小野川万菊の原点?「メゾン・ド・ヒミコ」から20年&田中泯ドキュメンタリー映画「名付けようのない踊り」&「夏の砂の上」
映画「国宝」で小野川万菊役を演じた田中泯さん。
その圧倒的な存在感。指の先まで研ぎ澄まされた身体表現。ゾクゾクするような声色。
主役の吉沢亮&準主役の横浜流星両氏が演技の熱量で圧倒してきたのとは対照的に、短いシーンながらも深く脳裏に、静かに侵食するように印象に残り、映画を観た後、数週間経っても未だにあのゾクゾク感が蘇ったりするほど。
で、そう言えば、田中泯さん、20年前の映画「メゾン・ド・ヒミコ」で、ゲイ専用の老人ホームを作ったゲイバーのママ・ヒミコ役をしていたはず…と思い出し、改めて「メゾン・ド・ヒミコ」を観てみました。
そしてそこから派生して、「メゾン・ド・ヒミコ」の犬童一心監督が田中泯さんのドキュメンタリー映画「名付けようのない踊り」を撮っていて、それも観た感想の記事です。
小野川万菊のセクシュアリティ
「メゾン・ド・ヒミコ」に行く前に、少し前置きで小野川万菊のセクシュアリティについて。ゲイのヒミコと女形の小野川万菊を結び付けるのはおかしい、ゲイと女形は別物というかたもおられるでしょうが、もちろんそれはそう。ただ私的にはこの場合に限っては小野川万菊=ゲイ説は十分あり得る話だと考えています。
まず簡易宿舎のようなところで寝ていた死ぬ間際の様子から、家族らしきものはいなさそうだったし、なにしろこの「小野川万菊」という名前、以前何かの記事を書いてる最中に知った三島由紀夫の「女方」という短編小説に出てくる「佐野川万菊」をモジってるんだと個人的には勝手に思ってます。
元々「佐野川万菊」は江戸時代、元禄の頃にいた歌舞伎役者の名前。それを三島が小説「女方」で稀代の真女形として登場させる←こちらの時代設定は昭和かな?
(当初は「瀬川菊之丞」という名前にしていたが、執筆当時、実在の同名の俳優がいたので変更したんだそう。瀬川菊之丞は現在やってる大河「べらぼう」で平賀源内の恋人だったのが二代目・瀬川菊之丞。彼が「鷺娘」の初演をした人物らしい。この二代目の養父である先代が初代の瀬川菊之丞で、能の「道成寺」から「百千鳥娘道成寺」という舞踊を(創作して?)踊り、それが映画「国宝」でも見られた「娘道成寺」の元になっているんだそう。この初代、二代目の両菊之丞、ともにゲイだったっぽい。初代は一旦引退した時に、”大坂で源右衛門という男に身を託しともに暮らした”と書かれているし、”日常生活でも女装を通した”ともある。二代目も源内との関係を考えるとやはり同様)
で、この三島の小説「女方」の佐野川万菊のモデルと言われているのが六代目 中村 歌右衛門。Wikiを見ると、”付き人の男性と駆け落ちして温泉街に逃れた”と書かれていたりする。私は写真を見たら、あ~見たことあるかも?程度の認識だったので、そういうエピソードは今回初めて知って、「ホォ~なるほど」となりました。
小説「女方」の佐野川万菊も新劇の男性演出家・川崎に恋をし、その万菊に心酔している主人公・増山も二人の関係に嫉妬したり、男同士の愛憎が描かれている模様。ガッツリ男色的な内容なんですね。
なので、こういう流れというか、色々な背景を知ると、「国宝」の小野川万菊もゲイという裏設定があっても不思議ではなく、むしろそうに違いない!と思ってしまうわけです。
「国宝」の小野川万菊と「女方」の佐野川万菊を比較したり、六代目中村歌右衛門などについて書かれているこんな記事もありました。
中村歌右衛門さんを中心に女形についていろいろ書かれていたりして興味深い内容。所々難しすぎて理解が追い付かない所もあるけど😅。
とういうわけで、「小野川万菊」というゲイだと思われる役の原点に、「メゾン・ド・ヒミコ」のヒミコ役があるのか?単純に見比べてみたいと思ったのでした。田中泯さんが演じたヒミコは小野川万菊ほどの圧倒的な存在があったのか?なかったのか?この20年間で田中泯の演技はどう変わったのか?そこに注目して見てみたい…そんな好奇心から。
「メゾン・ド・ヒミコ」
あらすじはこんな感じ(Wikiより抜粋)
本名:吉田照男、卑弥呼(田中泯)は、かつてゲイバーのママだった男。彼はゲイのための老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」を作り、自らも他のゲイたちと共にそこで暮らしている。しかし彼は癌の末期であり、死期が迫っていた。
卑弥呼には沙織(柴咲コウ)という娘がいる。彼女は、母親と自分を捨ててゲイとして生きることを選んだ父親を許せないでいた。卑弥呼の恋人である岸本春彦(オダギリジョー)はそんな二人の関係を修復しようと、老人ホームでの高額なアルバイトを沙織に持ちかける。
主人公はあくまで沙織、次に春彦。この二人がメインでヒミコは存在感はあるけどセリフも少ないし、出番も他のゲイのメンバーの方が多いくらいで、そこまで強烈に印象に残るという程でもないかもしれない。他のキャラが個性強すぎるというのもあるけど…😅。
監督は犬童一心、脚本が連ドラ「カーネーション」の渡辺あや。
確かにカーネーションのように人の人生の悲喜こもごもを、ときに可笑しく、ときにシリアスに、ときに痛みを伴う刃のような強烈さで描いている。
そしてチラッと見かけたレビューでは、なんと大島弓子の漫画「つるばらつるばら」が原作だというようなことが書かれていた。これは公開当時にそう発表されていた情報なんだろうか?Wikiとかにはそういう情報はなかったけど…。
「つるばらつるばら」は昔読んだことあったような(収録本に、これまた映画化された「毎日が夏休み」なんかが入っているので)…でも全く思い出せないので、今回改めて読んでみた。
あらすじは、継男という男の子が主人公。
彼は小さい頃から同じ夢を見ていて、小さい路地、バラの垣根、石段、木のドア、そして男の人が待っているというもの。
小さい頃からスカートを履きたがったり、中学生の頃には男の子を好きになったりするような人物でもある。(←この時点ではゲイの男の子なのかな?ぐらいに思っていた)
彼は皆の前でその好きな男の子に告白し、それからいじめに遭い、自殺を試み、その生死の狭間に見た夢で自分が”たよ子”という人物の生まれ変わりだと確信する。夢に出てきた家はたよ子が夫と二人で暮らした家で、夫はたよ子を待っていると信じるようになり、それ以来、その家をずっと捜し歩くことになる。
そして大学で東京に出て、働き始めてお金が出来ると、たよ子に似せて整形までする(おそらく性転換も?)。(←この辺りでトランスジェンダーの話っぽくなってくる。だけどいくらたよ子の生まれ変わりだと言っても、前世の性と現世の性の区別や線引きぐらい付きそうな気もするから、ちょっと強引というか、なにもたよ子になろうとしなくてもいいのに…と個人的には思うのだけど…。それともそもそも女性になりたくて、全てを夢のせいにして性転換までしたのか?…とも思ったり。でもそれなら執拗に夢の家を探し続けなくてもいいし…。とにかくタッチは軽く描かれているけど薄っすら狂気じみてるようにも感じるんですよね。)
そして、たよ子としてゲイバー?ニューハーフバー?で働きながら、あいかわらず夢に出てきた家を探し続けて…というお話(あとは本編をお読みください)。
「つるばらつるばら」もゲイとかトランスジェンダーとかを扱ってはいるけど、全く「メゾン・ド・ヒミコ」の話とは別物。なんでこれが原作という話になっているのか?インスピレーションを貰ったということなんですかね?
