【エッセイ】恒例行事、職員健康診断を忘れる。
今年も、職員健康診断の季節はやってきた。
病院で勤めているわたしは「日勤」か「夜勤」という二つの不規則勤務をしている。
「健康診断すっぽかし犯」として地位を確立しているわたしは、「絶対にバックレない」ように、必ず夜勤明けの日に健康診断の予定が勤務表に組み込まれている。人の予定には敏感でも、どうしたって自分の予定は覚えられないのだ。
医療職は土日固定休でもないから、毎日の出勤ですらほぼギャンブルである。ざっくりと勤務表を月初めに眺めて、「なるほど。日勤・夜勤・日勤・夜勤のサイクルか」とイメージしたらなんとなく合点がいき、時々早朝から出勤してみたら実は「夜勤だった」なんてことも、ごく稀にある。
そんなわたしが勤務外の健康診断を覚えられるはずもない。「いい加減に確認しなさいよ」と職場の友人咲に呆れられるものの、無理な話だ。
「晴れているから外に出る」と「出勤な気がするから電車に乗る」。このふたつは、わたしにとって同意語である。
忠告は耳から耳へと通り抜け、肝心なことほど残らない。つまりわたしは、自分の健康に全くと言っていいほど興味がないのだ。「今日もご飯が美味しい」それで十分ではないか。
準夜帯の21時。
「おぬしも家系ラーメンとは。気が合うのぅ」
「サトウ、きみも家系の杉田家かい?」
「お目が高い」
「イヒヒヒッ」
絶妙な悪ふざけをしながら、介護士のサトウとカップラーメンにお湯を注いでいる時だった。
「ねぇ。二人とも明日健康診断よ」
不意に、お局ナースの福島さんがそっと会話に現れた。翌日に健康診断。我々は一瞬で青ざめた。あれほど上司から繰り返し注意されていたにもかかわらず、肝心の健康診断の存在をすっかり忘れていたのである。
「ところで、便潜血は二日分出すのよ。持ってきた?」
「ヒィッ……!」
忘れてた。事もあろうことか、今日分の「うんこ」はとうに自宅のトイレに吸い込まれている。明日の朝「うんこ」が出るかどうかすら怪しい。
すべては、肛門次第だ。
「21時までに食事は済ませること」と院内一斉メールが届いていたことが思い出される。健康診断を外部委託した故の細かい指示だった。
そこからわたしたちは無言になり、黙ってカップラーメンを啜った。出だしから躓いている。便潜血に関しては謝罪に徹するのみ。問題は、朝まで健康診断のことを忘れず、間食せずに耐えられるかという一点に絞られた。我々は、食いしん坊なのである。
耐えられない。
12時間も食事を取れないなんて考えられない。
ちなみに昨年も、わたしとサトウは健康診断当日の朝までその事実を忘れ、二人そろって血糖値を爆上げした前科持ちである。
「もう無理かも……サトウ、絶対食べるよね?」
「俺も無理。絶対忘れるし、たぶん忘れたことにして食べる」
健康を知るために心を不健康にする。そんなものが果たして必要なのだろうか。問いがぐるぐると湧いては消える。食べられない。それはたった数時間の話だ。……いや、無理だって。絶望的だ。
空腹でフラフラになりながら働く中で、それでも今夜だけは忘れない気がした。でもわたしの周りには恵まれた同僚がいる。
「食べちゃダメよ、がんばれ」
廊下ですれ違う職員は、振り返っては小さくエールをくれる。そして今年も、わたしの白衣の背中にはガムテープが貼られている。
「エリ、健康診断」と。
朝九時半。
わたしとサトウは処置室で採血を受けていた。普段採血する側の私は、採られる側になると、優しく丁寧な説明が胸にしみる。窓から差し込む光も心なしか柔らかい。
「アルコール綿は大丈夫ですか」
「手は痺れていませんか」
やはり「採血」ひとつとっても、丁寧な説明は大事だ。わたしたちにとっての「日常」も、患者さんからすれば緊張の一瞬なのだ。採血のスピッツが二本目を取り終わる頃だった。
「サトウさん、血管逃げちゃう」
「ヒ、ヒィー……!」
サトウが顔を伏せ、腕を引っ込め、キャッキャっという笑い声が響いていた。いや、彼なりには真剣に怖がっているのだが、わたしにはイチャついているようにしか見えない。
若く優しい健診ナースは、ぱっちりとした目でサトウの腕を凝視し、キャッキャしながらも困り果てていた。どうやら血が取れないようだ。180cm超えの注射が嫌いなアラフォーサトウは、小動物のようにひどく怯えている。わたしはその光景を横目に「お先に」と次の健診場所へ向かった。
健康診断は、さまざまな老化が可視化するから厄介だ。少しだけ身長が縮み、視力が落ち、ちょっと心雑音するね、「テヘッ」とさらりと指摘される。心電図では乳を曝け出している最中に同僚がうっかり侵入してくるトラブルに見舞われながらも、淡々と項目を終えていった。最後のレントゲン撮影を終えた頃、スマホがそっと震えた。
「サトウの血が取れない」
友人、咲からのどうでも良い報告だった。
どうやらあのあとも、採血は失敗が続いたらしい。
「あ、そう」
「エリ、サトウ一回病棟に上がるから取ってあげてくれない?」
「なんで、わたし?」
「え。仲良いから」
わたしは静かに項垂れた。
頭に六文字の言葉が浮かぶ。
めんどくせぇ。
眠い。お腹すいた。帰りたい。化粧落としたい。風呂入りたい。ここからすぐにでも立ち去りたい。
そう思いながらも、なんだかんだ仲の良いサトウを見捨てるわけにもいかず、わたしは私服のまま病棟に戻ると、サトウも後からしょんぼりとナースステーションに足を踏み入れる。顔は整っているのに、服装だけが絶妙にダサい。サトウの胸元には大口を開けた虎がこちらを威嚇している。どういう経緯でこれを買ったのか、理由だけが永遠の謎だ。
「サトウコージです。モスキートエリさん、よろしくお願いします」
やけにしおらしく丁寧に話すサトウと虎は、回転椅子に腰掛けた。ずいぶんと、グラグラしている。
わたしは無言で腕を取り、駆血帯で締め上げ、アルコール消毒をした。温かく筋肉質なサトウの腕には何度も採血を失敗した跡が生々しく残されていた。それでも、なんだかんだ取れそうな血管だ。迷わず正中に針を刺す。
「ヒィッ……‼︎」
サトウがあらかじめ動くことを想定したルートで注射針を素早く進めると、血がスゥッとスピッツのなかに吸い込まれていった。生化のスピッツがゆっくりと満たされ始める頃、ふと、朝の優しい看護師の姿が脳裏に浮かんだ。そして、わたしはこの時初めてサトウに口を開いた。
「サトウ、いま針刺してるから」
「……お、おせーよ‼︎」
こうして、今年もわたしたちの健康診断は無事終了した。
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