが、Vの希望はもう一捻り。
「マーチャーシュ教会と郊外のゲデレー城。シシィちゃんは王宮よりもそっちがお気に入りで、通算2300日も滞在したから」
「えっ? そっちでいいの?」とO。
いつもVが行きたがるのは、旅の王道から外れていて、Oには地味に見える場所なのだ。

『あちらこちら旅をしたシシィちゃんが、それだけの日数逗留した城だから!」というオタク的興味による。

 *ゲデレー城はプダペストから数十キロ離れた郊外にある。一般的には、王宮に行く方が教会とも近いので、そちらをお勧めする。
 
 そして、まだVにはブダペストで行きたい場所がある。Oは気づくだろうか?


                ✨✨👑✨👑✨👑✨✨


 フランツ・ヨーゼフ1世はオーストリア=ハンガリー帝国の国父と呼ばれ、国民から信頼を受け愛された。18歳で即位し、在位68年。
 妻はドイツの王族エリザベート(愛称:シシィ)
ドイツ、ミュンヘン生まれ(1837〜1898) 
 ノイシュバンシュタイン城など多くの城を建てたルードヴィヒ2世は親戚(ルードヴィヒ2世の父親はシシィの従兄))にあたる。

 ヨーロッパ宮廷600年の歴史は、広大な領土を支配したハプスブルク家の隆盛の時代である。
 オーストリア皇妃エリザベート(愛称:シシィ)は、その長い歴史の中で、最も美しい皇妃として名高い。
 ドイツ、ミュンヘンに生まれ、王家の傍流の家系で育った為、郊外のポッセンフォーヘンの城で自由な生活を送っていたが、姉の見合い相手であったフランツ・ヨーゼフ1世に身染められて、16歳でオーストリアに嫁ぐ。
 
 実の叔母でもある姑ゾフィーは、元々自由奔放に育ったエリザベートを疎ましく思っており、結婚後は宮廷のしきたりから始まり、何かとエリザベートを悩ませる厳しい接し方をしていたという。

 初産の長女が夭逝したことを理由に、その後出産した長男ルドルフをゾフィーに取り上げられる。その頃からエリザベートは体調を崩すようになり、暖かい国での静養を勧められる。
 それをきっかけに、皇妃は大きな行事があってもウィーンに戻らないことが多くなり、半年を超える長い旅に出るようになるのだ。

 皇妃は、宮廷の生活に馴染めないまま鬱屈した日々を送っていたが、その美しさが注目されることにより、自身の美しさを意識し、それが武器となることを知り、自信を持つようになったといわれている。

 エリザベートはオーストリア宮廷は嫌ったが、ハンガリーを深く愛していた。ハンガリーの自治権を求める動きを支持して貢献した。オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立し、フランツ・ヨーゼフ1世と共に戴冠し、ハンガリー王妃となる。
 
 エリザベートはハンガリー人の気質や精神に共感し、この国を深く愛した。勉強嫌いで知られる皇妃だが、ハンガリー語は真剣に学び、短期間で習得したという。

 亡くなるまでの長い期間、旅をし続けてきた皇妃は、公務を果たさないことや、莫大な費用の浪費に関して長年批判を受け続けたが、ジュネーブでアナーキストに暗殺されるという悲劇により、伝説の存在となったと言われている。


 オーストリア、ドイツ、スイスなどには、ゆかりの地が多く、様々な場所にエリザベート像が建立されている。
 これまで観てきたエリザベート像は、胸像や立ち姿が多かった。あどけない少女時代や結婚前の初々しい様子の胸像。
 

故郷南ドイツのポッセンホーフェン駅前の像
駅舎はシシィ博物館となっている


 ウィーンのホーフブルク宮殿のシシィ博物館には等身大の立像がある。ほっそりとして美しい。
 身長172センチ、体重は42〜46キロ、ウエスト50センチ(コルセット使用)を生涯維持したという。



 ブダペストのマーチャーシュ教会に置かれている胸像は、オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇妃となった戴冠式の折の姿である。

マーチャーシュ教会の皇妃像

 堂々とした威厳を感じられる。この時エリザベート38歳。美しさの絶頂にあった時期だ。


戴冠式の衣裳

 こうして写真が残っており、実際の美しいお顔を知っている為に、各地にある皇妃の石像や銅像を眺めても、何か一つ物足りなさを感じてしまうのだった。マーチャーシュ教会の石像も大変美しいが、ご本人の方がずっと若く可愛らしい。