ヒミコのモデルが継男ということなのか?でもヒミコに関してそんなエピソードはなかったはず。そもそもヒミコは沙織の母と結婚して沙織をもうけているわけで、継男とは全く違うし。
「メゾン・ド・ヒミコ」の感想
で、「メゾン・ド・ヒミコ」の感想はというと、普通に面白かった!!
ただ★評価するなら★7/10ぐらいかな?ちょっととっ散らかってる印象。
観ながら頭に浮かんだことを書き連ねると、
*柴咲コウはいつもしかめっ面で怒ってるなぁ。20年経ってもずっとこのキャラしかしてない印象なんだけど…😅。
*オダギリジョーのゲイでヒモっぽいキャラ造形は想像以上になかなかイイゾ!! これがこの映画観た中での最大の収穫かもしれないw
ただあの環境でいる割にはゲイが持つ独特な性的オーラみたいなのは感じられなくて、ちょっと淡泊すぎるな…とは思ったけど。それでも何が特筆すべきかというと、オダギリジョーが”カワイイ顔”をところどころでブッ込んできてるところ。基本クールな役か、ちょっとおかしい役なんかが多いけど、ここでは子犬や子猫みたいな、母性本能くすぐるような、庇護欲を搔き立てるような、そういう表情、いやらしくない媚びの演技をしているのが新鮮でした。ダメな男の役で、女の方が何とかしてあげなきゃ…みたいなパターンは見たことあるけど、この目をクリクリさせて見てくるだけで、「あ~、ほっとけない!お世話させてっ!」っていう、ダメさ由来じゃなくて可愛さ由来に全振りしてる感じ。こういうイケメン具合を活かした媚びの演技とかは嫌いというか抵抗があるのか、避けてると思っていたんだけど、キャリア初期にはいろいろやってたんだな~。
*「メゾン・ド・ヒミコ」の住人はヒミコの同僚だった元ゲイバーの人たちなのかもしれないけど、ステレオタイプの露悪的な下品なゲイ、オカマ像が中心に描かれていてちょっとウンザリ(映画的に刺激の強いものを選びたくなるのは分かるけど…)。あの紳士で穏やかなおじ様キャラの人とかもいるんだから満遍なく沙織に交流持たせて、彼らに対する偏見をいろんな角度から解消していく部分を丁寧に描けばいいのに…。
*ドレスを作るのが好きな山崎さん。しかし自分には似合わないからと着ることはしない。死んだときに着せてくれたらいいと。それを沙織が発破かけてドレスを着させ、そのままダンスクラブ?ダンスホールにまで出かける。←いやいや女装させるならちゃんとウィッグ付けてメイクまでしてあげなよ!!あんな薄ら禿げ頭のままでメイクもほとんどせずにドレスだけ着てるオッサン、そりゃあの元同僚じゃなくてもビックリするよ(罵るのは勿論ダメだけどね)。それに山崎さん自身も、あんたそれでいいの?あんたの美意識はその禿げ頭でドレスという組み合わせを許せるのか?それと仲間のゲイ達もなんか言ったれよ!女装して客商売していた人もいるだろうに、あんたたちも美意識ないんか?…というツッコミが頭の中でズ~っと納まらなかった。なんか制作陣が敢えて禿げ頭にドレス”という滑稽なオカマ像、滑稽な絵面を出すことで悲惨さを強調したり、笑いにしようとしてたり、無意識の悪意があるような気がして嫌だった。
*みんなで踊り出す場面。↓これね。
自分の中で、「楽しそう!一緒に踊りたい!微笑ましい!」みたいに思う部分と、「いやいや、なんでみんなで一緒に踊り出すのよ?こういうの制作側の「ホラホラ~面白いでしょ?楽しいでしょ?」っていう押し付け感というか、内輪ノリを見せられてる感というか、そういうの感じてモヤっとするんだよねぇ…」というのが入り混じって微妙な心境になる。
こういうみんなで踊る系の映画って原点は何なんだろう?ミュージカル映画とかから来てるのかな?「メゾン・ド・ヒミコ」が2005年、他に思い出したのが「めがね」の踊りというかこの体操。これが2007年。
これも面白いと思う感覚となんかちょっと嫌だなという想いの相反するアンビバレントな何とも言えない感情になるんですよね。制作陣の作為をあまりにも感じるからかなぁ。
2011年の映画「モテキ」でも主人公を演じた森山未來を中心にみんなで踊っていた記憶があるけど、
これは主人公の気持ちの昂りをダンスで表現していたというか、彼の妄想を映像化してみせた感じだからか、そこまで嫌悪感はなかった。
そう思うと「メゾン・ド・ヒミコ」のダンスも、沙織と春彦の気持ちの昂りを表現していたと考えたらいいのか…?でもなんか「モテキ」の勝手に踊ってる感じよりも、さあ皆さんも一緒に踊りましょう!!っていう全体主義的圧みたいなものを薄っすら感じるんですよね。それが、群れるのがあまり好きでなく反抗的な一匹狼傾向の強い自分には何か引っかかる…ということなのか?←シランガナw
*ゲイの老人ホームというと特殊な環境な気がするけど、独居老人のシェアハウスと捉えると、ちょうど最近、政府も推進するとかいうニュースがあったばかり。
この高齢者シェアハウスというテーマだけでも一本の映画撮れそうなところに、ゲイの問題、そこに沙織とヒミコの親子の確執問題、さらに沙織と春彦の疑似恋愛関係、性転換を家族に秘密にしていたルビィの介護問題、近所の男子中学生?たちのゲイ・バッシング、クローゼット・ゲイの山崎と元同僚からのゲイ・バッシング、その他諸々を織り込んでいるので、やはり風呂敷を広げ過ぎて焦点がボヤけたような印象。
*ヒミコと春彦との関係がもっと丁寧に描かれていて欲しかった。なぜ二人が惹かれあったのかとか?馴れ初めエピソードもないし、二人の絆の強さがよくわからないから、春彦がどういう気持ちでヒミコの世話をしているのか?沙織に手を出そうとした切実さがどの程度のものなのか?ヒミコは春彦をどう思っていたのか?ヒミコを失うことに恐怖を感じるほどなのか?それとも介護から解放されたい願望もあるのか?など、分らないことが多過ぎて感情移入が難しかった。春彦の外見のキャラ造形は良かったんだけど、内面のキャラ造形がちょっと掴みどころがないというか、何考えてるのかわかりづらい、いや何も考えていない、その時々の気持ちに忠実に流れのままに生きているということなのか?何回か観たらもっとよくわかるのかな?でも何度も見返したい!!っていうほど心に刺さる映画でもなかったからなぁ…。
*沙織が勤める塗装会社の専務の細川。演じる西島秀俊はこの頃、こういったちょっと嫌な奴とか、ヤサグレた男とか、そういう役が多かったな~と。「八重の桜」でカッコイイ兄役をやった辺りからイイ人キャラ、正義キャラにドンドンシフトしていった。またこういうクセのある役もやって欲しいところ。
