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「Dead poet society(今を生きる)」から読み解く「アートを言語化する必要性」

"I went to the woods because I wanted to live deliberately. I wanted to live deep and suck out all the marrow of life."

私は静かに生きるため、森に入った
人生の真髄を吸収するため
命ならざるものは拒んだ
死ぬ時に悔いのないよう生きるため


私が大好きな映画「今を生きる(原題: Dead poet society)」に出てくる教師キーティングが引用した詩の一節です。

劇中の詩ですが、原作者はヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau, 19世紀アメリカの作家・思想家・詩人・自然哲学者)で、この詩は彼の著書 『ウォールデン ― 森の生活(Walden; or, Life in the Woods)』 の有名な一節です。

私、この詩が大好きなんです。そしてこの映画、その脚本、映像、演技、演出、ロケーション、時代全てが好きなんです。

ただ、この映画を観ると必ずと言っていいほどその悲劇性に心打たれてしまいます。

今日は私の大好きな映画と、現代社会におけるアート(特に演劇)の現状について書きたいと思います。


映画「Dead poet society(今を生きる)」

さて、『いまを生きる』(いまをいきる、原題: Dead Poets Society)は、1989年齢公開のトム・シュルマン脚本、ピーター・ウィアー監督による青春映画です。第62回アカデミー賞脚本賞を受賞しました。

ロビン・ウィリアムズ演じる英語文学教師のジョン・キーティングが、アメリカ合衆国バーモント州の全寮制学院ウェルトン・アカデミーに赴任し、厳しい管理下にある全寮制生活を送る男子生徒たちを感化していくという物語です。

が、そんな言葉では全くこの映画の真髄にも触れられないほど、ものすごく深みと広がりのある作品だと個人的には思っています。

文学教師ジョン・キーティングの言葉

最初の授業(厳密には2回目だったと思います)でキーティングは、詩の教科書を生徒に読ませます。

「詩の理解」J・エバンズ・プリチャード博士。韻律、リズム、修辞をまず把握すること。問いは2つ。①主題の表現は巧みか?①主題に重要性はあるか?
①は詩の完成度。②は詩の重要性。この2点を見れば、詩の評価はごく簡単な問題となる。詩の完成度をグラフの横位置に示し、重要性を縦に示す。表が示す面積の大きさがその詩の評価である。」

そしてこう言うのです。

くそったれ。プリチャードはアホだ。詩はパイプ工事と違う。ヒットチャートですらない。そのページを破れ。破り捨てろ。プリチャードよ、さらば。

このプリチャードの数量的価値観は、私たちの誰しもが経験したことのあるものではないでしょうか。

学校あるいは社会でのテストの点数や成績、偏差値、内申点、GPA、記録、順位、業績評価、賞与。挙げればキリがないです。

私たちがこの世にある殆ど全ての価値観を「数量的」に評価しがちなのは、それが正しいからでも、あるいはそれをしないことが間違っているからでもなく、「わかりやすい」からです。万人に共有できるからです。それは、評価される側の能力、努力、勤勉さだけに留まらず、社会的地位や結婚の有無、家庭状況、性別、人種、あらゆることで私たちを「わかりやすく」、しかしながらときに間違った方法で篩にかけてしまう。「わかりやすい」とは理解されやすいということよりも、言い換えれば「効率が良い」「合理的」とも言えるでしょう。

キーティングは生徒たちに続けてこう言っています。

(君たちは)19世紀の文学など、経営学や医学とは無縁、そう思ってる。黙ってプリチャードを勉強して、その後、自分の野心を達成すればいい、とね。だが、秘密を教えよう。我々はなぜ詩を読み書くのか。それは我々が人間であるという証なのだ。そして人間は情熱に満ちあふれている。医学、法律、経営、工学は生きるために必要な尊い仕事だ。だが、詩や美しさ、ロマンス、愛こそは、我々の生きる糧だ。
ホイットマンの詩。
おお私よ 命よ 幾度も思い悩む疑問
信仰なき者の長い列 愚か者に満ちた都会
何の取り柄があろう 私よ 命よ
答え…それは 君がここにいること
命が存在し 自己があるということ
力強い劇は続き 君も詩を寄せることができる

We don't read and write poetry because it's cute. We read and write poetry because we are members of the human race. And the human race is filled with passion. Medicine, law, business, engineering, these are all noble pursuits, and necessary to sustain life. But poetry, beauty, romance, love, these are what we stay alive for. To quote from Whitman: "O me, o life of the questions of these recurring, of the endless trains of the faithless, of cities filled with the foolish. What good amid these, o me, o life? Answer: that you are here. That life exists, and identity. That the powerful play goes on, and you may contribute a verse. That the powerful play goes on and you may contribute a verse.

