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秩父神社とは何か――2100年の歴史、妙見信仰、徳川家康、そして秩父夜祭


埼玉県秩父市。

周囲を山々に囲まれた秩父盆地の中心部に、一つの古社が鎮座している。

秩父神社。

三峯神社のように、深い山中へ分け入らなければ辿り着けない神社ではない。

西武秩父駅や秩父駅から歩いて向かうことができ、周囲には商店や住宅が並ぶ。

一見すれば、「地方都市の中心にある大きな神社」といった印象を受けるかもしれない。

しかし、その歴史を遡ってみると景色が変わる。

古代の知知夫国。

平安時代の『延喜式』。

関東武士と妙見信仰。

戦国時代の焼失。

徳川家康による社殿再建。

そして現在まで続く、日本を代表する祭礼・秩父夜祭。

その歴史は二千年を超えると伝えられている。

秩父神社を知ることは、一つの神社を知ることではない。

「秩父」という土地が、二千年以上にわたって何を信じ、何を恐れ、何に祈りながら生きてきたのか。

その歴史を辿ることなのである。


秩父神社は、いつ始まったのか

秩父神社の創建については、非常に古い伝承が残されている。

社伝では、崇神天皇の時代に知知夫国の初代国造となった**知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)が、祖神である八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)**を祀ったことに始まるとされる。

秩父神社では2014年に「御鎮座2100年」を迎えている。

もちろん、二千年以上前の創建年代を現代の歴史学によってそのまま実証できるわけではない。

重要なのは、秩父神社が極めて早い時代から「秩父という地域そのもの」と結びついた神社として伝えられてきたことである。

現在の「埼玉県秩父市」という行政区画ができる遥か以前から、この地域には「知知夫」という土地のまとまりが存在した。

そして、その土地を治めた人々の祖先神を祀った場所。

それが秩父神社の原型だったと考えれば、この神社が後に「秩父地方の総鎮守」となっていくことにも納得がいく。

秩父神社は最初から観光地として生まれたわけでも、有名な武将によって突然創建された神社でもない。

土地とともに生まれた神社なのである。


『延喜式』にも登場する関東屈指の古社

秩父神社の歴史は伝承だけでは終わらない。

平安時代に入ると、その存在は史料の中にも現れてくる。

元慶2年(878年)には神階が正四位下に進み、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』神名帳にも掲載された。