*春彦(オダジョー)が細川(西島秀俊)に興味あることを示して、一緒に食事に行ったりしてたから、どうせなら細川には女だけでなく男も食い散らかして貰いたかった!!経験したら男もまんざらでもない…みたいなヘテロ男の凝り固まった価値観をぶっ壊す的な、性の流動性をサラッと入れても面白かったのにw
それと西島×オダジョーという腐女子の夢カップルを成立させることで「メゾン・ド・ヒミコ」は別の意味で伝説になれたかもしれないのに。こういうところは思いっきりが悪いんですよね邦画界って。おそらくGOサインを出せない制作陣、もしくは映画会社上層部のホモフォビアが根強かったんだろうな。あれから20年経って、いまなら変わるかな?
ノンケがゲイに喰われるって話は昔からあるわけですけど、それでゲイに目覚める人もいれば、自分はストレートだと改めて強く認識する人もいる。逆に「アレッ?どっちでもイケるな…」みたいになる人もいる。このゲイに喰われたストレートの男のセクシュアル・アイデンティティの混乱と、そこから真に自分が望むものは何か?どこまでが固定概念に引っ張られているのか?どこまでが新しいコンセプトを受容できるのか?…と、主人公が積極的に探求していく過程をコメディタッチで描いたような作品とかあってもよさそう。性に関しては「変態大国」って言われる日本だけど、案外そう意味ではワンパターンだったり、固定概念にとらわれ過ぎてて最近は保守的な気がする。そういう境界をもっと攻める系のは海外の方が多いような気がしないでもない。逆に江戸時代とかの春画なんかを見ていると、今よりもっと多様で、いろんな境界を飛び越えたような性のカタチが提示されていて興味深いというか、日本人の性への探求心に驚かされます。
*一番印象に残ったシーンは、ヒミコが大量の血を吐いたあと、春彦が「俺、欲望が欲しいんだよ」「強烈なのが欲しいんだよ」と言う場面。
死にかけてる人間とずっと一緒にいて自分も死に取り込まれそうな気分になり、”生”の実感を欲する。”生きること”と”欲望を持つこと”は切っても切り離せない。沙織も死に行く父親と関わる中で、地味で平凡、言いたいことも言わず、刺激のない生活だったところから、もっと自分の欲望に忠実に言いたいことも主張して生きるように変化していく。
そしてヒミコを代表するメゾン・ド・ヒミコに住んでいるゲイの人たちも、ある意味その欲望に忠実に生きた人たちとして描かれているんだろうなと。脳卒中で介護が必要なルビィを息子に引き渡した後に沙織が言う「ホント虫唾が走る、あんたたちホモのエゴって!」って言葉、生きるためには欲望がつきまとうけど、その欲望には結果が伴う。いい結果もあれば悪い結果もある。それに対してどこまで責任が持てるのか?もちろん全てに責任なんかは持てないけど、だからと言ってほっぽり出したり、他人のせいにしたり、誤魔化し続けていいのか?欲望(自分の欲を叶えながらも他人に迷惑を被らない)とエゴ(自分の欲の遂行で他人を巻き込んで被害を与える)の正しい線引きというのはできるようでなかなかできない。失敗して痛い目に遭ったり、葛藤したり、バランスを取ろうとしたり、そうやって迷いながらも進んで行くのが人生なんでしょうね。
生きることと死ぬことを見つめながらそこに絡みつく欲望を時にシリアスに、ときに滑稽に描いていているという点では非常に面白い映画だった。ただやっぱりちょっと詰め込み過ぎ感は否めなく、ゲイサークルの子たちとか、ピキピキピッキーとか、気になるところが多すぎて、メインのテーマに集中し辛いのがやはり難点かなぁ。面白いんですけどね。ウン、おもしろいんですよ。まあ人生なんて理路整然となんかしてなくて、大抵ハチャメチャだったりするわけで、これでいいと言えばこれでイイのかもしれない。
田中泯のヒミコの演技
で、一番注目した田中泯さんがどう”ヒミコ”というキャラを演じたか?という部分。
う~ん、ハッキリいって少し物足りなかった。
ただこれは、先に「メゾン・ド・ヒミコ」を観ていたらそんなこともなかった気はする。今回「国宝」を先に観て、「国宝」の小野川万菊とどうしても比較してしまうので、そうなるとやはり何か物足りなかった。キャラ設定自体は妻娘を捨ててゲイバーのママになり、ゲイ専用ホームを作ったという奇抜さなので記憶に残るかもしれないけど、実際の人物像は病に臥せってるイメージが残るだけで、万菊のように何度も脳裏で蘇って手招きしてくるような余韻みたいなものはない。
ヒミコとしての存在感は確実にある。ただそれはもう田中泯さん自身が持つ存在感、それに多分に頼ってる感じ。あと田中泯さんの声もまた存在感に寄与してる。あの落ち着いた、浮わついたところのないフラットなトーン。あれが凄みを感じさせ、場面をキリっと引き締める。
この”田中泯の存在感”だけしか活かしきれていないキャラ作りというか、演出というか、制作側の力量の問題が大きいように感じた。
そこで田中泯さんの映画デビュー作である山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」も見直してみた。
デビュー作でいきなり日本アカデミー賞で最優秀助演男優賞を受賞した作品。(というか、この作品はこの年の賞をほぼ総なめしてる)
やはりこの作品でも田中泯さんの存在感は凄い。
ただ演技という部分では、デビュー作という先入観があるからかも知れないけど、セリフ回しに少したどたどしさはあるようにも感じる。しかし演技というのはセリフ回しだけではない。肉体表現も大事なわけで、ダンサーとして肉体表現をずっとしてきた田中泯さんはコチラがずば抜けているわけです。山田洋次監督はそこを見込んで彼にこの役をオファーしたんだろうなと。
この「たそがれ清兵衛」でもセリフ自体はそれほど多くなく、見せ場は清兵衛の刀が竹光だと知って急に目つきが殺意を孕んだ目にゾゾっと変わるところと、最後の清兵衛との殺し合いの場面。本当に「魂(たま)の取り合いやで!!」と極妻の三田佳子(だったっけ?岩下志麻姐さんならスイマセン😅)も言いそうなくらいの鬼気迫る殺陣は見てる側も息を呑むほど。
そして今回、前情報で知っていたから注目して見たんだけど、泯さんが演じる余吾善右衛門が死ぬ場面。あそこが泯さん曰く”踊っている”んだと。確かに物凄く余韻を持って舞うように死んでいく。あれは下手な役者にはできない動きだな…とは本当に思った。やり過ぎると、死ぬ前なのになんでそんなに動けるねんっ!!ってなるし、ギリギリありかも?という絶妙なラインで動いて、あの死に行く様、壮絶さ、苦悶、無念、諦観なんかを肉体で表現している。
これは山田洋次監督の采配が優れていたということに尽きると思う。