ここで引用したホイットマンは、学歴もなく、詩創作の型や法則も知らない、正に数量的価値観では全く評価されないような人でした。しかし、彼が生粋の詩人であることは、この詩を読んだだけでも明らかです。

「Dead poet society (死せる詩人の会)」

この授業を皮切りに生徒たちの顔は輝き始めます。この映画の原題である「Dead poet society (死せる詩人の会)」とは、キーティングがこの学校の生徒だったときの秘密の集会。先住民族の洞窟で、詩を朗読したり、自分の作品を発表したりして、魂を感じ合う。

それについてロバート・ショーン・レナード演じる当校生徒ニールが図書館から資料を発見し、仲間を誘ってその洞窟へいくことを提案します。こうして彼らによる1959年番(舞台設定の年代)「Dead poet society (死せる詩人の会)」が結成されるのです。

ここまでが前半の流れですが、まあストーリーも去ることながら、その映像の美しさたるや感嘆に値します。アメリカ合衆国のバーモント州ってこんなに素敵なところなんだと感心してしまうほど。

ロビン・ウィリアムズはもちろん、青年たちを演じる若き俳優陣の演技も瑞々しく、本当に生き生きとした颯爽とした風の吹く序盤ですが(個人的に「Dead poet society (死せる詩人の会)」の生徒の一人、トッドを演じる若きイーサン・ホークを観れるのも1ファンとして感慨深いです!)、後半その流れが一気に悲劇に傾いてしまいます。

ニールの悲劇

1959年版「Dead poet society (死せる詩人の会)」を立ち上げたニールは、厳格な家庭の一人っ子長男でした。彼は両親の期待を背負ってウェルトン・アカデミーに入学し、成績も学校内で見てもかなり優秀でした。しかし良いか悪いか、その後はハーバード大学、そして医師になることまで父親の命の元歩んでいかなければならないという将来を、重荷のように抱えていました。
彼は所謂「わかりやすい」将来、「わかりやすい」社会貢献、そして「わかりやすい」若者としての顔を持つ、「わかりやすい」社会の一被害者でした。
その反抗心が、キーティングとの出逢いよって芽生え始め、かれは役者を目指すようになり、厳格な父親に隠れて、諦めていた演劇を始め、課外活動で「真夏の夜の夢」の主演を務めることになります。

さて、この公演が父親の目に触れ、彼は父親に重い処罰として明日から軍事学校に行き、その後ハーバード大学に行って医者になるように命じられます。

彼はこれに対し、「父さん、僕にはやりたいことが…」と言いかけますが、父親の無骨な「なんなんだ、言ってみろ」ということばに「何も。(Nothing.)」と答え、遂にその夜ピストル自殺をしてしまうのです。

このときのNothing(何も)という言葉を、私はどうしても見過ごせません。たしかにこの映画はフィクションで、実際にこういった事件が起こったかは定かではありませんが、かなり似た現象が、似た類のものが、過去現在関係なく頻発しているように思うからです。

映画から読み取れるもの

私が上京して駆け出し役者として事務所に所属し、オーディションを毎日受けていた頃に出会った、数多くの同志たち、また撮影現場で仲良くなった仲間たち、才能がありながら見出されることなく故郷に帰っていく人たちが後を絶ちませんでした。中には精神的に病んでしまう人や、自己陶酔のような独りよがりの自主制作映画に走ってしまう人、私のように一般社会に戻って行く人、諦め方は人それぞれですが、もう数限りない若者が、芸能あるいはアーティストの道を自ら去るという選択をしていきました。選択をしたのは彼ら自身ですが、選択せざるを得ないような社会の仕組みにも目を向けなければ、この現状はずっと変わりません。

アートは言語化できない?

アートという目の見えないもの、言語化できないもの、そして言い換えれば夢のあるもの、いつか報われそうなもの、言語化できない才能が見出されるかもしれないという期待、形や前例にとらわれない方法を見出そうとする流れ、そう言ったある種「わかりにくい」=「言語化されていない」=「神秘的」なものを、敢えてそのままにしておくことで、若者の夢をお金で搾取するような闇のある業界が存在しているということも事実です。
これがエンターテイメントやアートの定めだと言ってしまうのは簡単ですが、果たして本当にそうなのか、と私は思います。

特にこの映画を観てみてそう思います。

おそらくニールが「何も。(Nothing.)」と言ったのは、本当にやりたいことが無かったのではなく、やりたいことが言語化できなかった、現実に落とし込んで説明できなかった、という落とし穴にはまってしまったからだと思います。

まとめ

私はアートの神秘が大好きで、説明することで損なわれてしまう美しさや、言語化することで失われる儚さが存在することも知っています。でも、それでもやはり「わかりやすい」ことを評価する社会の中で生きていくために、「なぜ美しいのか」「人はなぜ表現するのか」「表現するということは、もしくは表現する享受するということは、結局人生におけるどんな益につながるのか」ということを、難しくても時間がかかっても、そして例え間違っていたとしても言語化できるようにしなければなりません。
そしてアート、表現の「真髄」を多くの人々と分かち合う世の中を目指せたらいいなぁと思っています。

これは私の目標であり、もしかしたら究極の目的となるかもしれませんね。キーティングはこう言っています。

医学、法律、経営、工学は生きるために必要な尊い仕事だ。だが、詩や美しさ、ロマンス、愛こそは、我々の生きる糧だ。

Medicine, law, business, engineering, these are all noble pursuits, and necessary to sustain life. But poetry, beauty, romance, love, these are what we stay alive for.

生きる糧とは「食べ物」です。私たちはアートや表現で食べていくのではなく、アートや表現を食べて生きていく。だから必要なんです。

でも、これを言語化するのにはもう少し時間と勉強と研究&実践が必要ですね。もう少し時間をください。

この映画は、ニールの死により退職を余儀なくされたキーティングが教室を去る一歩手前で、生徒たちが「Oh, Captain, my captain.」と言って机の上に立ち上がるシーンで終わります。生徒たちの目は、キーティングとの別れと、ニールの死と、自分たちの将来に起こるであろう様々な葛藤を乗り越えていく闘志が漲っています。本当に涙なしには見られない最高のシーンです。

みなさんまだ観てない方はぜひ観てください!(ネタバレすな。)

今日はこの辺で。

また次回の投稿でお会いしましょう!



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