いわゆる式内社である。

『延喜式』に記載されるということは、少なくとも平安時代には朝廷側から認識される神社であったことを意味する。

現在では東京から電車で向かうことのできる秩父だが、当時の感覚で考えれば、ここは武蔵国の山間部である。

その地に、朝廷の制度の中にも名を残す神社が存在していた。

秩父神社が単なる村の鎮守ではなく、古くから地域を代表する神社だったことが分かる。

しかし、秩父神社の歴史をさらに面白くするのはここからだ。

この古代神社は中世になると、全く別の巨大な信仰と結びついていく。

妙見信仰である。


星を信仰する――妙見とは何か

秩父神社を理解する上で避けて通れないのが「妙見」である。

妙見信仰とは簡単に言えば、

北極星や北斗七星を神聖視する星辰信仰

である。

夜空を想像してほしい。

星々は時間とともに東から西へ移動していく。

しかし北の空には、その中心となるように見える星がある。

北極星だ。

古代の人々にとって、それは単なる天体ではなかった。

天の中心。

動かない世界の軸。

すべての星がその周囲を巡る存在。

そこから北極星は、世界の秩序や運命を司る神聖な存在として認識されるようになった。

こうした星辰信仰は中国などを経て仏教文化とも結びつき、日本では妙見菩薩への信仰として広がっていく。

そして中世、この妙見信仰を篤く信仰した武士たちがいた。

秩父平氏である。


秩父平氏と妙見信仰

関東武士の歴史を辿ると、「秩父」という名前は意外なほど重要な位置に現れる。

平安時代後期から鎌倉時代にかけて、関東では武士団が急速に勢力を拡大していった。

その一つが、平良文を祖とする流れをくむ秩父平氏だった。

秩父氏の一族からは、後に畠山氏、河越氏、江戸氏など、関東史に登場する有力武士たちが派生していく。

その秩父平氏が奉じた信仰の一つが妙見信仰だった。

秩父神社によれば、妙見信仰は上野国の花園妙見寺から秩父平氏によってもたらされ、やがて古くからの秩父神社の信仰と習合していった。

こうして秩父神社は長い間、

「秩父妙見宮」

として隆盛することになる。

ここが面白い。

もともとは知知夫国造の祖神を祀る古代的な神社だった。

そこへ中世武士の妙見信仰が重なった。

さらに仏教的な妙見菩薩への信仰も混ざっていく。

現在では「神社」と「寺院」は明確に別れているように感じる。

しかし、日本では長い間、神と仏はそれほど明確に分けられていなかった。

秩父神社もまた、その典型だった。

古代の神。

土地の信仰。

星の信仰。

武士の信仰。

仏教。

それらが何百年という時間の中で重なり合い、「秩父妙見宮」という巨大な信仰空間を形成していったのである。


戦国時代――秩父神社、焼失

しかし、その長い歴史は平穏だけではなかった。

戦国時代。

関東では北条氏、武田氏、上杉氏などの大勢力が激しく争っていた。

秩父も例外ではない。

秩父神社に残された棟札によれば、永禄12年(1569年)、武田信玄の侵攻によって旧社殿が焼失したと伝えられている。

1569年。

この頃の武田信玄は駿河侵攻を進める一方、関東にも軍事行動を展開していた。

戦国大名同士の争いは、城や武士だけの問題ではない。

戦場となった土地では寺社も焼かれ、村も破壊される。

何百年と続いてきた信仰の場所であっても、戦争の炎から逃れることはできなかった。

秩父神社も、その戦国の炎に巻き込まれたのである。

だが、ここで秩父神社の歴史に、もう一人の巨大な人物が登場する。

徳川家康。


徳川家康は、なぜ秩父神社を再建したのか

天正18年(1590年)。

豊臣秀吉による小田原征伐によって後北条氏が滅亡すると、徳川家康は関東へ移封された。

家康は江戸を本拠とし、関東支配を開始する。

そのわずか2年後。

天正20年(1592年)。

徳川家康は秩父神社へ57石の社領を寄進し、代官の成瀬吉右衛門に社殿を造営させたと伝えられている。

現在見ることのできる秩父神社の社殿は、この家康による再建を基礎とするものである。

なぜ家康は秩父神社を再建したのだろうか。

もちろん信仰心もあっただろう。

しかし同時に、関東へ入ったばかりの徳川家にとって、各地域で長く信仰されてきた寺社を保護することには政治的な意味もあった。

地域社会に根付いた信仰を保護する。

それは、新しい支配者がその土地の秩序を引き継ぐことでもある。

二千年近い歴史を持つと伝えられ、中世には秩父妙見宮として地域の信仰を集めていた神社。

その再建は、徳川による新しい関東支配の中でも象徴的な意味を持っていたのではないか。

そして家康が再建した社殿は、400年以上を経た現在まで秩父の中心に立ち続けている。


「つなぎの龍」と「子宝・子育ての虎」

秩父神社を訪れたなら、ぜひ社殿を一周して見てほしい。

この神社は、彫刻が非常に面白い。

有名なのが、

「つなぎの龍」

である。

名工・左甚五郎の作と伝えられる彫刻だ。

伝説では、かつて近くの池に棲んでいた龍が暴れた際、この彫刻の下に水溜まりができていたことから、「彫刻の龍が夜になると抜け出して暴れているのではないか」と考えられたという。