田中泯という人物のもつ強み(存在感と肉体表現)をよく理解し、最大限役に活かしてる。肉体で表現させる、それをさせないなら田中泯を使う意味がない…とまでは言わないけど、それをさせることで存在感も相乗効果で何倍にも増すはず。それなのにそれを使わせないということは宝の持ち腐れというか、ただただ勿体ない。
そういう意味では「国宝」は、田中泯の存在感と肉体表現をどちらも最大限生かしたキャスティングだった。一方「メゾン・ド・ヒミコ」は末期ガン患者ということで、殆ど動きらしい動きはない。
それで、どういった経緯で犬童監督が田中泯を「メゾン・ド・ヒミコ」にキャスティングしたのかと知りたくてググってみると、↓の記事を見つけました。
日本アカデミー賞の会場で(おそらく前年の「たそがれ清兵衛」の受賞で翌年の)プレゼンターとして来ていた泯さんが目について、なんだこの異質な方は…と興味を持ったのが最初らしい。
そしてこんなことも言ってる。
”泯さんを『メゾン・ド・ヒミコ』にキャスティングするときに、ダンサーだということを知らないでキャスティングしたんです。”
もちろん実際にキャスティングする段階では泯さんがダンサーだとは知っていただろうけど、犬童監督的には泯さんの存在感の凄さがあまりにも強烈で、そこを重視してキャスティングした感じなんだなと。だから肉体表現を使ってもらうことはおなざりとまでは言わないけど、それほど重きをおかなかったのかなと。
一方で、泯さん側はどういう気持ちでオファーを受けたのだろう?この”ヒミコ”という役のどこに魅力を感じたんだろうか?清兵衛の時のようにわかりやすく肉体表現をするシーンはないのに。
私が想像するに、まずその”死んでいく人間”というものを自分の肉体でどこまで表現できるか?ということに挑戦したかったのではないかなと。
次に所謂ゲイバーのママとして、フェミニンな表現、しかし完全に女性でもなく、男性だけど女性でもある、その複雑な性表現を、これまたどこまで肉体で表現できるか。クネクネしてるステレオタイプのオカマキャラを演じればいいわけではない、この死の間際でさえ凛とした強さも兼ね備えたヒミコという役はかなり難しい。
この二つを同時に表現しないといけないわけで、これはかなりチャレンジング。だけど「オラ、ワクワクすっぞ!」とある意味エキサイティングな挑戦であり、それこそ生きてる実感を与えてくれる欲望を満たす行為でもある。
でも監督はあまりそこを重要視してなかったのかな?ヒミコが死ぬ場面も殆どすっ飛ばされて拍子抜け。別に枕元に皆が集まり、一人ひとりに声をかけ、最後にこと切れてガクっと首がしなだれ落ちる…みたいなベタなヤツは要らないんだけど、泯さんが死ぬ間際をどう表現するのかは見てみたかった。
あとヒミコに関しては、今ひとつ何十年も女装して生きてきたというほど滲み出るフェミニンさみたいなものはあまり感じられなかったかなぁ。でもふと頭に浮かんだのが、夫の借金返済のために六本木でママもしていたという故・淡路恵子さん。声のトーンが似てたのかな?落ち着いて、芯があって、媚びてない、しかし最後に沙織に「好きよ」と言ったところは慈愛も含んだような、彼女のイメージが重なった。
「国宝」の小野川万菊の時に私の脳裏に浮かんだのは美輪さんなんですけどねw。そりゃ喜久雄に「あんなんバケモンや」って言われても不思議じゃないw。
「名付けようのない踊り」
で、「メゾン・ド・ヒミコ」の時は田中泯さんのダンサーとしての肉体表現にさほど注目していなかったかのような犬童監督が(←私の勝手な想像ですけどね)、17年の時を経て、2022年、その泯さんのダンサーとしての肉体表現に全集中して撮ったのが「名付けようのない踊り」というドキュメンタリー映画。
田中泯がダンサー、おそらく前衛的なダンスをする方なんだろうな、というのは知っていたけど、どういう経歴で、実際どういうダンスをするのかということは知らなかった。それをじっくり見せてくれるこの映画、凄く面白かったです。そして何より、世界各地を巡って、映像としても非常に美しい撮り方をしていて、泯さんが風景の中に佇む姿とかも画としてのこだわりを感じるし、泯さんが踊っている姿を映す中にも、彼の肉体を美しく見せようという犬童監督のフィルターを感じました。
インプットとアウトプット
”場踊り”というのが泯さんがこの映画の中で度々披露する踊り。
ググると、こう出てくる。
「場踊り」とは、場所の特性や雰囲気に合わせて即興で踊るパフォーマンスのことです。日常に存在する様々な場所を舞台に、その場でしか生まれない踊りを追求しています。
映画の最初の方だったかな?ポルトガルの石畳の路地で、人が通り過ぎる中一人で踊っている泯さん。その時、建物の隙間から差し込む光に向かってゆっくり動いている泯さんを見て、私は”死”を表現しているように感じた。どんな意図で表現されていたのかはわからない。でもおそらくどういう風にでも、受け取る側の数だけ好きなように解釈してOKと考えられてると思う。そこに私は”死”を感じたんです。少し半開きの口、焦点の定まっていないのような目、私の中にフラッシュバックし重なったのは、93歳、老衰で亡くなった祖母の姿。そこには魂の抜けた抜け殻のようになった体。記憶に残る生きていた頃の姿よりも一回りも二回りも小さくなって生気の吸い取られたミイラのような体。あの半開きに開いた口、まるでその奥に深淵が覗いているかのような、薄っすら恐怖を感じるような闇。私に刻まれた”死”の姿と泯さんの肉体表現が重なった瞬間。
そして路地の傍らにうずくまって横になる。まるで死んだホームレスのように。そして踊りが終わると、スッキリした顔で(この記事のタイトル画像の右下にある写真)で二カッと笑う泯さん。まるで死の淵から生還したよう。
この姿を見て、田中泯さんの踊りとは、世の中の人間が表現する全ての”動き”、生まれたての赤ん坊の動きから死に行く老人の動きまで、いや人間だけでない、動物も、植物も、世の中にある全ての生きているもの、動くもの、そのモーションを体にインプットして、それを”場踊り”として、表現する舞台においてインスピレーションのままにアウトプットしていく…そういう踊りなんだろうなと。
後半に福島の誰もいない家を訪れ、そこにいた蜘蛛の動きをマネて踊りだしたりもする。面白いと思う動き、インスピレーションを与えてくれる動きをすぐさま真似て自分に取り込む。そしてまた別のインスピレーションを感じた場所で取り出す。それも即興で。その作業は難しいこともあるだろうけど、途轍もなく楽しそうだとも感じる。世界を自分の中にドンドン取り込んでいける。世の中にあるものが全て魅力的に映るだろうし、観察することも楽しくて仕方なくなるんじゃないだろうか?
