【エッセイ】逃れられないわたしたちーー天竺への旅
「仕事と税金から逃れられない拙者は、今日もまだ生きている」
サトウは右手に尿器を持ち、わたしの前を通り過ぎると、汚物室の向こう側へ消えていった。彼は時々、そんな哲学的なことを言う。
生きている限り社会のシステムに翻弄され、仕事を休むという決断をしない我々は、今日もまた働いている。わたしは、横浜の某病院で働く看護師である。
「はいはい」
久しぶりに夜勤勤務が重なった介護士のサトウとは、入職当時からの腐れ縁である。夜勤勤務が始まって、八時間が経過し、深夜0時を過ぎていた。
わたしは、薄暗いナースステーションの真ん中で、静かに項垂れていた。不規則勤務に慣れていても、時々、不意に不調が訪れる。自律神経を整えられないと、体が悲鳴をあげるのだ。
「あたま、いてぇ」
そうわたしがつぶやくと、肘まで丁寧に洗い上げたサトウは、ペーパータオルを素早く三枚取り出した。やたらキレの良い「シャッ」という音が煩わしい。
「拙者は税金、お主は頭痛。互いに逃れられない運命とは過酷よのぉ」
「サトウうるさい」
人生には、逃れられないものがある。
病院で働くこともまた、生きること。
頭痛と共に過ごすこともまた、生きることである。
「エリ。そろそろ、その緊箍児を外す頃じゃないか」
「ほほーん。というと?」
「明日の朝、天竺へいこう」
「のった」
わたしはすくっと立ち上がり、ペーパータオルを丸めて放り投げたサトウの球を、ボールペンで打った。
「バッチコーイ」
深夜のナースステーションの換気口に声は吸い込まれ、そのあとナースコールは一斉に点滅した。
我々は、天竺に行くことにした。
山梨県にあるスパサウナ「オアシス」である。
目的があると、我々ぐーたらコンビは、本領を発揮する。
「エリ、遠目にドクター佐伯を捉えた。いまだ、指示をもらいに行け」
「へぇ‼︎」
「ここは拙者にまかせろ。エリ、今のうちに記録を書くのだ」
「……サ、サトウ…御免っ」
クレーマーの患者、横溝さんに斬られるサトウを置き去りにし、わたしは無表情のまま、パソコンを開いた。キーボードは滑らかに音を立て、完全に五線譜に乗る。指先は今、ゾーンの渦中である。
「サトウ、時が我々を追い越している気がする」
「いや、我々が時を追い越しているのだ」
驚くべきスピードで仕事を右から左へ流し、嘘くさい笑顔のまま、ようやく朝を迎えた我々は、サトウの所有するジムニーに乗り込んだ。
「まずは腹ごしらえと行こうか」
向かうは家系の総本山、吉村家である。到着するとすでに行列ができている。ラーメン二杯分の駐車料金を支払い、我々はその最後尾についた。ラーメンを食べるとサウナに行く気が失せる。行列一時間、摂取時間三分。サトウとわたしは息も絶え絶えに「行くぞぅ」と、その第一の難所をクリアし、オアシスに向かうべく再び急いでジムニーに乗り込んだ。
わたしは、車に乗ると一瞬で落ちる、という特技を持ち合わせていた。眠る、というより、電源が落ちる。人間も機械と同じだと、夜勤明けはよくわかる。
視界の隅に、天空の城が見えた。
BGMは、ラピュタ「君をのせて」である。四十間近のサトウのオアシスは、三十年前から、ジブリだ。陽気なサトウの歌声が聞こえる。
「父さーんが残した、あつーいおもーい。say‼︎」
目の下の隈がえげつない加齢臭のsayが聞こえた頃、ターンはわたしの番だった。
「か、母さんがくれたあの眼差しぃぃ〜」
サトウの眼差しは厳しい。絶対に寝かせてもらえない輪唱ハラスメントはここから約2時間続く。
地球は回り、ジムニーも高速をぐるりとした頃、景色はすでに開けた自然を運んでいた。
相変わらずオアシスの駐車場は古びた鉄の匂いがする。何度来ても、この匂いだけは更新されない。
「エリの脱衣はまかせろ、得意なんだ」
「はっ、ご冗談を」
わたしにとってサトウハラスメントを交わす瞬間が閾値の絶頂と言っても過言ではない。見慣れたおばちゃんの受付にホッと安堵する。エレベーターが二階に着くと、我々は顔も見ずに同時に叫び、背を向けた。