 よく考えてみたら凄いことだ。絵画にしても、像にしても、作家の腕で幾らでもモデルの欠点を補えるし、より美しく作ることができるはずであるけれども、エリザベート皇妃の場合、本物の方が美しいのであるから。



この絵はリアル。特徴をよく捉えている
同じ衣裳の有名な絵画 
戴冠式。こちらもたいへん特徴を捉えていて好感度高し


 エルジェーベト(エリザベート)橋のたもとの公園にあるという座像は、戴冠式から何年か経った年代のエリザベートの顔のように見える。
 ネットにはこのプダペストにある像の写真はよく載っているが、製作者と建立の時期について書かれているものは見つけられたけれど、それ以外の詳しい情報は出ていない。

 戴冠式の頃の可憐な美しさとはまた一味違って、風格のある美しさだ。またこれまで観てきた立像や胸像とは趣が違う。
 写真で眺めると、ハンガリー皇妃としての自信と威厳に満ちた、堂々として優雅な姿が表現されているように感じていた。
 この像は1900年に彫刻家ヨージェフ・ローナにより制作された。1898年に暗殺されたエリザベートを、追悼する為に作られたものである。

 この美しい銅像を観たい、とずっと思ってきた。とうとうプダペストに行くのだ。

「エリザベート橋を渡ったところに像があるんだって」とOがネットの情報に気づいたようだ。
 像は中心部から少し離れた場所であるせいで、実際に訪れる人は少ない感じがする。情報がとにかく少ない。Oはよく見つけたものだ。
『よしっ』Vは再び拳を挙げた。


 *ハンガリーへ行ったのは旅行四日目と五日目。この二日間の詳細は後日の記事で。

 ハンガリー二日目の午後、プダペストの街を離れ、これからウィーンに向かう、というハンガリーでの日程の最後に、待ち焦がれた銅像との対面が予定されていた。
 街で一日過ごして、ホテルに置いてあった車に戻った。何のことはない、像のある公園はウィーンに向かう途中にあり、車でないと行きにくいので、単に後回しにされただけのことなのだ。Oの演出ではない。

まだ16:00を過ぎたところなのに、薄暗くなってきた。
中央に見えるのがエリザベート橋


 エリザベート橋を渡り右折すると、すぐにナビがまた「右方向」を指示した。ドナウ川沿いに下る道が現れた。
 前日に郊外のゲデレー城に出かけた折にも、この橋を渡ったので、場所は確認済みだ。ガードレールの隙間から公園とエリザベート像がチラリと見えたので、ここに間違いない。

 円形の公園に沿って、ぐるりと下っていくと、一方通行の川沿いの道に合流した。どうやら橋の下をくぐった先に駐車場があるようだ。
 けれどもそこに空きスペースがあるかどうか、とOと話していると、公園の敷地が終わる辺りの路肩に一台車が停まっているのに気づいた。公園の芝生と道路との際で明らかにそこだけ道は広く、珍しく停車しても問題なさそうなゆったりした路肩だ。駐車禁止の標識もない。こんな場所は滅多にお目にかかれない。
 その車の後ろにOは車を停めた。


 ブダペストも同様に、ヨーロッパの道には驚くほど「路肩」の部分が少ない。駐車禁止の標識がいたるところに並んでいる。
 建物への出入り口を除いた道路の両脇が、縦列駐車のスペースになっているのが殆どであるし、そもそも道が狭い。逆に広い道は車やトラムの往来が激しく、短時間停止できるスペースなどない。であるから、タクシー以外の一般車が、停車することができるのは、Pと標識で指定されている限られた場所だけだ。それも殆ど縦列駐車。それが嫌なら大きな駐車場に入れるしかない。
 旧市街の道は狭く複雑な為、迷うこともある。ほんの少しだけ停止して、ナビの入力をし直したい、というようなことがあっても、停めると違反になるようなところばかりなので、常に緊張がともなう。