映画の中で、泯さんは自分の子供時代のことを”私のこども”と表現する。映画はその部分、子供時代の記憶をアニメーションで表現している。その中で強烈だなと思ったのは、警察官だった父親が、溺死体など、死体がある現場に度々子供の泯さんを連れて行き、死体を見せようとしていたということ。
死体は勿論動かないけど、死体とはどういう肉体表現になっているか?死後硬直した手足の様子など、硬直の仕方も様々で、おそらく子供の泯さんは目が離せない中で観察したんだと思う。最初は怖いだけだったかもしれない。でも次第に冷静に観察しだして、前の死体とはココが違うなとか、そういう差異が気になって、自分の中に取り込んでいくようになる。アーティストの業というか、そこが気になりだすと、恐怖や悲しみを越えて欲や興味が上回ってくる。
様々な死を取り込むことは、逆に様々な”生”にも関心を向かわせるきっかけにもなる。泯さんが生まれたのは1945年の3月10日の東京。東京大空襲の日だそう。10万人が亡くなったと言われる日に生を受けた。”死から考える生”、それが泯さんのダンスの原点なのかもしれない。
もうひとつ興味深いなと思ったのは、山梨で農業をしているということ。詩人・吉田一徳の1964年の随想「桃花村」から自身の農園?住んでいる家屋?を「桃花村」と命名している。
そして、ダンスの為にジムで体を鍛えたりは一切していなくて、全て農作業で体を動かして鍛えているという。ジムでのトレーニングなんかは生きるための動きとは直結していない。農作業は生きた自然、大地を相手に、自分が生きるために生きたものを育て、収穫し、摘み取ったり枯れていったり、生死のサイクルの中の様々な動きに囲まれている。そこにこそ生きた動きがあるだろうし、生きている人間にインスピレーションを与える動きが存在するんだろうなと。
「名付けようのない踊り」というタイトルは、泯さんが敬愛していたフランスの社会学者、哲学者であるロジェ・カイヨワが、泯さんが若い頃にどうしても彼の前で踊りを見てもらいたくて逢いに行った時、彼が泯さんの踊りに対して表現した言葉だそう。
カイヨワの作品として「遊びと人間」「戦争論」などが紹介されていた。その内でも「遊びと人間」のレビューを呼んでいると、どれも高評価で凄く面白そう。泯さんの踊りの本質にもカイヨワのいうところの”遊び”的要素があるのかもしれない。
そしてフランスでの公演の際に、カイヨワの墓を訪れる泯さん。何十年ぶりの再会。自分専用の墓ではなく合祀墓のようなところにカイヨワが埋葬されていることを知って、あの人らしいと嬉しそうに微笑む。
この時に、フランソワ・オゾンの「Summer of 85」の主人公みたいに墓の上で踊ったら捕まるけど、墓の前でもう一度カイヨワに見せる為に踊ったりするのかな?と期待したけど踊らなかった😅。
その後も、福島の大きな桜の前に佇む泯さん。咲き誇る桜に対する感情の昂りを表現するのに踊りだしたりするのかな?と思ったら…これまた踊らなかった😅。
そこでふと考えた。これはどこまで商業的なんだろう?と…。
願望と現実
「名付けようのない踊り」という映画は、絵の美しさもあるし、泯さんのダンスに対するストイックな姿勢、生き方を延々と見せてくれて、もうとにかく「田中泯、カッコイイっ!!」ってなる映画なんですね。
でも私はひねくれているもんで、ちょっとカッコ良すぎない?とも思い始めたのでした(^^ゞ。
田舎で農業をして、全てをダンスをするために捧げてるかのような、まるで清貧のような生き方をしているような錯覚を覚える。そして映画の中で泯さんが昔訪れたという地方の祭りでの神楽の話。彼らは自分たちの(豊作とかの?)祭りで、自分達の為に踊っていると。確かに今では観光客獲得の為にやってるところもあるだろうけど、そもそもは観光の為とか、金儲けの為に踊ってるわけではなく、感謝の気持ちを神に捧げるために踊るわけです。
なので、泯さんも体の内から湧き出てくる、肉体を使った表現をしたいという欲望が溢れて、自然と体が動き出す…みたいなイメージが頭の中で先行してしまった。
でも、それは単なる私の願望なんだなと。それを証拠に、先ほど書いたようにカイヨワの墓の前や、巨木の桜の前のような場所で、内なる思いが溢れそうになって踊りだしたりしなかったし。
勿論、肉体を使った表現をしたい欲望はあるんだろうけど、思った以上に打算的というか、踊る場所を計算して、そんな馬鹿の一つ覚えみたいに踊りまくってるわけではないんだろうなと(苦笑)。
そもそも30代の頃だったかな?一人で世界に出て踊ろうと決意する。世界で踊るといっても、ピラミッドの前で一人で勝手に踊ったりするのではなく、それなりの場所に招聘されたりして、いろんな観客がいる前でダンスを披露する。ということは、そこには世界で認められたいという願望や、世界でも俺の踊りは通用するはずだ!という強い自負なんかがあってのこと。人に見られてようが見られてなかろうが、踊っていられたら幸せ!!というのではなくて、映画の中では絶えず観客がいる前で踊っている。一人で踊っている時も、カメラのレンズを通して見てる観客を意識して踊りを見せていたように思う。
踊りを続けて、踊りだけしながら生きていこうとするなら、それが金儲けにある程度繋がらないと食べていけないわけで、そうなるとアーティストとしてはどこまで金儲けのことを考えて打算的にアート活動をしないといけないのだろう?と考えてしまった。
画家とかも、絵を描いているだけで幸せだとしても、それだけやって生きていける財力があればいいけど、なければ絵を売って生きていくしかない。そうなるとどこまで打算的に作品を作るようにすべきなのか?