そこで龍を鎖でつないだところ、龍が現れなくなった。

それが「つなぎの龍」の名前の由来とされている。

もちろん伝説である。

だが、秩父神社の信仰を知った後で見ると、この龍が単なる装飾ではないようにも感じられる。

秩父には古くから龍神・水神への信仰が存在した。

山から流れてくる水は農業を支え、人間の生活そのものを支える。

水をもたらす山。

水を司る龍。

秩父神社。

そして武甲山。

それらは別々の存在ではなく、一つの信仰世界の中で結びついていた。

ほかにも社殿には、

「子宝・子育ての虎」

「お元気三猿」

「北辰の梟」

など、特徴的な彫刻がある。

特に北辰の梟は面白い。

「北辰」とは北極星を意味する。

つまりここにも妙見信仰が現れている。

社殿の彫刻そのものが、秩父神社が歩んできた信仰の歴史を語っているのである。


武甲山――秩父の人々が見上げ続けた山

秩父神社を語るなら、もう一つ忘れてはいけない存在がある。

武甲山だ。

秩父市を歩けば、その独特な山容は否応なく目に入る。

石灰岩採掘によって山肌が大きく削られた現在の姿は、非常に印象的である。

しかし、武甲山は単なる「秩父にある山」ではない。

秩父神社の信仰世界において、非常に重要な意味を持つ山なのである。

秩父神社では武甲山を神体山と位置づけている。

山に降った雨。

山から流れ出す伏流水。

それが秩父盆地を潤し、農業を支える。

だからこそ山は、生命を与える存在だった。

そして、その水を象徴する存在として龍神が現れる。

春になると山の神を里へ迎え、豊作を祈る。

収穫が終われば、神を再び山へ送り返す。

その古い祭祀の構造が、現在の秩父神社の祭礼にも残されているという。

その最大のものこそ――

秩父夜祭である。


秩父夜祭――なぜ12月の秩父に人々が集まるのか

毎年12月2日、3日。

秩父の街は普段とはまったく違う姿になる。

豪華な笠鉾と屋台。

腹に響く秩父屋台囃子。

冬の夜空を照らす花火。

そして大勢の人々。

秩父夜祭。

京都の祇園祭、飛騨の高山祭とともに「日本三大曳山祭」の一つに数えられる祭りである。

秩父夜祭の笠鉾・屋台は国の重要有形民俗文化財、祭礼そのものも重要無形民俗文化財となっている。

さらに2016年には「山・鉾・屋台行事」を構成する祭礼の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録された。