「じゃ、行ってきて」路肩に車を停めたOが言う。
 ブダペストまで来ているのに、おまけに観光客でもなかなか来づらいこの場所に来ているのに、Oは車から降りる気はない。
「ちょっと観てくればいいじゃない?!」とVが伝えても、
「エリザベート皇妃には全く興味がない」ときっぱり。毎度のことだ。
 Oは土産物店では、シシィの絵のパッケージの紅茶やお菓子などの品物を見ると、その都度「買わなくていいの?」と勧めてくる。でも興味は全くないのだ。


 思い出した。以前、スイス、ジュネーブのレマン湖に行った時もそうだった。少し横道へ。


     ✨✨👑✨👑✨👑✨✨


 一昨年の旅の途中、Vは湖に大噴水が見え、車がレマン湖の近くを走っていることに気づきハッとしてた。
 「ここまで来たのだから、シシィちゃんが亡くなった場所にお参りに行く」と騒いで、向かうことになったのだった。
 ホテル ボー・リヴァージュ界隈の観光地は、レマン湖の大噴水の対岸であったので、Oに文句を言われた。

 1898年9月10日、エリザベート皇妃が、レマン湖から200mほどの位置にある、滞在していたホテル 『ボー・リヴァージュ』を出て、蒸気船に乗る為に船着場に向かっていた時、イタリア人アナーキストに刺されて亡くなった。その刺された現場に行った時も、Vが一人でその場に行ったのだ。

 この広いペルル・デュ・ラック公園周辺には駐車場がなく、熱を出していたVには、遠くの駐車場から歩く元気はなかった。
 どうしたものかと思っていたところ、皇妃が最後に滞在していたラグジュアリーなホテル『ボー・リヴァージュ』の前の一角に、たまたま停車可能なスペースを発見したOは車を停め、
「じゃあ行ってきて」
とその時もOは言ったのだった。降りる気ゼロ。興味がないから。


モダンな記念碑 細く長い


 公園にあるデフォルメされたモダンなエリザベート像はすぐ見つかった。それを眺めてから、Vは皇妃が亡くなった現場に取り付けられているという、小さなプレートを探して走り回った。

 有名な話であるので、誰に聞いてもわかるだろうと、途中にある二軒のカフェで聞いたところ、「あっち👉」と二回とも同じ方向を示された。その「あっち」に行っても説明書きも何もない。
 20分ほど走り回って、とうとうVは船着場近くの柵の外側、湖に向かって張り出して取り付けられている小さなプレートを発見し、その前の歩道に手を合わせてきたのだった。


やっと見つけた‥‥わかりにくすぎる


左にレマン湖の大噴水が見える


 エリザベートを殺害した、スイスに住むイタリア人アナーキスト、ルイジ・ルケーニは、元々フランスの王位継承候補のアンリ・フィリップ・マリー・ドルレアン(オルレアン公)を狙っていた。貧しい生い立ちで、税金で豊かに暮らす王族を恨んで犯行を計画していたという。
 しかし、オルレアン公は既に前日にスイスを立ち去った後であった為、たまたま新聞に報じられたことで、エリザベート皇妃が滞在していることを知って、殺害の矛先を変えた。
 殺す相手は、王族であれば誰でも良かったのだ。悲劇だ。
 

『エリザベート皇妃ジュネーブに滞在中』と報じられた記事


 エリザベート皇妃はコルセットで身体を締め上げていた為か、ルイジ・ルケーニ手製の細いやすりで胸を刺されたにも関わらず、人とぶつかったとしか思わなかったという。船の出航時間が迫っていた為、皇妃は立ち上がって船に乗る。
 しかし傷は肺まで達しており、出航後しばらくして、出血多量で皇妃は気を失う。傷が小さかった為に、お付きの女性は皇妃の服を緩めるまで出血に気づかなかったという。
 船は船着場に戻り、滞在していたホテルに運び込まれた後、皇妃は息を引き取ったのだった。

 長男ルドルフが皇太子としての立場に苦しみ、17歳の愛人マリー・ヴェッツェラと心中したマイヤーリンク事件の後、悲しみに暮れた皇妃はそれ以後生涯喪服しか着ず、自らも死を望む発言を繰り返していたと、娘マリー・ヴァレリーが話している。
 死因こそアナーキストによる殺害ではあるが、皇妃は殺害される恐怖も、死の恐怖も意識することなく、天に召されたのだった。