「解散」
男女でサウナに来る意味が、果たしてあるのだろうか。ほぼ、別行動である。サトウの加齢臭がやけになつかしく感じる。
暖簾をくぐると、古びた縦長ロッカーと、だだっ広い脱衣所が「カンサーン」と、囁きかける。絶妙に暗い。そして、絶妙に、怖い。
わたしは服を丸め、余計なものを全部ロッカーに突っ込み、浴室に足を踏み入れた。ヒヤリとした感触が、足の裏から上がってくる。
こちらも圧巻の閑散具合だ。中央部にはやけに浴槽の背が高い、謎の巨大風呂が設置されている。実はプールなのでは、という疑念が拭えない。
わたしは体をこれでもかというほどに擦り上げ、サウナに入った。もわっとした熱気、90度が心地良い。激アツ、灼熱の天国である。
「父さーんがのこしたー」
サトウのジブリが不意にこだまする。だが、もう、何も考えなくていい。そう思った瞬間に、体のほうが先に答えを出していた。
腕に浮かび上がる大きめの雫を拭き取ると、やがて細かなシャンパンが浮かび上がる。サウナに体が適応し、追いついてきた瞬間だった。わたしは、今を生きている。仕事からも、税金からも解放されて。
社会の封印を解かれたわたしは、ついに天竺に足を踏み入れたのだった。しかしながら、まだトトノわない。
次の工程は、水風呂からの外気浴だ。「ヒーッ」と水風呂を通過し、外の冷たい白いリクライニングチェアに勢いよく横たわる。
「ハァン……‼︎」
因幡の白兎状態である。しかしながら、ここで「天竺」を放棄するつもりもない。わたしは静かに耐えた。車中のサトウの声が過ぎる。
「外気浴でトトノウ。我々にとっては、天竺。その基準は、乳首だ。ギンギンになるまで。時は、乳首が教えてくれる。ただ、待つのだ」
サトウは得意げに言っていた。得意げ、というより、少し誇らしそうに。サトウは、誰かに教えるときだけ、自分の体を信じている。
「トトノウ」とは、サウナーの間では当たり前に使われていて、サウナ→水風呂→外気浴の工程を繰り返すことで、収縮した血管から血液が体を駆け巡る極上の感、のことを指すらしい。
わたしの乳首は今「ギ」で、止まっている。「ギンギン」の最初の「ギ」。最後の「ン」のたどり着くまでにはまだ時間がかかりそうだった。乳首と、寒さの対峙がしずかに始まった。
体の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。すると、不意に白い粉がわたしを包んだ。
雪である。
山梨に来るたびにわたしは悪天候をもたらす、雨女ならぬ「雪女」だ。
サウナ→水風呂→雪。
サウナ→水風呂→雨。
サウナ→水風呂→雪。
これを繰り返すうちに、体の内側が「ぞぞぞぞーっ」と震え立つことがわかった。とうとうわたしの乳首は、「ギンギ」に到達した。胸元にも、うっすらと赤みが浮かび上がり「あまみ」が顔を出した時、雪はわたしの顔に美しく舞い降りた。
天竺ーー。
閾値、絶頂である。
これでまた、明日も働ける体になってしまった。
帰路のサトウの運転は荒い。でも、不思議と怖くないのはたぶん、逃げる方向が同じだからだ。帰りの車中、ジブリのBGMに体を揺らす。
うつらうつらと、「トトノウ」と「絶頂」を噛み締めていると、運転席からの振動で一瞬、暗闇の中で星が飛んだ。
「う、はっくしょん‼︎ヨイショ〜」
サトウのくしゃみは、うるさい。「ゲホゲホ」と、続いて咳まで始まる。サトウは、サウナに来ると必ず風邪をひく男なのである。
ハンドルをそっと拭う姿に、わたしはそっと窓を開けた。わたしは風邪の類は一切ひかないが、感染管理だけは異常に厳しい。
「エリ、乳首がギンッギンッなんだけど」
「トトノッたな。おめでとう」
窓の外では、再び雪が舞っていた。
風邪と税金を積んだまま、ジムニーは下り坂を走っていた。それを横目に、わたしは深い眠りに落ちていく。
我々の、天竺の旅はまだ続く。
persiさんに楽曲提供いただきました。こちらを聴きながら、どうぞ。すてき。
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