村上隆氏のアート作品なんかは、彼は原案と指示を出すだけで、実際の製作の殆どはスタッフが担ってる。彼の場合は自分の手で作品を一から100まで作り上げることの喜びは重要ではなくて、文化祭で一つの作品を皆で作り上げるような、チームワークで分業でもいいから凄いものを作り出すことの喜びと、アート・ビジネスにおいて評価を獲得することの喜びの方が重要といった印象を受ける。
そう考えると、音楽業界なんかは、アーティストが詞や曲を作っても、それを編曲家がアレンジしてよりカッコよくしたり、MVを作って作品世界を視覚的に表現したり、補足したりして、より作品の完成度、訴求力を高めて、打算的に売れる音楽を日々作り続けている。でもそれを自分一人でしてないっ!って文句言ってる人なんかいないわけで、村上氏のやり方はそれと同じだと考えると何らおかしいわけではない。だけど、なんだか心情的に自分の手で作ってない作品はちょっとモヤっとする自分がいたりする。
泯さんのダンスも、もっと打算を一切排して、どんな場所でも感情の昂りにまかせて踊り出して欲しい…なんて最初は思っていたけど、それは私の単なる願望の押し付けだなと反省した。
かといって、無茶苦茶打算的に金儲けの為にダンスをしているという風にも思えない。
では、泯さんはどういうところで踊るのだろう?彼を踊りに駆り立てるものは何だろう?
映画の中で泯さんは「ダンスは言葉が生まれる前から存在した」というようなことを言っていた。言葉よりもっと前から存在する、人間のもっとプリミティブなコミュニケーション方法のひとつだと。
そしてフランスの古いお城か教会でダンスを披露した後に、観客の方たちと一緒に床に座って、丁寧に質疑応答に答えていた。
なので彼の踊りは観客ありきのものなんだなと。自分が表現したものを誰かに見て貰ってこそ完成するアート作品。泯さんが80歳。その10歳ぐらい上の90歳代に、オノ・ヨーコや草間彌生のような海外に出ていってコンセプチュアル・アートやパフォーミング・アートをしていた先駆者達がいた訳で、彼女たちのアートも観客が参加して完成したり、観客がいる前でパフォーマンスしてこそ意味が生まれたりする。そういう流れも引き継いだところにあるのが田中泯の”ダンス”という、自身の肉体を使ったアート作品なんだろうな…と。
世界中にある様々な動きを自分の中に取り込む…ということだけでも結構ワクワクする。それをさらに臨機応変にジャズのように即興でアウトプットしてダンスという形で表現する。これまたチャレンジングでワクワクする。そしてさらに、その表現したことが、言葉の説明なんか無くても、それを見た世界中の人々の心に何かしらの想いや考えを生み出す。その言語ではないコミュニケーション。それが出来た時、想定したものが伝わったらもちろん嬉しいだろうし、全く違う感情なんかが観客に生まれたとしても、それはそれで非常に面白い。ダイレクトに感想をフィードバックしてくれなくても、何かしら観客が感じてくれているな…というのがわかれば嬉しい。だから踊りはやめられないし、自分の本分は俳優ではなくてダンサーだというのも、一応俳優という形態で参加してるけど、やってることはセリフよりも肉体でいかに役を表現し、観客に何かを伝えたり、考えて貰ったりするかという、ダンスをしているときと同じアプローチだからなんだろうなと。
一見、怖そうだったり、冷たそうに見えなくもない泯さんだけど、これだけ人とのコミュニケーションを愛しているということは、物凄く”人”が好きな人物なんでしょうね~。
田中泯さんが俳優活動を始めて20年と少し。肉体で表現するというベースは維持しながら、それでも役者としてはより引きだしを増やし、より磨きがかかってきているんだなと実感できたような気がした。
今年80歳。映画「名付けようのない踊り」の中では70代後半。しかし驚いたのは脚が、特にふくらはぎがパンパンで、そこだけ見ると40代、50代の脚みたいに若くて目が離せなかった。上半身もそこら辺の80歳よりは若いけど、それでもやはり皮膚のたるみなんかは確認できた。しかし脚だけは全くたるみもないし、下肢静脈瘤のような血管が浮き出てるみたいなのも見えなかった。老いは脚からくるっていうことを思うと…まだまだ踊り続けれそうだし、まだまだ踊りつづけるんだろうな、踊り続けて貰いたいなと。
映画公開時の「ほぼ日」のインタビューも興味深いので是非読んでみてください。
こちらも
「夏の砂の上」
田中泯さんの20年の演技の進化に注目しましたが、「メゾン・ド・ヒミコ」を観た後、ちょうどオダギリジョー主演の映画「夏の砂の上」が公開されたので、こちらも20年の演技の違いを堪能しようということで観に行ってきました。
元々は戯曲が原作だそう。それの映画化ということで、ちょっと舞台の雰囲気をどれだけ再現できているのかは不明。舞台版ではオダギリジョーの役を最近お騒がせの田中圭がやっていたそうなんだけど、エッ?普段かる~い感じの役が多いけど、こんなシリアスな役、ちゃんとできたの?おばちゃん心配っ!…っていうぐらいピンと来ないキャスティング😅。でもそこそこ高評価だったから映画化までになったんでしょうねぇ。
あらすじはこんな感じ。
雨が一滴も降らない、からからに乾いた夏の長崎。
幼い息子を亡くした喪失感から、幽霊のように坂の多い街を漂う小浦治(オダギリジョー)。
妻の恵子(松たか子)とは、別居中だ。この狭い町では、元同僚の陣野(森山直太朗)と恵子の関係に気づかないふりをするのも難しい。働いていた造船所が潰れてから、新しい職に就く気にもならずふらふらしている治の前に、妹・阿佐子(満島ひかり)が、17歳の娘・優子(髙石あかり)を連れて訪ねてくる。おいしい儲け話にのせられた阿佐子は、1人で博多の男の元へ行くためしばらく優子を預かってくれという。こうして突然、治と姪の優子との同居生活がはじまることに……。
高校へ行かずアルバイトをはじめた優子は、そこで働く先輩の立山(高橋文哉)と親しくなる。懸命に父親代わりをつとめようとする治との二人の生活に馴染んできたある日、優子は、家を訪れた恵子が治と言い争いをする現場に鉢合わせてしまう……。
とにかく俳優陣が豪華!!