 
 レマン湖のほとりは、このような悲劇の舞台であることを、VはOに繰り返し話していたのだが、全く興味を持たれることもなかった‥‥Vが興味を満たせば、Oはそれで完結なのだ。
 どうせならホテル内を見学してお茶を飲んだり、廊下の遺品の展示も見たかったけれど、シシィ博物館の展示でいいや、と諦めることにした。熱もあったので。


    ✨✨✨👑✨👑✨👑✨✨


 話は横道からブダペストに戻る。
 ドナウ川のほとりで、車を停めたOから
「じゃあ行ってきて」と声をかけられ、レマン湖の時と同じだ、とVは思いつつ、
「行ってくる! 」とスマホだけ握りしめて、公園に走って行った。

 数十メートル進んだ先に、エリザベート皇妃像の後ろ姿が見えた。
 4時半近くなり、少し暗くなりかけた公園には誰もいない。街灯も点き始めた。
 おそらく昼間であっても、この場所には車で観光する、それもエリザベート推しの観光客以外は殆ど来ないだろう。中心地から離れた場所である上、周囲に橋以外は何もなく、公園に像があるだけなのだから。
 ネットで検索すれば、この像の写真はよく見られるけれども、Oの持っているガイドブックには掲載されていない。
 敢えて『エリザベートゆかりの地巡り』をしようとする人以外は、恐らく来ようとは思わないだろう。
 ブダペストのメインの観光地は、ドナウ川の向かい岸、ブダ側の王宮の丘や国会議事堂などのある地域なのだ。

 
 丸い公園には、像を眺められるように、少し離れた位置にベンチが半円を描いて並べられている。
 誰もいない公園、V一人で像と対面できる!  シシィちゃんに会える!
 シシィちゃんの生まれ故郷、南ドイツのポッセンホーフェンに行った話をしようか、レマン湖に行った報告をしようか。

「うわ〜💓綺麗!!!」
とVは興奮して像の正面に回り込み、優美な像の全体を眺め、溜め息を漏らした。思ったよりも大きく、本当に美しい。
 これまで見てきた皇妃の座像は、皇妃がお行儀良く、椅子にスッと腰掛けたものばかりだった。それが、今目の前にある銅像は、これまで見た中で最も大きく、彫刻のある椅子にゆったりと斜めに腰掛け、裾が大きく広がる優雅なドレスをまとったエリザベート皇妃の堂々たる姿である。

 例えるならギリシャ神話のような芸術的な美しさ。手の動きを見ても、誰かと何かを語り合っているその一瞬を捉えたような、動きのある、物語を感じるデザインだ。



 正面から何枚か写真を撮り、Vはエリザベート皇妃が斜め下を見下ろしている側に移動した。
 つまりエリザベート皇妃と向き合う位置に立って見上げたのだった。


        そして‥‥目が合った


 その瞬間、頭のてっぺんから衝撃が走った。
『うわっ💦💦💦』
声も出ず動けない。人生で初めて足がすくんだ。背中に寒気が走る。

 睥睨する皇妃の視線、その場に凍りついたようになって、どうすべきかわからなくなったVの口から出た言葉は、
「さっき『シシィちゃん』なんて気楽に呼んでごめんなさい💦」
であった‥‥子どもの言い訳のようだ。でも他に何も言葉が出ない。

 畏怖の念?  何だかそれとも違う気がする。
何だろう‥この怖さは
 これまで銅像、彫像は山のように見てきたけれど、怖いなどと思ったことは一度もない。霊感だってない。
 実在したリアルな人物の銅像も、グロいギリシャ彫刻も、悲痛なキリスト像もいろいろ見てきた。でもこんな経験は初めてだ。

 その時感じたことは、顔がリアルすぎる、ということだった。美しい皇妃の肖像画は沢山残されているが、やはり絵であり、画家の主観が入っていて完璧な写実ではない。
 しかし皇妃の美しい写真は多く見られるので、本当のお顔はわかっている。

 年齢を重ねてからは、容貌が衰え始めたことを意識して、皇妃は人前で顔を晒すことや、人と会うことそのものも避けていた。
 であるから、それ以降に描かれた肖像画は、画家の見た写真や絵の過去データから導き出した想像画なのである。