しかし、秩父夜祭を単なる「豪華な山車と花火の祭り」と理解すると、その本質を見落としてしまう。

祭りの中心にあるのは、あくまで秩父神社の例祭である。

そしてその奥には、妙見信仰と武甲山への信仰がある。


年に一度、神々が出会う夜

秩父夜祭には、とても美しい伝承が残っている。

秩父神社の妙見様は女神。

武甲山の神は男神。

二柱は互いに想い合っている。

しかし、武甲山の男神には諏訪神社の神という正妻がいる。

そのため二柱が会うことを許されるのは、

一年に一度、秩父夜祭の夜だけ。

だから祭りの途中、諏訪神社の近くを通過するときには、屋台囃子を止めて静かに通るという伝承がある。

なんとも人間臭い神話である。

だが、この「神々の逢瀬」のさらに奥には、もっと古い信仰が存在すると考えられている。

春。

山の神が里へ降りてくる。

水を与え、作物を育てる。

秋。

人々は収穫する。

そして冬。

役目を終えた神を山へ送り返す。

秩父夜祭の神幸祭では、神が秩父神社から武甲山の方向へ進んでいく。

そこには、山とともに生きてきた人々の世界観が残されている。


秩父夜祭を巨大にした「絹」

しかし、現在のような豪華な秩父夜祭が成立した背景には、信仰だけでは説明できないものもある。

経済である。

江戸時代の秩父では養蚕と絹織物が盛んだった。

「秩父絹」は地域を代表する産業となり、秩父神社の境内周辺には大規模な絹市が立った。

いわゆる**「絹大市」**である。

人が集まる。

商人が集まる。

金が動く。

町が豊かになる。

その経済力が祭礼にも投入されていった。

豪華な屋台。

歌舞伎。

囃子。

曳き踊り。

そして祭りそのものが巨大化していく。

つまり秩父夜祭は、

信仰 × 農業 × 山岳文化 × 商業 × 都市文化

が重なって成立した祭りなのである。

だから面白い。

単なる宗教行事でもない。

単なる観光イベントでもない。

秩父という土地が歩んできた歴史そのものが、一晩の祭りの中に凝縮されている。


明治維新――「妙見宮」から再び「秩父神社」へ

長く「秩父妙見宮」として信仰されてきたこの場所にも、近代化の波が押し寄せる。

明治時代。

政府によって神道と仏教を明確に分離する政策が進められた。

いわゆる神仏分離である。

妙見菩薩は仏教的な存在である。

そのため、それまで神と仏が共存していた秩父妙見宮も再編を迫られた。

そして神社は、古代以来の名称である

「秩父神社」

へと戻っていく。

ここに秩父神社の歴史の不思議さがある。

古代。

中世。

戦国。

江戸。

明治。

時代が変わるたびに、祀られる神の解釈も変化する。

信仰の形も変わる。

名前さえ変わる。

それでも神社そのものは消えない。

姿を変えながら、同じ土地に存在し続ける。


2100年という時間

2014年、秩父神社は御鎮座2100年を迎えた。

二千百年。

数字だけを見ると、あまりにも長すぎて実感が湧かない。

だが、日本史の出来事と並べてみると、その異常な長さが分かる。

平安京ができる前から。

鎌倉幕府ができる前から。

織田信長が生まれる前から。

徳川家康が江戸に入る前から。

明治維新が起こる前から。

この場所には、人々が祈りを捧げてきたという伝承がある。

もちろん建物は何度も変わっている。

信仰も変化している。

神の名前も変わっている。

それでも「ここに神聖な場所がある」という感覚だけは、世代から世代へ受け継がれてきた。

神社の本当の凄さは、建物の豪華さだけではないのかもしれない。

人間より遥かに長い時間を、一つの場所が記憶していること。

そこにあるのではないだろうか。


実際に秩父神社を訪れて

私が秩父神社を訪れた日は、三峯神社、宝登山神社とともに秩父を巡った。

同じ秩父三社と呼ばれていても、三社の雰囲気はまったく違う。

特に三峯神社との差は大きい。

三峯神社は山深い。

標高の高い場所へ向かい、山そのものの中へ入っていくような感覚がある。

それに対して秩父神社は街の中にある。

人々が暮らす場所のすぐ隣に神社がある。

最初は、それほど「秘境感」のある神社ではないと思うかもしれない。

しかし、歴史を知ってから境内を見ると印象が変わる。

なぜ、この場所に神社があるのか。

なぜ妙見が祀られたのか。

なぜ徳川家康が再建したのか。

なぜ龍の彫刻があるのか。

なぜ武甲山を向くのか。

なぜ12月になると巨大な祭りが行われるのか。

一つ一つがつながっていく。

そして気づく。

秩父神社は山奥に隔絶された聖地ではない。

むしろ逆なのだ。

人々の暮らしの真ん中にあり続けた聖地なのである。


秩父神社とは何か

秩父神社とは何か。

二千年以上の歴史を持つと伝えられる古社。

そう説明することもできる。

妙見信仰の神社。

徳川家康が再建した神社。

秩父夜祭で有名な神社。

どれも間違いではない。

しかし実際に歴史を辿ってみると、それだけでは足りない気がする。

古代には土地の神を祀った。

中世には武士が星に祈った。

戦国時代には炎に包まれた。

徳川家康によって再建された。

江戸時代には絹を求める人々が集まり、祭りが巨大化した。

明治には妙見宮という名前を失った。

それでも祭りは残った。

そして現代。

毎年12月になると、再び人々が秩父の街へ集まる。

笠鉾と屋台が動く。

太鼓が鳴る。

花火が上がる。

そして、その向こうには武甲山がある。

人間は変わる。

政治も変わる。

国も変わる。

信仰の形さえ変わる。

それでも山はそこにあり、人はそこに祈り続けてきた。

秩父神社の2100年とは、一つの建物が2100年間残ったという話ではない。

秩父という土地に暮らした人々が、何世代にもわたって祈りを受け渡してきた時間なのである。

三峯神社が「山へ入って神に会いに行く場所」だとすれば、

秩父神社は、

「人々の暮らしの中に、神が居続けた場所」

なのかもしれない。

次に秩父を訪れることがあれば、ぜひ社殿だけではなく、その向こうにある武甲山にも目を向けてみてほしい。

そこには、二千年以上続いてきた秩父の物語がある。

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