でもオダギリジョーと松たか子が夫婦役なところを見てると、どうしてもドラマ「大豆田とわ子と三人の元夫」を思い出して仕方なかった。あのドラマがコメディ路線だったので、シリアスな演技してる二人がなんだかむず痒くて…(苦笑)。
で、感想はというと、私的にはあまりピンと来なかった。残念ながら。
(ちょっと辛辣な感想が多めなので、そういうの見たくない人はパスしてくださいね)
このレビュー&解説動画の人と割と共感する感じかな?
監督のエゴとまでは思わなかったけど、なんというか、もうちょっと話の構成というか、上手い伝え方がなかったものか?とは思ってしまった。クライマックスの雨が降ってくる場面で、観てるコチラも一緒にカタルシスを感じるような、乾いた心が潤されるような感覚になってこそこの映画は成功だと言えると思うんだけど、なんかそこまでグッとこなかったんですよね。画面の中で起こってることと自分との距離感を感じた。
その後も主人公が仕事中に○○無くす事故が起こる。それで結局また無職になる上に、今後仕事もいくらか制限される未来があるわけで、誇りを持っていた造船業には永遠に戻れない可能性も高そう。息子の死に対する悲しみには何かしらひと段落付けれたのかもしれないけど、この先に希望の持てる未来なんか想像できないのですが…😫。高石あかり演じる姪の優子も結局いなくなってしまうし(それもカナダに行くとかで再び会えるかもわからない)、元同僚の飲み仲間だった光石研も死んじゃうし、これまた元同僚の森山直太朗は元妻を略奪して彼女と一緒に長崎を出ていくし、主人公小浦のまわりにいた登場人物が悉くいなくなってしまって完全に孤独になる。知り合いは最寄りのタバコ屋の店主ぐらいしか残ってないじゃない…と。
公式HPにある宣伝文句に
「夏の砂のように 乾ききった心に沁み込む 一筋の希望を描く、切なくて温かい珠玉の物語。」
とあるけど、一筋の希望って…エッ?どれのこと?と鈍い私には全くピンと来なかったのですが…。姪の優子との関係のこと?
アラフィフ?でこの状況の男、ヘタしたら自殺してもおかしくない状況。息子の死を妻と一緒に癒し合うことができずに、一人で抱え込んで自分も壊れて、夫婦関係も壊れていった。そしてどこか再生を感じるラストならまだしも、そんなところも特になさそうで、観てるこっちが相当に鈍いのかと悩んでしまうほど。
私の家族も兄が幼少期に事故で死亡しました。この主人公たちと似ていて、もし親がしっかり見ていたら死ななかったかもしれないのに…というタイプの事故です。それで、やはりそのことが原因で夫婦関係は徐々に壊れていった気がします。ある時、伯母の家を訪れて両親の話などをしていた時に、その伯母が言った言葉が脳裏に焼き付いている。「子供を失くした夫婦は上手くいかなくなりがちなのよねぇ…」と。どこかパートナーを責めてしまう部分があったり、自分を責めすぎて殻に閉じこもってしまったり、両方の時もあるだろうし、片方の時もあるだろうし、どちらかの心が壊れ始めると、夫婦関係自体も壊れていくことになるんでしょう。
そして私の母親は宗教に走り、父親は仕事と遊びと女や酒に溺れていった。どちらも大事なことには向き合わず、その場の感情で当たり散らし、家庭を立て直そうとすることができなかった機能不全家庭だった。母親はもう亡くなったけど、最後はこれも一種のスローデスを選んだんだろうなと思える最期だった。もっと早くに体の不調に気付いていたはずなのに、敢えて病院に行かずに悪化するのを待っていたのではないかと、今になったら思ったりもする。
私が生きる苦しみを訴えた時、彼女は「仕方ないでしょ。生きるしか…」という回答だった。兄の死の後、彼女は死にたいけど死ぬわけにはいかない、仕方なく生きているんだな…というのが、その答えから痛切に伝わった。その絶望の気持ちもわかるし、そこに同情する部分もありつつ、まだ生きている子供に親として伝えることが「仕方ない」って言うのが、あまりにも無責任で希望も与えず、淋しすぎて腹が立った。
でも今思うと、母はもうどうしようもなく壊れていたんだと思う。兄が死んだとき、母の一部も死んでしまった。そしてそれは元に戻ることはなかった。これを私が経験してるからか、「夏の砂の上」の小浦には一筋の希望がどこにあるのか分からなかったし、すぐにではないかもしれないけど、このままゆっくり、夏の暑さと共に腐って朽ちていくような印象しかもてなかった。
この映画、オダギリジョーがプロデューサーとして参加してる。それは並々ならない想いがあるのだろうなと思っていた。何しろ彼自身お子さんを亡くしているわけで、それがこの作品にしっかり関わり合いたいと思わせた大きな要因でもあるのだろうと思ったから。
だからそんな彼が子供を亡くした親をどう演じるのか?凄く注目しながら観てました。勿論映画の中では灼熱の雨の降らない長崎の中で、修羅場みたいなことがいくつか起こる。だけど、子供を亡くした親が味わう修羅場、地獄、そういうのを実体験でずっと見てきた私からしたら、なんだかこぎれいにまとめてる感じがしてしかたなかった。オダギリジョーも無職でフラフラしてるからあんな無精ひげで髪も伸ばしてるんだろうけど、アレ、いつものオダギリジョーじゃんっって。お洒落無精ひげとお洒落ロン毛じゃんって。造船所で働いていた=おそらくあんなロン毛なんかしてなくて、光石さんや直太朗みたいな普通の髪型で働いているのが当たり前だった男が、絶望して髪の毛がボーボーになってヤサグレてる感じとは一線を画してる”小綺麗さ”があって、役作りへのアプローチが甘くない?俳優業20年以上してきて、「メゾン・ド・ヒミコ」の春彦の方がまだ役作りのディテールにこだわっていたような気さえしたほど。
今回物凄い豪華なキャストなので、監督に人を集める力があるのかと思ったけど、このインタビューや経歴を見ると、まだ割と新進気鋭の若い監督さんで、豪華キャストが集まった理由はプロデューサーになって関わったオダギリジョーの功績だったのだと、玉田監督が語っている。
舞台の演出と映像作品と両方やってる監督さんなんですね。