亡くなる前の姿の肖像画。
新聞に掲載された写真を元に書かれたと言われている
お顔は50代前半くらいの時期を参考にしているように見える



 銅像に関しては、写真が残されている時代の人なのだから、もっと似た顔にできるはずなのに、といつも思っていた。
 この目の前の銅像は、写真の皇妃の顔立ちとそっくりで美しい。頬が少し痩せているので、おそらくハンガリー皇妃になってからしばらく経った頃、40代半ば以降のお顔のイメージだろうか。円熟味と凄みの増した、大人の皇妃の姿とVは捉えていた。

 それはそれとして、とにかく怖い‥‥Vは足がすくんだまま、どうにか目線を外して、茫然と像の正面に足を引きずるようにして戻る。
 どうしよう‥‥怖い‥‥でももう二度とここには来ないかもしれない。‥‥お願いするしかない。

「写真を撮らせていただきます。すみませんっっっ
宜しくお願いしますっっっ」
 ブダペストまで来て、一人で何を言っているのだと思いつつ、本当に他に言葉が出ないので仕方ない。
 Vはこんなに泡食った自分を知らない。酷い。

 背筋をザワザワさせながら、目が合う位置にも移動して、目線を少し外しつつ撮影した。
 20枚くらい撮ったところで、満足した。もう少し遅い時間だったら、暗くなりすぎて表情も見えなかっただろう。
 ウィーンに戻る前、ブダペストに別れを告げるこのタイミングで、念願叶って皇妃像に会いに来れて良かったのだ、と思う。
 昼間だったら、もしかして他の観光客もいて、皇妃像との対話もできなかったかもしれない(対話というより、蛇に睨まれた蛙のお詫びのようだ)。

 皇妃像に向かって、別れのご挨拶をする。
「ありがとうございました。皇妃が愛したブダペストに来ることができて、ここでお目にかかれて良かったです」
 像を見上げると、またゾクゾクが蘇る。目線はもうとても合わせられなかった。とにかくここから早く離れねば、と本能が叫んでいる気がした。
 そうして挨拶をしたものの、
「また来ます」とは言えなかった。

 ブダペストはとても素敵で、また来たいけれども、何か複雑な思いがした。
 社交辞令(銅像に?)でもいいから「また来ます」と像に向かって言うべきではないかと思ったものの、背筋のゾクゾクがそれを阻んだ。
 
 結局、
「お邪魔しましたっっ! 失礼しますっっっ」
と頭を下げて、逃げるようにVは立ち去った。

 振り返らずに、公園を抜けた。絶対に振り返ってはいけない、というギリシャ神話のオルフェウスの悲劇を思い出していた。
 地上に出るまで決して振り返ってはならなかったのに、不安で振り返ってしまって永遠に妻を失ったオルフェウス。

 これを思い出しながら、走って車に戻ったV。

 それからウィーンに戻るまでの2時間半、皇妃がこちらを見下ろす顔を思い出す度に、Vは全身に鳥肌が立った。

「怖かった〜💦💦💦怖いっていうか‥‥何だかわかんない〜💦💦💦」
と、Oにこの時の様子を喋り続けた。


O「わざわざ会いに来てくれて、シシィちゃんは喜んでくれたんじゃない?」
V「喜んでたとは思えない‥」
O「暗くなりかけていたから怖かったんじゃない?」
V「今まで暗い中で銅像を見ても、怖いと思ったことない‥‥」


 皇妃はオーストリア宮廷を毛嫌いしたが、ハンガリーを心から愛し、尽力し、人民からも大変愛された。熱心にマジャール語も学び、短期間で話せるようになっていた。

 オーストリアを離れ、自由を求めた長く続く旅の日々とは違い、皇妃として公の立場で、自分の意志でハンガリーには長く滞在したのだ。
 亡くなった後、皇妃の魂はブダペストに帰ったのかもしれない。人の念というものは、人生の中で最も大切にしていた地に戻って行くものなのかもしれない。

 ‥‥Vのあの衝撃は、改めてエリザベート皇妃の成熟した美しさに魅入られた、ということだろうか。真の畏怖の念とは、あのような状態になるものなのだろうか。雷に打たれたような、とよく言うけれど、それにも近い気がする‥‥
 

 Vはいつまでも考え続けた。



               —了—



【次回予告】
次回はプラハ、ウィーン、プダペストからまたウィーンに戻った旅をお届けします🎶
この移動と日程がまた‥‥お楽しみに(^-^)

いいなと思ったら応援しよう!