「国宝」の李相日監督ほどの物語をまとめ上げて、伝えたい部分を映像で観客にちゃんとわからせる域にはまだ至ってない感じなのかな?勿論、説明セリフでわかりやすくしろというのではない。映画「アフターサン」なんかは何一つ明確に語られることはないけど、映像の色んなピースで観てる側に深く考えさせ、それなりの想像の道筋は感じとれて、そこからいろんな感情が揺さぶられるような作りになっていた。「夏の砂の上」は、分からないことでコチラも考えはするけど、想像の道筋が立たない感じ。なのでそこで困惑して行き止まりにぶち当たるような感覚になる。
本当にこれは勝手な願望でしかないのは重々承知の上でそれを書くと、オダギリジョーにはそういう子供を亡くした親の苦しみをもっと正面から見つめた作品に、ツラいと思うけど、関わってプロデュースとか出演とかして欲しいなと。私の家庭のような宗教にハマるパターンとか、怪しい政治団体やマルチ商法にハマったりするパターンとか、または犯罪被害で子供を亡くした親御さんたちが互助ミーティングやカウンセリングを受けながらなんとか正気を保っている姿とか。さらには、その壊れた両親に置き去りにされた子供の存在とか、死んだ子供の代わりに異様に期待されたり、過保護すぎて息のつまる想いで苦しんでいる子供とか。狂気スレスレに過保護なモンスターペアレントになってしまった人とか。そういういろんな地獄を描きつつ、もしオダギリジョーと香椎由宇夫妻が、苦しみの中から何かしら希望の光を見いだして乗り越えたのなら、そういう苦しんでいる人たちも少しでも救われる道を示してあげて欲しいなと…。
俳優として実績も積んできて、映画、ドラマで主役を張れる第一線を走ってる一人。そしてこれだけの俳優を集められる魅力も人望もある。その築き上げたプラットホームを活用、是非して欲しいなぁ。
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キャストで個人的に一番良かったのは森山直太朗。最初、アレっ?直太朗っぽいけど、マイナーな違う俳優かな?というくらいオーラが無かったw。オダギリジョーとは対照的に、本当に地方にいて生活してそうなリアルな感じが一番あった。
俳優が本職じゃない人が一番っていうのもどうかと思うけど、でも実際そう感じたんだから仕方ない。
満島ひかりはちょっとあの元気な声が役に合ってない気がしてずっと違和感だった。「First love 初恋」みたいに健気な中で元気出してあの声だと凄くいいんだけど、水商売してる感じの声じゃないんですよね。もっと酒焼けしてるとか、気怠そうとかだといいんだけど、あまりにもハキハキしていて、飲みながら説教されそうな感じ😅。演技自体はちょっとウザい感じが出ていて悪くはなかったと思うけど…満島ひかりじゃなくてもイイなぁと。年齢的には高石あかりが娘でもおかしくないのはわかるけど、見た目はまだ20代でも十分通るくらい若々しいから、母子というより姉妹みたいに見えたのもちょっと残念。
松たか子は長崎弁がちょ~っとだけウン?と思う瞬間があった。なんだか使い慣れてない感じというか、その言葉で育って生きてきたという説得力がないというか。それはオダギリジョーも同じなんだけど、彼は「東京タワー」でも九州弁を話していたから、まだちょっと慣れてる感じはあったかな?松さんもキャリア長いからこれが初めての九州弁ではないかもしれないけど。一番自然だったのはやっぱり九州出身の光石さんでした(アタリマエ)。
あの役からは息子を亡くした母親の苦しみみたいなのは全然感じなかったんだけど、あれはあれでいいの?夫婦関係が破綻したことへの苦しみ、やるせなさみたいな方が前面にあって、子供の死への苦しみは取ってつけたような感じだったけど。旦那はずっと引きずってるのに。いくら新しい男が出来てもそれとこれは別でしょうに。それこそが根底にあって彼女も壊れたから直太朗に走ったんだと思うけど、その壊れ加減が今ひとつ伝わってこなかった。というか直太朗と松たか子のカップルもイマイチピンと来なかった。直太朗が包み込むというよりも、松たか子が引っ張っていってる、主導権持って、その後ろを直太朗が必死について行ってる感。
高石あかりは、朝ドラ「ばけばけ」のヒロインをやる&最近演技が上手いと評判を聞くことがある…ということで期待していた。ウン、演技は上手い…のかな?下手ではないけど、強烈に惹かれるほどでもなかった。あんな感じの演技してきた若い女優さん、今までもいたな~という感じ。でも16歳?17歳には見えなかったかなぁ。26歳ぐらいに見えた(ゴメン<(_ _)>。実際は22歳だそう)。彼女が年を経て満島ひかりの役をしたらバッチリ嵌るような気がする。水商売とか、夜の雰囲気が凄く似合う感じ。彼女が演じた優子にしても、オダギリジョー演じた小浦にしても、いい人なんだか嫌な奴なんだかすごくシーンによってブレブレで、どう捉えたらいいのかわからなかった(←これは演技とは関係なく脚本の問題だけど)。二人とも悲しみとかやるせなさで分裂症気味に安定してないって言われたらそれまでだけど、人に対してその優しさがある人間が、エッ?そんなことする?という(急に元妻を襲いだしたり)、また反対もしかりで、こんな感じの他人と向き合えない状態になってる人間が、急にその優しさや熱さを他人に出して来れるもんかな?…と、その違和感が払拭できなかった。そこへ移行する何かしらのピースがあればまだついていけるけど、なんだか唐突な感じが多かった。
高橋文哉は朝ドラ「あんぱん」でも九州弁喋る健ちゃん役をやってるから、なんかオーバーラップして変な感じでしたw。
多分日本中で私だけな気がするけど、「あんぱん」の健ちゃん役の時の高橋文哉くん、なんだろう唇の感じが似てるのかな?甘ったるいちょっと舌足らずな話し方だからなのかな?時々脳裏に加藤諒がチラつくんですよね😅。イケメン枠で来てるけど、ここらでギャグコメディ路線を攻めてみるのも、意外にハマったりしないかな~なんて思ったりw。
みなさん演技自体は特別悪いわけじゃないけど、なんだかやはり役者の見せ場をしっかり用意できてない脚本と、それを引き出しきれてない演出が問題だったのかなぁ…。ということで私的★評価は★6.5~7点というくらいでしょうか。
